鉋切長光


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 鉋切長光(かんなぎりながみつ)

太刀
長光
名物 鉋切長光
刃長63.9cm、反り2.3cm
重要美術品
徳川ミュージアム所蔵

  • 備前長船派長光
  • 享保名物帳所載

    鉋切長光 在銘長一尺九寸五分 代金二十五枚 御物
    昔し蒲生氏郷所持、佐々木へ被遣、秀吉公へ上る相国様へ進せらる天正の頃なり、其後秀忠公へ進せられ何れの時拝領か、森内記殿家に在り延宝の初上る
    鉋切りと申す仔細は大昔江州堅田に又五郎と云者あり、此刀を所持す、ある時化生の者、日比出入致候大工となり来る、伊吹山へ同道にて行き、山中にて気色變るに付切掛ける、彼者鉋にて受るを鉋共に切ると云

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 由来

  • 享保名物帳によれば、江州堅田の佐々木六角判官高頼の郎党堅田又五郎という武士が、この長光を所持していた。
  • 又五郎が、出入りの大工と共に江州伊吹山へ出掛けたとき(伊吹山の麓で大工と道連れになったとも)、伊吹山山中で大工が突然恐ろしい形相に変わり、堅田又五郎に襲いかかってきたという。
  • 堅田又五郎がこの小太刀で斬りかかると、大工は鉋(かんな)で受けるが鉋もろとも真っ二つになって姿を消してしまったという。それ以後この小太刀を「鉋切」と号されるようになったという。

 来歴

 佐々木(六角)氏

  • この小太刀は、その後佐々木氏が召し上げ、永正(1504)のころ佐々木氏綱が所持している。そこから六角義賢(承禎)に伝わっている。
  • ある時義賢が重い病にかかりそれは大工の祟りだというので、誰かが堅田又五郎の身代わりとなって死んだうえで「長光」を寺に奉納するということになり、一族の鯰江美濃守定実が身代わりとして生きながら愛知郡愛東村の百済寺(ひゃくさいじ)内の竜花院に埋葬されたという。
    百済寺は、金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。現滋賀県愛知郡愛東町。

 信長

  • 永禄11年(1568年)信長は六角義賢を降伏させた後にこの「鉋切長光」も召し上げたと見える。
    六角義賢親子は観音寺城落城後に支城の鯰江城に篭もる。この際に支援を行ったのが百済寺であり、信長の焼き討ちを受けている。この時に入手した可能性がある。また上記の話しを聞いた信長が直接買い求めたともいう。

 丹羽長秀

  • 天正7年(1579年)には、信長から丹羽長秀に対して、周光茶碗を召し上げ、その代物として鉋切の腰物を与えたという。

    六月廿四日 先年惟住五郎左衛門拝領之周光茶碗召上、其御かはりと御諚候て、鐁切(カンナキリ)之御腰物被下作長光、一段出来物、系圖在之刀也。
    (信長公記 卷之十二天正七年己卯)

    周光茶碗は元は安土城普請の褒美として与えたもの。

 蒲生・将軍家

  • その後、「鉋切長光」は蒲生氏郷に渡った。※経緯・時期は不明
  • 氏郷の死後、寛永元年(1624年)4月14日、3代将軍家光が蒲生邸に臨んだ時に、孫の蒲生忠郷より徳川家光に献上された。

    十四日 大御所松平下野守忠郷が邸に御臨駕あり。けふも水戸宰相頼房卿。藤堂和泉守高虎暁天より御先にまかりむかへ奉る。ならせ給へば勅に路地口より忠郷むかへ奉り茶室に入らせらる。頼房卿高虎も従ふ。御膳を献じ御中立あり。再度いらせ給へば。頼房卿高虎も同じく陪座す。先に床に掛し春甫の書幅を撤し。花筒ばかりをかけて燕子花を下に置たりしかば。 大御所みづから花を挿せ給ふ。兼てその御風致拝覧せん事を願ふゆへなるべし。忠郷手前の茶を献ず。召上られて頼房卿にたまひ。卿より忠郷にめぐり高虎にて納む。後の御炭も 大御所手づからあそばし。畢て鏁の間にわたらせ給ひ茶菓をすゝめ奉る。こゝにて御長袴めされ書院に出まし賜物献物そこばく。禮畢て猿楽を催す。次に御膳を供し御宴はじまり。頼房卿御盃たまはり返盃して。その御盃を忠郷にたまふ。此時忠郷より刀劒を献じ其御盃をかへし奉り。かさねて高虎にたまはり。饗宴はてゝ還御なる忠郷は御跡よりまうのぼり謝し奉る。けふ賜物は国俊御発ち。新藤五の御脇差。一文字御刀。こは上杉中納言景勝遺物に献ぜし所とぞ。(略)献物は行平太刀貞宗の脇差。長光刀(銘銫切といふ)

    大御所が28日、家光が29日とする書もある。

 津山藩森家

  • 寛永3年(1626年)11月将軍秀忠が前田利常の娘を養女にして津山藩森忠広に輿入れした際に、婿引出として「鉋切長光」と「当麻国行」の脇差を与えている。

    寛永三年正月二十四日松平肥前守利常が女を台徳院殿御御養女となされ、忠廣に嫁せしめらるべきのむね仰出され、八月十九日従四位下に昇る、十一月入輿あり、土井大炊頭利勝酒井讃岐守忠勝、輿貝桶の役をつとむ。このとき榮中にをいて台徳院殿より鉋切長光の御刀、當麻國行の御脇差をたまひ、大猷院殿より行平の御刀、來國次の御脇差をたまはる。

  • 森忠広が早世して弟(実は関成次の子、忠政の外孫)の森内記長継が津山藩主を継ぎ、延宝2年(1674年)に致仕の挨拶の折に将軍に献上している。

    延寶二年四月二十六日致仕し、五月二十六日得物鉋切長光の刀、をよび芝靈石が墨跡を献じ、御臺所に松榮筆の松に雛鶴の屏風一雙を進らす、

    森長継(もり ながつぐ)
    美作国津山藩2代藩主、備中国西江原藩初代藩主。
    森忠政の重臣・関成次の長男として生まれるが、忠政の実子は全て早世したため、忠政の外孫に当たる長継が忠政の養子に選ばれた。寛永11年(1634年)、養父の死により家督を継ぐ。長継嫡男の忠継は早世し、忠継の子である嫡孫の長成も幼少のため、延宝2年(1674年)4月26日、三男の長武に家督を譲って隠居する。嫡孫長成の成長を待ち、貞享3年(1686年)5月27日、長武は長成に家督を譲って隠居する。しかし、長成は元禄10年(1697年)に嗣子無くして死去してしまったため、長継は弟の関衆之の養子となっていた自分の九男・衆利を長成の継嗣として認めてもらうよう江戸幕府に訴えた。幕府もこれを認めるが、衆利が継承挨拶のため江戸に出府途中、伊勢で乱心したため、幕府は家督相続承認を取り消し、元禄10年(1697年)8月2日に領地を召し上げ、津山藩森家は改易されてしまう。
    幕府は長継に新たに備中西江原藩2万石を与えることで、森氏の存続を許している。長継は元禄11年(1698年)7月11日、江戸芝屋敷で死去。享年89。跡を八男の長直が継いだ。上記「鉋切長光」の献上は、一度目の津山藩2代藩主としての致仕の挨拶時のものである。また長継五男・森長俊に始まる三日月藩主家に伝わったとされるのが「注連丸行平」だとされる。

    ┬池田輝政   【備中松山藩】
    └池田長吉─池田長幸──┬池田長常
                └─鶴   ┌森長武【津山藩3代】  【津山藩4代】【津山藩5代】
          関成次     ├───┴森忠継【津山藩世嗣】───森長成━━━森衆利
           ├────┬森長継──┬関長治【備中新見藩】
     森忠政──渓花院於郷 │     ├森長直【西江原藩2代、赤穂藩主】
      ├───森忠広   │     ├関衆利【津山藩5代】
    ┌智勝院    │   │     └森長俊【津山新田藩→播磨三日月藩】
    ┴名古屋山三郎 │   ├関長政【美作宮川藩】
     前田利常   │   └関衆之【津山藩家老】━━関衆利(→森長成養子)
      ├───亀鶴姫
     珠姫(秀忠次女)
    

 将軍家

  • 延宝6年(1678年)9月本阿弥家で二十五枚の折紙をつける。
  • 延宝8年(1680年)11月29日に将軍綱吉から嗣子・徳川徳松に(築山御前遺愛品の短刀光包とともに)贈られたが、三年後の天和3年(1683年)閏5月28日に徳松が夭折したため、再び将軍家に戻っている。

    廿九日 若君本城にわたらせたまひ御對面あり。(略)來光忠太刀進らせられ。(略) 御所より御手づから長光の御刀。光包の御さしぞへ進らせたまふ。

    延宝八年申十一月廿九日於御本丸西丸御移徙御祝儀之時、常憲院様ゟ被進、鉋切長光御刀無代
    (鞘書)

 水戸家

  • 大正12年(1923年)の関東大震災の時、東京にあった水戸徳川家の蔵刀が焼失してしまったため、徳川宗家から火事見舞いとして、この長光が水戸徳川家へ贈られた。
  • 以来水戸徳川家に伝来し、昭和24年(1949年)4月13日に重要美術品に認定、徳川圀順氏所持。

    太刀 長光名物鉋切長光) 一口
    東京都澁谷區猿楽町 徳川圀順

    徳川圀順(とくがわ くにゆき)は、水戸徳川家第13代当主。父は侯爵徳川篤敬で、父の死に伴って明治31年(1898年)に襲爵。昭和4年(1929年)、「大日本史」編纂の功により公爵に陞爵。学習院中等科を経て陸軍士官学校(22期)卒業後に陸軍歩兵少尉に任官。大正3年(1914年)に病気を理由に依願予備役編入。のち日本赤十字社に入社し、徳川家達の死を受けて社長就任。第12代貴族院議長。昭和44年(1969年)に82歳で死去。
    昭和42年(1967年)に財団法人水府明徳会を設立している。水府明徳会は、2011年に公益財団法人徳川ミュージアムに改組した。


 鉋丸(かんなまる)

太刀
来国行

  • 「金丸」とも
  • 由緒不明

 徳川徳松(とくがわ とくまつ)

徳川将軍家の世嗣で上野館林藩主
江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の長男

  • 延宝7年(1679年)5月6日、当時上野館林藩主であった綱吉の子として生まれる。
  • 母は小谷正元の娘・伝(瑞春院)で、同母姉に鶴姫(徳川綱教室)がいる。
                   ┌徳川吉宗【紀州5代→8代将軍】
            【紀州2代】 ├徳川頼職【紀州4代】
    徳川頼宣────徳川光貞───┴徳川綱教【紀州3代】
                     │
                   ┌鶴姫
    徳川家光───┬徳川綱吉───┴徳川徳松
           ├徳川家綱【4代将軍】      【6代将軍】 【7代将軍】
           ├徳川綱重【甲斐甲府藩主】───┬徳川家宣───徳川家継
           └千代姫            └松平清武【上野館林藩主】
    
    
    鶴姫は延宝9年(1681年)に紀州徳川家・徳川綱教と縁組し、貞享2年(1685年)に婚姻する。宝永元年(1704年)4月12日、鶴姫は疱瘡のため27歳で死去し、翌年には綱教も死去した。
     綱教には嗣子がいなかったため、弟の徳川頼職が4代藩主となるが、同年中に死去。これも嗣子がいなかったために弟の頼方が吉宗(後の8代将軍)と諱を改めて家督を継ぐこととなった。
  • 幼名は、父・綱吉と同じ「徳松」。
  • 延宝8年(1680年)5月、父・綱吉が4代将軍家綱の継嗣となったため、2歳で館林徳川家の家督を継ぐ。
  • 同年11月27日、神田の父の屋敷から江戸城西御丸に移っており、神田邸の家臣団も付き従っている。

    (11月)廿六日 徳松君本城に入らせたまふ。よて板倉内膳正重種御迎としてまかり。まづ三丸にわたらせたまひ。また堀田備中守正俊。御側牧野備後守成貞してむかへしめられ。本城にいらせたまふ。

    (11月)廿七日 徳松君けふより若君と稱し奉るべしと仰出さる。この日本城の大奥より西城にうつらせ給ふ。

  • 11月29日、本丸にて父である将軍綱吉御対面。この時、鉋切長光および短刀光包が贈られる。

    廿九日 若君本城にわたらせたまひ御對面あり。(略)來光忠太刀進らせられ。(略) 御所より御手づから長光の御刀。光包の御さしぞへ進らせたまふ。

  • 天和元年(1681年)11月15日、髪置の儀。

    十五日 若君御髪置の式行はる。(略)若君に白髪櫛具。丈箱。來國光の刀。
    十六日昨日の御祝とて。 若君に國安の御刀御脇差をまいらせ給ふ。

    「七五三」の祝いは、天和元年11月15日にこの徳松の健康を願って行われた催しがその嚆矢とされる。明治神宮-Q&A-
     ただしその由来は平安時代に遡り、数え3歳の「髪置き」、同5歳の「袴着」、同7歳の「帯解き」の儀式が公家から武家に伝わった。それを11月15日に行うようになったのが、綱吉が嚆矢であるという。

    この時、綱吉より「小池正宗」が贈られたとされるが、実記には記載なし。

  • 天和3年(1683年)閏5月28日、5歳で夭折する。

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