鎌田魚妙
鎌田魚妙(かまた なたえ)
江戸時代後期の武士(川越藩士)
刀剣研究家
号 九峯
十河源吾、十河魚妙
- 「慶長以来新刀弁疑(しんとうべんぎ)」を著し、新刀の定義を決定づけた。
- かまた ぎょみょう
「古今鍛冶備考 : 犬養木堂注記本 」の福永酔剣の解説によれば、「魚妙はナタエと呼ぶのが正しいが、普通はギョミョウと発音している。子供にも真鰭という名前をつけているところから察して、彼はきっと釣りが好きだったのであろう。」と記している。明治ごろの文献では旧仮名遣いで「なたへ」と記されている。
釣り好きだったかどうかは不明だが、現在の愛媛県の長浜や櫛生といえば瀬戸内に面した港町で、恐らく新鮮な魚介と接する機会は非常に多かったと思われる。実子や養子、養孫に至るまで魚類に関係する名前をつけている辺り、かなり強いこだわりがあったのだろう。
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生涯
- 鎌田魚妙は伊予喜多郡長浜町櫛生の三島神社(愛媛県大洲市長浜町櫛生)の神官・鎌田正広(正謹)の次男(三男だが次兄は早世)として享保12年(1727年)に生まれた。母は同村菊池庄兵衛の娘・都根(つね)。
父・鎌田正広は大和守または和泉守。大膳寿条。明和8年(1771年)5月19日卒。享年76。
- 幼名幸吉、のち喜内。諱を長栄。通称源吾、三郎太夫。以下では「魚妙」で通す。
兄は号 五根(いつね)。鎌田安芸守正忠(忠寿)と名乗り、晩年に五根と改めたという。享和元年(1801年)9月14日没。82歳。
前半生
- 延享3年(1746年)20歳の時に知恩院家司の三善善長を頼って上京し、翌延享4年(1747年)に三善善長の世話で公卿の西洞院時名に仕える。
三善善長は三好長慶の養子・義継の後裔で、三好流の鑑定家。若狭守。
西洞院家は高棟王流・桓武平氏の流れをくむ公家で、家格は半家。時名は桃園天皇に仕え、のち竹内式部に師事し尊王思想を学ぶ。
- 寛延2年(1749年)に江戸に行き、旗本の勝田下野守元溥に仕える。勝田元溥は知行一五〇〇石、寄合。元溥の父・元邑が柳生流師範。
勝田氏はもとは秦氏だという。足利直義に属し、姓を藤原に改めたという。先祖は加賀前田家に仕えていたが、月光院(勝田輝子、喜世、左京の局。6代将軍家宣の側室で、7代将軍家継の生母)がこの勝田氏の出であり、それが縁で宗信・著邑兄弟の代に徳川氏に士官している(ただし宗信は医者だったという)。元溥の曽祖父・著邑がこの月光院の実の父で、兄の宗信の養女となって、のち家宣の側室となった。
著邑の子・元邑は士官することがなかったが、その子・元著は月光院の縁により采地千石を給い、寄合となる。元溥は兄・元著の養子となって相続し、この時千五百石を給う。宝暦5年(1755年)4月27日死去。
- のち三善善長に呼び戻されて養子(三善縫殿)となるが、しかし宝暦2年(1752年)に知恩院門跡の室(坊官)である岩波少進・薗宮内卿らの事件に巻き込まれ三善善長も蟄居の身となる。
- そこで魚妙は十河(そごう)源吾魚妙と改名する。
三善善長の三好家の庶流となる十河を名乗ったという。
- その後、公卿の桜井氏福に仕え、その母・心源院に認められて氏福の弟・貞麿(のち兼文、供敦)の傅役となっている。
- のち宝暦3年(1753年)には貞麿の江戸下向(貞麿は知恩院門跡候補・富貴宮のお供だったという)に同行し、貞麿の叔母にあたるという大奥年寄の松島局と西應寺で会っている。
桜井家は藤原北家水無瀬流、羽林家の家格を有する公家。桃園天皇に仕え、氏福はのち竹内式部に師事し尊王思想を学ぶ。西洞院時名の母が桜井氏福の祖父桜井兼倶の娘にあたり、また西洞院時名の姉妹が桜井氏福室。
松島局は桜井兼供の五女で、氏福の妹。伏見宮邦永親王の第4王女・比宮 が将軍世子時代の家重の御簾中となるのについて享保16年(1731年)4月江戸下向。比宮は2年後に懐妊するも早産で産後の肥立ちが悪く死去。その後は家重付きとなり、家重の子(後の将軍家治)の乳母となっている。家重が将軍となると大奥年寄となる。称松島。安永2年(1773年)6月20日死。65歳。
この知恩院門跡の富貴宮とは、尊峰 法親王のこと。京極宮家仁親王の第二王子。幼名は富貴宮。知恩院門跡を相続することになり桜町天皇の養子となっていた。さらに将軍家重の猶子となるための江戸行きだったという。当時親王は12歳。宝暦3年(1753年)親王宣下。
- 西洞院時名や桜井氏福らは、神道や国学を熱心に修めたためにこれが尊王論者による運動とみなされ、宝暦8年(1758年)朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白・一条道香らにより罷免・永蟄居・謹慎などの処分をくだされてしまう。(宝暦事件、竹内式部一件)
宝暦8年(1758年)に永蟄居。宝暦9年(1759年)5月に式部父子を京都からの追放処分。宝暦10年(1760年)7月に氏福らを免官・遠慮の処分。剃髪を申し渡した。これにより桜井家では氏福の弟・貞麿が兼文と改めて跡を継いでいる。
- この時、魚妙も江州岡崎(のち信楽に移る)に閉居の身となり、その縁からか近衛家領代官であった多羅尾代官の多羅尾光豊に仕えることになる。
松平大和守家家臣
- その後、西洞院時名の子の時義と、前橋藩主・松平朝矩(直基系越前松平家5代、大和守)の娘・茂登(側室山田氏の子)との間に縁談の話が持ち上がり、これを代官としてうまく取り持ったことからか魚妙は、松島局の取次もあって41歳で前橋藩松平家に仕えることとなった。明和3年(1766年)11月25日に結納。
- 松平家では「十河源吾」となっている。
十河源吾
其方義、格式御番抜被仰付候、万端御用筋彌出精可相勤旨被仰付
明和5年(1768年)十月八日御
擬 作百名ニ御直し被下、十河源吾松嶋様江戸外神田御用屋敷十河源吾殿迄差進候旨、四度咲
杜若 差上候、右夏蜜柑翌年ニ至リ差上候段々、
- 松平家は明和4年(1767年)に藩庁を前橋から川越に移しているが、魚妙もそれに従っている。藩では江戸桜田にある松島の別荘に住居を構え、松島の伝え役の務めとなる。霞山稲荷(現、桜田神社)の近くだったという。
- 鎌田魚妙は川越藩江戸藩邸に務める傍らで刀剣研究に打ち込み、安永7年(1778年)に「新刀弁疑(慶長以来新刀辨疑)」を出版にこぎつけている。「鎌田三郎太夫魚妙」としている。
予、壮年の頃より剣相を友にし遊ぶ。同じ志の人々、新刀の勝劣利鈍を乞ひ望む。夫に答ふるに、是ハ彼に勝りなん。かれハ是におとりたらんなど、度重なりて語りし事を記して、新刀の弁疑五巻となれり。かかる事、私に定んハ恐れな有事ならんかし。古作の書に倣て、同じ志の輩、勝劣を予に求る人々のため、書写して予ふる而也
安永六暦 川越家士
歳次丁酉仲秋 鎌田三郎太夫魚妙新刀鍛冶にランクをつけたのは、本書をもって嚆矢とする。おびただしい数の刀工を、上々・上之上・上之中・上之下・中之上・中之中・中之下など、七段階に分けているが、それはよほど自信がなければできない芸当である。「上々」の第一位が津田助広、第二位が井上真改になっていることからも判るように、魚妙は沸え匂いの豊かについて、派手な作風を推奨した。この見方は彼の特色でもあり、また欠点でもあった。あとで、水心子正秀が、あんな大出来の刃文の刀は折れる、と攻撃の的にしたからである。
- 江戸桜田での生活は晩年京都の留守居役に上げられるまで20余年続いた。
- また晩年寛政8年(1796年)には「本朝鍛冶考」を著している。
- 京では、武州川越藩松平大和守の京屋敷である柳馬場に住んでいたという。
松平大和守
屋敷柳馬場二条下ル町
鎌田三郎太夫
下立売新町西
用達 石野長右衛門
御幸町
同 小林金右衛門
- 寛政8年(1796年)8月9日で隠居し、養子の正朔郎(兄・五根の三男。鎌田魚鰭)が跡を継いでいる。
- ※「新刀弁疑略」の編者で実子の鎌田真鰭は寛政2年(1790年)に亡くなったため、兄の三男を養子に貰い受けていた。
- 寛政8年(1796年)12月12日没。享年70。
- ※文化元年(1804年)没で享年78歳だとも。
- 法名は「浄信院照誉智観居士」。墓所は西應寺(芝西応寺町。山号は
田中山 。現住所:東京都港区芝2丁目)。
愛刀・助広真改合作刀
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系譜
鎌田正広──┬安芸守正忠(五根)─┬守輔─┬忠輔 │ ├知恵 └五郎吉(魚渕) │ ├直條(丹治・ニ八郎) │ ├安寿(直枝)、のち正朔郎(魚鰭) │ ├可名 │ ├辰寿(浪江。磯崎浦神主へ養子) │ ├美加 │ └幸吉 ├早世 │ ├長栄(鎌田魚妙)──┬長竜(十河家養子) │ ├之潤 │ ├鎌田真鰭 │ ┝正朔郎(鎌田魚鰭)━━五郎吉(鎌田魚渕) │ └古登 │ ├隠岐守安連(のち大洲八幡宮の禰宜・富永家の養子) ├通広 └夏五郎(のち川越藩士・白井家の養子・八郎通栄)
- 鎌田魚妙の妻はノブ。法名知照院。
子孫
- 長竜は十河家を継いでいる。
- 安永8年(1779年)本の「新刀辨疑跋」は「十河長竜撰」となっている。
- 之潤。幸吉。
- 宝暦9年(1759年)生まれ、安永4年(1775年)没。16歳。
- 仁和吉、のち次郎八。
- 久真。鎌田真鰭(まひれ) ※後述
- 娘:古登
子:鎌田真鰭(まひれ)
- 仁和吉、のち次郎八。久真。
- 明和3年(1766年)2月3日生まれ。
- 「新刀弁疑略」の編者。押形のみを抜粋し、天明7年(1787年)に「新刀弁疑略」を出版している。
- 父・魚妙より早く寛政2年(1790年)9月25日に死んでいる。24歳で早世。
- 残りの男子も亡くなっていたため、兄・五根の三男を養子にしている。
- 刀剣鍛錬も行っており、太刀一振を伊予櫛生三島神社に奉納している。刀剣は失われ、今は三尺五寸の箱のみが残る。
武州川越家臣鎌田三郎太夫魚妙一子同苗次郎八納之
奉納御剣鎌田久真之作
養子:鎌田魚鰭
- 真鰭の養子。正朔郎(魚鰭)
- 実は魚妙の兄・五根の三男。明和4年(1767年)正月朔日の生まれ。
- 寛政2年(1790年)に真鰭が24歳で亡くなった失意は大きく、魚妙の妻ノブが送った手紙には、三男直枝(正朔郎魚鰭)を養子に貰えるよう懇願する文面が残る。
- のち養父と同じく松平大和守家の家臣。十五人扶持。父の死後三郎太夫を襲名している。
無格にて御抱、松島様付人
- 文化8年(1811年)4月13日に京都留守居役を仰せつかっており、文政2年(1819年)には昇殿も果たしている。
先頃も申上候哉、禁裡御所御疱瘡以為済御酒湯御祝儀献上、十万石以上之御大名ニて二月二十五日江戸表にて以仰出 当月二日献上済 此度諸家様共々京留守居にて相済私相勤申候 難有事ニ者此度昇殿仕候、五郎吉儀も副使ニ召連御銀納為相勤申候。四品十万石以上七十三万程ニ御座候、都合一件にて本供乗出八度程ニ御座候献上之節
- 天保4年(1833年)の給帳では、「鎌田三郎太夫京都百五拾石」取りとなっている。
- 弘化2年(1845年)4月15日京都で没。79歳。
- この魚鰭にも子がなく、五根の長男・守輔の五男・五郎吉魚渕を養子に迎えて相続させている。父の死後三郎太夫を襲名している。天保4年(1833年)には父と並んで鎌田五郎吉京都も「五人扶持」を与えられている。
一、高弐百石 京都 鎌田三郎太夫
- この魚鰭にも子がなく、五根の長男・守輔の五男・五郎吉魚渕を養子に迎えて相続させている。父の死後三郎太夫を襲名している。天保4年(1833年)には父と並んで鎌田五郎吉京都も「五人扶持」を与えられている。
兄・鎌田安芸守正忠(五根)
- 享保5年(1720年)生まれ。神道家、歌人。
- 幼名は丹治。通称左京。
- 鎌田安芸守正忠と名乗り、櫛生三島神社の神官職を継いだ。のち忠寿と改める。のち上総守、豊後守。
- 玉木葦斉の門人・大洲八幡宮の神主・兵頭式部守俊に従って修学した。
- 寛保3年(1743年)から明和8年(1771年)にかけて、鎌田家秘伝の神楽歌を収録した「鎮連神楽歌」として編集し、完成させた。
- 延享4年(1747年)、28歳で兵頭守俊より橘家神道を相伝されている。
- 宝暦7年(1757年)に兵頭守俊が49歳で死去。嗣子の神庫守枝が20歳で相続している。
- 天明6年(1786年)忠寿は出雲大社へ参籠し、国造家の次男・千家俊信に橘家神道を伝授している。
- 晩年に「五根(いつね)」と号して歌人としても活躍した。
- 享和元年(1801年)9月14日没。82歳。
弟子
- 弟子に、佐田理兵衛、河合泰蔵、小笠原甚兵衛、蓮華寺承欽、柘植吉英、苅屋定成などがいた。
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