酒井雅楽頭家の江戸藩邸
酒井雅楽頭家の江戸藩邸
- 酒井雅楽頭家(主に前橋藩時代)の江戸屋敷の成り立ちと贈答品のまとめ。
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概要
- 酒井雅楽頭家は、酒井広親の次男・酒井家忠に始まるとされる。
- ※広親の長男・酒井氏忠の家系は「左衛門尉酒井家」と呼ばれる。のち庄内藩主家。
- 酒井家忠の家系は、代々雅楽助(のち雅楽頭)を名乗り、雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれた。家忠の後は、信親、家次、清秀、正親と続いた。
- この正親の長男・重忠が酒井雅楽頭家の宗家であり、弟・忠利の家系は別家小浜藩主家として続いた。
【三河酒井氏】 ┌松平泰親 ├松平信光 松平親氏┴松平信宏 【左衛門尉家】 ├───酒井広親─┬酒井氏忠─酒井忠勝─酒井康忠─酒井忠親─酒井忠次─酒井家次〔庄内藩〕 酒井忠則─女 │ │【雅楽頭家】 └酒井家忠─酒井信親─酒井家次─酒井清秀─酒井正親┬酒井重忠〔前橋→姫路〕 └酒井忠惇〔小浜藩〕 左衛門尉家系統 宗家:下総臼井3万石→上野高崎5万石→越後高田10万石→信州松代10万石→出羽庄内14万石 分家:出羽左沢藩1万2千石→改易 分家:出羽国大山藩1万石→改易 分家:出羽松山2万5千石→羽前国松嶺藩2万2500石 雅楽頭家系統 宗家:武蔵川越1万石→上野前橋3万3千石→播州姫路15万石 分家:伊勢崎2万5千石→信州小諸3万石→駿河田中4万石→改易 分家:伊勢崎2万石 雅楽頭家別家:駿河田中1万石→川越2万石→若狭小浜11万3千石 分家:安房勝山(山藩))1万石 分家:越前敦賀(鞠山藩)1万石
厩橋(前橋)藩時代
- 酒井重忠〔西尾→川越→前橋藩初代〕は家督をついで西尾城主となった後、家康の関東入部に際して武蔵川越1万石を与えられた。文禄の役では江戸留守居を務めている。関ケ原の後、平岩親吉が犬山に移ると、慶長6年(1601年)3月厩橋へと移され3万3千石となった。大坂の陣では再び江戸城留守居を命じられている。この後、酒井氏は9代150年間にわたって厩橋(前橋)を統治する。
関東入部に際して厩橋3万石を与えられたのは平岩親吉である。親吉は関ケ原の後、甲斐6万3千石で移され、家康第九子である義直が駿府在城のまま甲斐25万石となった際に傅役となり、甲府城に入って甲斐国当地を行った。しかし尾張清須に入っていた松平忠吉が亡くなると義直が後に入ることになり、親吉も犬山城と所領12万3,000石(または9万3,000石)を与えられて尾張に移り、清洲城(のち名古屋城)に入城して尾張藩の藩政を執行した。
- 重忠の長子・酒井忠世〔那波→伊勢崎→前橋藩2代〕は家督をついで厩橋藩2代藩主となった。
- それ以前に川越で五千石を与えられ、秀忠付きの家老となっている。関ケ原の後、上野国那波郡1万石。秀忠が将軍となると筆頭年寄となり、近江三郡で五千石を加増。家康の駿河城が完成し、秀忠の名代として賀詩を言上した時に「雅楽頭」と改めよと命じられ、以後「雅楽頭」に任ぜられるのが通例となった。上野国善養寺領で五千石を加増され、大坂の陣では秀忠の旗本を務め、戦後には上野国で3万2千石を加増され5万2千石となった。
- 父・重忠が死去すると厩橋3万3千石を継ぎ、合わせて8万5千石となる。老中に列してその後も加増され、12万2千5百石余となった。家光の年寄へと転じ、家光の上洛中に西の丸失火の責任で一時退いたがのち老中となるもまもなく没した。跡を継いだ長男の忠行もその8か月後に後を追うように亡くなったため、嫡孫の忠清が家督を継いだ。
- 忠世の長子・酒井忠行〔板鼻→前橋藩3代〕も上野板鼻に2万石を与えられており、のち1万石の加増を受けた後父の家督をついで15万2500石となった。
- 忠行の長子・酒井忠清〔前橋藩4代〕は、家督を継ぐが若年であったため3万石を上地し、遺領残り12万2,500石のうち上野厩橋藩10万石の相続を許され、弟の忠能にも上野伊勢崎藩2万2500石を分地された。大老職に就任し、のち上総久留里2万石を加増されて15万石となっている。将軍家綱のもとで権勢を振るい「下馬将軍」と渾名された。
「下馬将軍」とは、忠清の邸地は江戸城大手前の下馬札の傍にあったためで(もとは牧野忠成の屋敷)、大老就任後は「左様せい様」と称される将軍・家綱のもとで権勢を振るった。貢物を持って伺候する諸侯が並んだという。寛文の伊達騒動や、延宝の越後騒動の裁定に関与した。また家綱に子がなかったことから有栖川宮幸仁親王を宮将軍として擁立しようとするが、徳川光圀、老中・堀田正俊などの反対にあい、実現しなかった。綱吉が将軍に就任すると、大老職を廃され、堀田正俊が大老となった。
※この弟・忠能の系統はのち信州小諸、駿河田中へと移るが、のち改易され旗本寄合席として存続した。のち忠績が宗家姫路藩の8代藩主となっている。
- 忠清の長子・酒井忠挙〔前橋藩5代〕は初名忠明。15万石を襲封するが、弟・酒井忠寛に2万石を分与し、分家伊勢崎藩の創設を認められた(この伊勢崎藩は幕末まで存続した)。のち2万石加増を受け15万石に復するが、同年に隠居した。雅楽頭家は、秀忠・家光・家綱の3代において重きをなし、忠明(忠挙)も部屋住み時代に老中首座まで上ったものの、父の失脚とともに遠ざけられた。反面前橋藩政に力を入れ、名君と称されるまでに至った。
- 忠挙の長子・酒井忠相〔前橋藩6代〕は家督相続の3ヶ月後に急死し、孫の酒井親愛〔前橋藩7代〕が継いだ。若年だったため、祖父・忠挙が執政として後見した。子どもが生まれず、小浜藩(重忠の弟・忠利の家系。酒井雅楽頭分家)の支藩・越前敦賀藩の2代藩主・酒井忠菊の長男として生まれた酒井親本〔前橋藩8代〕を養子として迎え入れ、相続させている。ここで酒井重忠以来の男系の血筋は断絶した。
姫路藩時代
- 酒井親本も早世し、弟(忠菊の四男)で養子の酒井忠恭〔前橋藩9代/姫路藩初代〕が継いだ。この酒井忠恭の代に「厩橋城」を「前橋城」に改めており、また幕閣への工作も実り播州姫路藩へと転封される。
姫路藩は要衝のため藩主家入れ替わりが激しかったが、この酒井家に変わってからは廃藩置県まで続いた。
なお酒井忠恭の嫡男と次男が早世したため、庶子であった酒井忠仰を嗣子にしたが、この忠仰も早世してしまう。この忠仰の長男が酒井忠以(一得斎、宗雅)であり、弟が酒井抱一である。
- 前橋城(旧厩橋城)は、利根川の相次ぐ氾濫で前橋城まで侵食され続けており、また酒井家の家格を維持するために極度の財政難に陥っており、国替で危機を脱出するしかないという方針になっていた。
- 宝永3年(1706年)に本丸西方櫓および高浜曲輪角櫓が崩れ落ちた。
- 延享(1744-1748)末年には本丸屋敷が危険になった。
- このため寛延元年(1748年)に本丸を放棄して三の丸に移転することになり12月に地鎮祭を行うも、翌寛延2年(1749年)1月15日に姫路転封が下命された。
- この時姫路には結城松平家・松平直基の後裔・松平朝矩が入っていたが、寛延2年(1749年)に領地替の命令がくだされた。
※「鎌田魚妙」が仕えたのがこの移転後の松平大和守家の前橋藩である。一度は前橋城に入った松平朝矩だったが、のち川越城へと藩庁を移している。以後「前橋藩」ではなく「川越藩」と呼ばれる。
- 「姫陽秘鑑」に、年月不明ながら屋敷地の惣坪数を記している。
四ヶ所御屋敷坪数并京都大坂御屋敷坪数之事。
一、大手御上屋鋪九千八百壱拾八坪
南壱百壱拾壱間 西壱百弐拾参間壱尺
東五拾七間 北壱百九拾壱間
一、浜町御中屋鋪七千八百参拾九坪
東七拾弐間五尺五寸 西壱百参拾八間五尺五寸
南七拾間壱尺 北六拾六間三尺
一、大塚御下屋敷弐萬参阡六百六拾五坪
一、新御中屋鋪八千壱百九拾九坪
南壱百八間弐尺余 東六拾六間余
西七拾八間四尺余 北壱百参拾七間壱尺余
一、大坂御屋敷三百坪余
一、京都御屋鋪八百七十坪
大手上屋敷
上屋敷変遷
- ※東京市史稿より「上屋敷」の変遷のみを抜き出したもの。坪数は判明分だけ記載
- 大手内:天正18年(1590年)~寛永11年(1634年)
- 大手前:?~上地天和元年(1681年)正月15日
添地囲込:明暦3年(1657年)3月3日 - 常盤橋内:寛文7年(1667年)11月晦日~天和元年(1681年)3月21日
- 日比谷門内:天和元年(1681年)3月21日~元禄6年(1693年)12月4日
7076坪 - 小川町:元禄6年(1693年)12月4日~宝永5年(1708年)10月25日
7165坪 - 大手向左角:宝永5年(1708年)10月25日~
囲込:文政13年(1830年)5月+天保7年(1836年)12月
添屋敷 大手向右角:文政12年(1829年)2月晦日~返上文久3年(1863年)2月6日:四千坪
- ※「大手前」の拝領年月が不明だが、「常盤橋内」と合わせて天和元年(1681年)に上地しており、その後日比谷門内に移ったように見える。その後は一応繋がっている。
- 天和元年(1681年=延宝9年9月29日に天和改元)2月27日には、下馬将軍の4代酒井忠清が隠居して5代酒井忠挙が家督を継いだ年になる(ただし2万石を弟に分与)。酒井忠清は5月に死去。
「前橋市史 第2巻」の「上屋敷」
- ※以下は「前橋市史 第2巻」で「上屋敷」としてまとめられているもの。かなり変遷がある。上屋敷の授受だけであれば、上記「東京市史稿」の変遷がわかりやすい。
- 天正18年(1590年)8月、酒井重忠は関東入部の頃に土橋口、大手外の堀端に屋敷地を賜っている。※慶長江戸図で「三ノ丸大手門内に52間酒井雅楽頭」
酒井忠世ノ大手土橋口ノ邸ヲ賜フ、
- 同じ時、2代酒井忠世も大手土橋外に屋敷地を賜っている。秀忠の死後に西の丸を拝領するも、寛永11年(1634年)の家光上洛中に失火のため焼失し、忠世は東叡山に逼塞した。のち赦されて西の丸御番を拝命し、三の丸に屋敷を拝領した。
- 寛永7年(1630年)正月に大御所秀忠・将軍家光が御成。来国光を賜る。寛永14年(1637年)4月に家光が西の丸の忠世邸に臨む。
- 4代酒井忠清は、正保3年(1646年)11月28日に天海僧正のあと屋敷(もとは牧野駿河守屋敷と天海僧正の祈祷所)を別に賜った。明暦3年(1657年)振袖火事で焼失したが、同年3月に松平和泉守乗久および本多内記の屋敷を加えて9088坪の屋敷(南111間、西123間1尺、東57間、北191間)となっている。寛文元年(1661年)に焼失。その後、延宝8年(1680年)まで18年居住していたが、延宝9年(1681年)に召し上げとなり、大塚屋敷へと移った。
- 寛文11年(1671年)伊達騒動の際、3月27日に忠清邸に集まり僉議。
- 席上、原田甲斐が伊達安芸に脇差で切りつけ、伊達安芸は受けようとするも脇差を抜いただけで絶命した。のち柴田外記や古内志摩、蜂屋六左衛門らが原田甲斐を討ち取った。詳細は「牛王吉光」の項を参照。
- 寛文11年(1671年)伊達騒動の際、3月27日に忠清邸に集まり僉議。
- 延宝8年(1680年)12月26日大塚屋敷へ移る。
- 延宝9年(1681年)正月8日大手上屋敷返上。
- 5代忠恭は、部屋住み時代に常盤橋内の松平主殿頭屋敷を拝領し、延宝8年(1680年)まで14年間居住した。天和元年(1681年)の襲封に際して常盤橋邸地を返上し、土井能登守屋敷となった。代わって日比谷御門内の松平日向守屋敷を拝領し、元禄5年(1692年)まで12年間居住した。のち小川町に屋敷を拝領し16年間居住、隠居後は巣鴨屋敷へと移った。
- 元禄6年(1693年)7月、本所に屋敷の代地を賜る。
- 同年12月鷹匠町松平日向守の旧地への屋敷替を命ぜられる。
- 元禄11年(1698年)屋敷焼失。
- 宝永4年(1707年)11月隠居。同月大塚屋敷へ移る。
- 6代忠相は宝永5年(1708年)に再び大手の屋敷を拝領し、以後2回類焼するも安政4年(1857年)まで代々の藩主が居住した。安政4年(1857年)9月に松平越前守の屋敷地を拝領して引き移った。
- 大手屋敷の総坪数は20538坪余に及んだという。
浜町中屋敷
- 元和8年(1622年)2代忠世の時に、浜町の内蛎殻町屋敷を拝領した。
- 坪数は7838坪(東72間5尺5寸、西138間5尺5寸、南70間1尺、北66間3尺)。
- 天和元年(1681年)4月中屋敷の書院を大塚に移築している。
- 宝永元年(1704年)の火災で類焼し、5400坪余差し上げ。大塚辺に代地を賜る。新しい中屋敷は一橋殿屋敷と巣鴨下屋敷のうち1万5千坪を相対替で拝領。
- 中屋敷は屋根の蛎殻を葺いたため蛎殻屋根と称していたが、忠恭の時に瓦屋根にしたという。
中屋敷 蛎殻町
切坪上地宝永元年(1704年)3月。相対替囲込寛政4年(1792年)2月12日。切坪相対替文政7年(1824年)8月20日。相対替囲込安政初年頃。坪数15305坪余
中屋敷 浜町
相対替天保2年(1831年)2月晦日。相対替年月不詳。4553坪。
天保2年(1831年)2月晦日巣鴨下屋敷の内3500坪と細川越中守中屋敷と相対替せしものなり。
下屋敷 蛎殻町
相対替 寛政2年(1790年)11月11日
上地 寛政12年(1800年)11月
2768坪余
・土井兵庫頭中屋敷2768坪を酒井徳太郎(姫路藩4代酒井忠実?)、同人湯島天神屋敷1866坪余を大村信濃守へ、四方相対替。
・上地後、銀座引替地。
- 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図 / 1 右下「雅楽頭」
大塚下屋敷(巣鴨下屋敷)
下屋敷 巣鴨
拝領 寛文5年(1665年)10月
切坪相対替
宝暦6年(1756年)12月水野源右衛門小川町1320坪、巣鴨1000坪水野え
寛政4年(1792年)閏2月 ※蛎殻町中屋敷の相対替参照
文化13年(1816年)12月花房兵右衛門拝領屋敷巣鴨650坪酒井え、酒井18062坪の内100坪を花房え
文政7年(1824年)8月20日兵部卿殿下屋敷巣鴨10558坪の内7511坪酒井え、酒井中屋敷蛎殻町15305坪の内3937坪松平越中守え、三方相対替。
天保2年(1831年)2月晦日細川越中守浜町中屋敷と切坪相対替。
囲込 文政7年(1824年)8月
坪数不詳
※ただし下の文章とはだいぶ異なる。
- 元和2年(1616年)2代酒井忠世の時に拝領。当時まだ世情不安定のため、土井利勝とともに中山道の押さえとして拝領し、辻番所を設けたという。
- 「大塚」の名は土居屋敷に大きな塚があったためという。
- 酒井屋敷は駒込町の際に続いていたが、のち土居屋敷となっていたという。
- 忠恭の頃、大塚屋敷には生竹を折り返しにした垣であったが、久留里領からの萩を植えて萩の垣とし、その外に杉苗を植えたという。
- 元禄のころに千川上水が出来たため、その水を分けて引き泉水滝とした。
- 享保6年(1721年)3月に牛込から出火した火事により類焼し、その後新殿築造の際に水道は取りやめとなったという。
- のち相対替や買上げが続けられた結果、文政頃には27123坪余になっていたという。
- 延宝8年(1680年)12月 4代酒井忠清が大塚屋敷に移っている。※このときは上屋敷?
- 宝永4年(1707年)11月 5代酒井忠挙が隠居後に大塚屋敷に移っている。
- 享保5年(1720年)4月 7代酒井親愛が隠居後に大塚屋敷に移っている。
- 〔江戸切絵図〕. 駒込絵図 / 1 中央街道沿い
その他
常盤橋御門内屋敷
- 元禄2年(1689年)7月に黒田勢州侯の跡屋敷を拝領する。元は松平主殿頭屋敷であったという。
- 別の記録に、天和元年(1681年)3月に日比谷へ屋敷替したという。
- また別の忠挙の記録では寛文7年(1667年)に松平主殿頭屋敷を拝領したとする。
上屋敷 常盤橋内
拝領 寛文七年十一月晦日
上地 天和元年三月廿一日
坪数不詳
河内守忠挙ノ上屋敷ナリ。寛文武鑑雅楽頭屋敷大手口角、河内守屋敷常盤橋内ニ作ル。
年録、寛文七年十一月晦日常盤橋松平主殿助上リ屋敷被下之、酒井河内守。
同書、寛文七年十二月十一日酒井河内守、右今日常盤橋屋敷え移徙済。
上地後大野藩土井家ノ屋敷ニ成。
馬場先御門内屋敷
- 寛永13年(1636年)正月酒井忠世の時に拝領。
神田橋御門外中屋敷
中屋敷 神田橋外
拝領 文化6年(1809年)3月22日
上地 文化14年(1817年)12月23日
2004坪余
- 文化6年(1809年)3月拝領。もとは水野壱岐守の上屋敷という。2004坪。
- 添屋敷 神田橋内:拝領安政4年(1857年)9月21日、5714坪余。もとは松平越前守中屋敷5714坪余。大手前添屋敷差し上げの代地。
新小田原町屋敷
- 神田屋敷とも。明暦の大火で焼失。
築地鉄砲洲屋敷
下屋敷 鉄砲洲
拝領 正徳5年(1715年)4月
上地 享保3年(1718年)7月
3300坪
- 3300坪。
- 享保3年(1718年)7月に差し上げ。
本所石原屋敷
下屋敷 本所
拝領 延宝5年(1677年)12月15日
上地 元禄4年(1691年)2月
3019坪
- 延宝5年(1677年)12月15日部屋住み時代の忠恭が下屋敷として賜った。
延宝5年(1677年)12月15日酒井河内守右本所ニテ下屋敷被下之。
上地後宮津藩本荘家ノ屋敷ニ成。
- 四ツ目橋、三ツ目橋の間の北、五千坪のちを元禄6年(1693年)7月に代地として拝領。
- 元禄14年(1701年)酒井忠寛(伊勢崎藩初代)の麻布屋敷と相対替となった。※上で掲出
本所牛島屋敷
下屋敷 本所
拝領 元禄6年(1693年)7月4日
相対替 元禄14年(1701年)12月
5000坪
- 元禄9年(1696年)4月忠恭の時に買い上げ。代金300両。もとは松平甲斐守家来の畠山助左衛門の抱地。
本所扇橋屋敷
- 天明5年(1785年)9月忠以の時に抱地とする。
- 西葛西領八右衛門新田1766坪。
- 寛政3年(1791年)11月に払い下げ。
本所鷭場屋敷
- 寛政5年(1793年)10月忠道の時に須田与十郎から譲渡された。
- 代金257両2分。
- 寛政9年(1797年)12月尾張家士・山村伊勢守へ譲渡。
深川海辺新田屋敷
- 寛延2年(1749年)3月、酒井忠恭の時に330両で買い上げ。
- 4379坪、建坪754坪。
- 明和2年(1765年)12月に最上斎宮へ譲渡。
深川佐賀町屋敷
- 文政11年(1828年)正月松平備中守屋敷のうち、1154坪を借用。
- 文政12年(1829年)11月細川越中守へ相対貸しとなった。
日比谷御門内屋敷
上屋敷 日比谷門内
拝領 天和元年三月廿一日
上地 元禄六年十二月四日
坪数五阡七拾六坪余
- 天和元年(1681年)3月拝領。もとは松平日向守信之の屋敷。
- 元禄5年(1692年)8月日比谷御門御多門御預かりとなり、元禄6年(1693年)に小川町屋敷を拝領。
高輪屋敷
- 元禄4年(1691年)8月忠恭の時に10年間借地。
- 坪数5040坪。
- 元禄15年(1702年)8月に抱地となり、同年9月に松平土佐守に代金800両で譲渡。
品川戸越村屋敷
下屋敷 品川領戸越村
拝領 天明2年(1782年)6月26日
上地 寛政3年(1791年)12月
1861坪余
- 天明2年(1782年)6月小川町屋敷の代地として拝領。もとは細川越中守屋敷。
- 寛政3年(1791年)差し上げ。※大番頭・岡部出羽守へ
芝金杉陣屋
陣屋 芝金杉
拝領 嘉永6年(1853年)8月
上地 文久元年(1861年)10月
17500坪余
- 安政6年(1859年)9月、内海警備二之台場預かりとなり、万延元年(1860年)2月台場付陣屋拝領。
- ※もとは鳥取池田家の芝金杉下屋敷鳥取池田家の江戸藩邸参照
- 坪数16434坪余。
- 文久元年(1861年)10月差し上げ。神奈川表の松平越後守の陣屋地を拝領。
麻布屋敷
下屋敷 麻布六本木
相対替 元禄14年(1701年)12月
相対替 元禄15年(1702年)12月
4316坪
- 元禄13年(1700年)2月酒井忠寛(伊勢崎初代藩主)が拝領。
- 元禄14年(1701年)忠恭の時に本所三ツ目四ツ目の間の屋敷と、酒井忠寛屋敷、最上縫殿の柳原屋敷の三方相対替で受け取り。※以下で掲出
元禄14年(1701年)12月麻布六本木酒井下野守屋敷、相対替ニテ酒井雅楽頭。同15年相対替ニテ五島左衛門尉。
- 坪数は4300坪余という。
- 翌元禄15年(1702年)12月に小川町山崎四郎左衛門屋敷1800坪余と相対替。
上中里村屋敷
- 元禄17年(1704年)正月、浜町屋敷を拝領するが、同年3月に差し上げとなり、代地として西ヶ原宮外戸に7000坪を拝領。
- のち隣接する5000坪余を抱え入り。
- 享保11年(1726年)12月酒井親本御用で付専用となった。
西ヶ原下屋敷
下屋敷 西ヶ原
拝領 宝永元年(1704年)3月
上地 享保11年(1726年)11月
7000坪
- 浜町屋敷の上地した代地として宝永元年(1704年)3月26日拝領。もとは今井九衛門支配の内私領寺領のうち西ヶ原7000坪。※元禄17年(1704年)
- 正徳5年(1715年)、続きの上中里村百姓地請い受け、同家抱地。
- 享保11年(1726年)11月、御用にて召し上げ。御用屋敷に成。
牛込屋敷
- 拝領年月不明。
- 酒井重忠の娘が本多正純の正室となっていたが、元和7年(1621年)に本多家が断絶したため酒井家で引き取ったという。
天神下屋敷
下屋敷 湯島天神下
拝領 天明5年(1785年)11月25日
相対替 寛政2年(1790年)11月11日
1866坪
- 天明5年(1785年)11月忠以の時に拝領。もとは藤坂外記の隠居屋敷。
- 湯島天神の妻恋坂下の1866坪余。
- 寛政2年(1790年)11月に三方替で土井兵庫頭跡地と替地となった。
隅田川屋敷
下屋敷并抱屋敷 石濱
拝領 文政13年(1830年)11月
上地 文久元年(1861年)5月
116坪余
- 天保元年(1830年)11月石浜川添(橋場町川添なだれ之場所)のなだれ地116坪余を拝領。※文政13年(1830年)
- その後、隣接の畑地などを買い上げ、天保2年(1831年)普請を開始。
- 抱屋敷は同年中神明神主・鈴木雅楽より譲渡。
- 天保6年(1835年)中まで地続き抱屋敷に。
- 天保9年(1838年)3月焼失。
- 文久元年(1861年)5月14日上地116坪余。百文銭鋳立所囲い込み。
その他地域
大坂町屋敷
- 寛政2年(1790年)11月に譲り受け。
- 2768坪。
- 寛政12年(1800年)11月差し上げ。
大坂蔵屋敷
- 寛延2年(1749年)忠恭の姫路転封に際して、柳原式部大輔から譲り受け。升屋新右衛門が名主。
- 中之島常安町にあり、惣坪1594坪余。
京都屋敷
- 酒井忠世の時、寛永2年(1625年)堀川油小路上ル町に807坪余を拝領。囲い込みの地を合わせて惣坪1010坪余。
大津屋敷
- 慶長10年(1605年)酒井忠世が在京料として近江五千石を拝領した際に、大津に代官を置いていたため蔵屋敷として抱地となったという。
- 貞享4年(1687年)忠恭の時、大津札之辻から湖水よりの地320坪を買い上げ、抱地は払い下げとなった。
- さらに寛延2年(1749年)の姫路転封の際に不要となったため払い下げ。
関連項目
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