酒井抱一


 酒井抱一(さかいほういつ)

江戸後期の絵師・俳人・僧侶
俳号 杜陵(杜綾)
狂名 尻焼猿人

Table of Contents

 概要

  • 姫路藩2代藩主・酒井忠以の弟・酒井忠因(ただなお)のこと。
  • 琳派の画家であり、狂歌でも名を残した。
  • 狂名は尻焼猿人(しりやけのさるんど)。俳号は、白鳧・濤花、後に杜陵(杜綾)。
    なお「濤花」は先輩より譲られたもので、また次に譲っている。
  • 以下は「抱一」で通す。※ただし「抱一」は出家後の号

 生涯

  • 宝暦11年(1761年)に姫路藩の小川町別邸にて誕生。父は姫路藩世嗣・酒井忠仰(その父=祖父は姫路藩初代・酒井忠恭)、母は松平乗祐の次女・里姫(玄桃院)。兄に姫路藩二代となる酒井忠以(ただざね)。

    宝暦十一年巳七月朔日小川町ニテ御誕生、御七夜之節善次ト御名ヲ被進

    宝暦六年十二月ニ日小川町水野源右衛門邸地千三百廿坪巢鴨邸中ニテ千坪相對替願ノ如ク相濟因テ此地ヲ拝領アリテ忠望(※酒井忠仰の前名)君ノ邸地トナル
    同七年七月二日忠望君小川町ノ邸ヘ移徙ナル

    • 実父である酒井忠仰は明和4年(1767年)8月20日抱一7歳のときに蠣殻町の中屋敷にて死去、享年33。明和6年(1769年)8月に外祖父・松平乗祐死去。明和8年(1771年)3月5日11歳のときに生母も死去。※後に兄も36歳で死んでいる。
      抱一は巳年生まれであるため弁財天を信仰しており、度々江の島詣を行っており、画題にも弁財天を取り上げている。
  • 幼名は善次、通称は栄八。諱は忠因。※実兄・酒井忠以の「玄武日記」では「榮八」で通されている。

    明和四年亥十一月十五日御實名忠因ト被進林大學頭様御考被成候ニ付前次様ヨリ御太刀馬代御送被進之

 部屋住み時代

  • 抱一12歳の時、安永元年(1772年)に祖父である酒井忠恭も没したため、明和4年閏9月20日に養嗣子となっていた実兄の酒井忠以が18歳で嫡孫承祖して二代藩主となる。兄が国元に帰国する際には抱一(忠因)を仮養子として万が一に備えた。
    元々父の酒井忠仰は庶子で大身旗本とされていたが、嫡子とした忠得が早世し、ついで忠宜も早世したため、忠仰を戻し嫡子としていた。この忠仰も家督相続前の明和4年(1767年)に早世した。
  • 実兄の忠以も茶人・俳人として知られ、当時大手門前の酒井家藩邸は文化サロンのようになっていたという。
  • 抱一(忠因)は安永6年(1777年)に17歳で元服して1000石を与えられるも、同年に兄に実子・忠道が生まれると、仮養子願いも取り下げられてしまう。
  • 他大名家からの養子縁組の話もあったが、抱一は文芸の道に入り、出家前は俳諧、金春流の能、古典、書などに打ち込んだ。さらに長崎派の宋紫石・紫山親子について画も学び歌川豊春の影響を受け浮世絵も描いた。
  • また狂歌にものめり込み、四方派の大田南畝(狂名 四方赤良(よものあから))らと交わった。「通言総籬」序で「猿人卿と共に、京傳を愛の一曲を唱て、糸巻をチひねるごと爾。」と結んでいるが、この「猿人卿」(尻焼猿人)とは酒井抱一のことである。
  • 安永9年(1780年)には上屋敷の長屋へと移っている。
  • 天明元年(1781年)には兄のお国入りに従って姫路入りしている。※往路9月21日~10月7日。復路天明2年(1782年)4月15日~5月朔日江戸着。
    • ※天明7年(1787年)頃には実兄で藩主の忠以は茶会に凝っており、松平出羽守(松平不昧)との手紙のやり取りが多い。
    • ※また天明7年(1787年)には未校ではあるものの古刀銘鑑のような冊子を版下の清書まで行っている。のち田中抱二から永峯光寿の所蔵となったという。
  • 寛政2年(1790年)に兄である二代藩主・忠以が江戸藩邸で死去。長子の忠道が跡を継いだ同じ年、抱一は酒井家本邸を出て蛎穀町中屋敷(浜町と呼ばれ、箱崎川の近くだったため箱崎/筥崎とも書かれる)へと移る。この頃俳号を「筥崎舟守」としている。

    寛政二年戌四月廿八日御中屋敷御住居御不審出來ニテ廿九日御引移御住居ハ御物見也此節御本供御忍供ノ御行列相極

 光琳の再発見

 春條(小鸞)

  • この時蛎穀町中屋敷の新居に女性を伴っており、これは吉原大文字屋の「一本(ひともと)」(摘古採要)あるいは「誰が袖(誰袖、たがそで)」だともされているが、現在は同じ大文字屋の「香川」である(閑談数刻)とされている。

    小鸞夫人、後に剃髪して、妙華尼と云。鶯邸君御召仕、元は大もんじやの遊女、賀川。敬義(董堂中井敬義)門人にて書をよくし、茶を好み、俳諧をし、河東ふし半太夫ふし三味せんを曳

    なお吉原火事の際に一と本の手を引いて逃げたという話もあり、さらに混乱に拍車をかけている。
  • 吉原では、揚代二分の座敷持(ニ人禿)として8年勤め、天明6年(1786年)春から秋の間に退楼したという。中屋敷に新居ができる寛政2年(1790年)までは大文字屋の内所か寮にいたともいう。
  • 酒井家では奥女中・春条(はるえ、春條)。画号小鸞(しょうらん)女史、のちに剃髪して妙華尼と号した。

    妙華尼
    抱一若年からとにかく放縦な我儘ものであつた為か、正妻とて迎へたことはなかつたらしい。吉原へ入りびたりの果には、とう/\おいらんを受出して一緒になることゝなつた。その遊女は大文字樓の誰が袖だといひ、また一本だといひ、兩説あつてその源氏名は分らないが、ともかく本名はおちかといつた。春榮といふ名のあるのは抱一の處へ來てからのことであらう。雅號を小鸞女史と稱した。抱一の傍に居れば自然に教育せられて、俳句もよみ字もよくかいて晩年には抱一そつくりにうまい、繪も一寸はやつたらしい。いつ頃抱一と同棲するやうになつたかは分らないが、凡そ寛政の末頃からか文化の始め頃かと想はれる、抱一へ來てからは表向き御附女中といふ名目で居つた。それが此年(文化十年)剃髪して妙華尼と稱することゝなつた

  • さらに3年後本所番場(東江寺〔多田薬師〕隣)へと転居している。ただしあくまで住居は中屋敷であって本所へは時々逗留するという建前となっていた。

    本所番場の御屋敷は須田助十郎抱屋敷なりしが、寛政五年十月九日御譲受にて住居向畳建具共譲受にて代金二百五十七両二分被差出由忠因主榮八御移徙ありて御住居なりしが、門前は浅草川流れて隅田川につゞき、高殿多田薬師の緑林を見おろし、川の向ひには駒形堂を望みて風景閑寂の地にて、隠宅と成し玉ふに勝れたる所なりしが、意外なるは冬寒気堪がたく、夏さらに涼気なくて夕陽高殿にさし入て、炎暑凌かね玉ひて、僅に四とせを歴て寛政九年の十二月、山村伊勢守へ売渡し給ふ、もとよりいとせまく二百九十七坪の屋敷なりし

    同年十月十一日、御願ニテ番場御屋敷エ被成御隠居候様被仰出、表向右之御場所御住居ニハ難相成、御中屋敷御住居ニテ折々御逗留ニ被為入候趣ニ可相心得旨被仰出

    多田薬師こと玉嶋山明星院東江寺は当時東駒形にあり昭和3年(1928年)7月に現在地である葛飾区東金町へと移った。当時の多田薬師は文人墨客のサロン的な場になっており、書画会なども催されていたという。谷文晁などもここで書会をやっている。

    寛政の改革を進めていた松平定信は寛政5年(1793年)7月に失脚し、老中首座ならびに將軍補佐の任を解かれた。ただしその後も松平信明(三河吉田藩主)、牧野忠精(越後長岡藩主)らが残って寛政の遺老と呼ばれた。この松平信明の右腕が松平乗完(三河西尾藩2代藩主)であったが、彼は酒井忠因こと酒井抱一の叔父に当たる人物(生母里姫のきょうだい)であった。しかしこの松平乗完も寛政5年(1793年)8月に死去する。

 出家(抱一号)

  • ここで書かれている12月の2ヶ月前の10月に、西本願寺の文如上人(1744-1799)が江戸に下ってきたのを機として剃髪して出家し、等覚院文詮暉真(もんせんきしん)と号した。権大僧都の僧位となる。また九条家の猶子となり準連枝と遇せられている。
  • 同年11月~12月には京へ挨拶旅行を行っている。この頃にはお付きの諸士は3人(鈴木春卓、福岡新三郎、村井又助)のみと書かれている。

    寛政九年丁巳十月十八日、花洛文如上人参向ありしおりから、御弟子となりて頭剃おとし

    寛政九年十月十八日、築地本願寺ニ於て夜酉ノ刻御得度有之、等覚院殿と奉称
    同年十一月三日、京都エ御発駕、十七日京都御着
    同年十二月御不快ニ付、江戸表ニ御下向被成度、御門跡エ御願ニテ、十二月三日京地御発駕、十七日御帰府、築地安楽寺エ御住居

  • のち浅草千束へと移った。
  • 出家の翌年、老子の巻十または巻二十二、特に巻二十二の「是以聖人抱一爲天下式(是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る)」の一節から取った「抱一」の号を付け、終生名乗り続けた。
  • この頃谷文晁・亀田鵬斎・橘千蔭らとの交友が本格化し、また市川團十郎(5代目、初代市川白猿)とも親しく、向島百花園や八百善にも出入りしていた。
  • 文化2年(1805年)には浅草弁天山に移る。
  • さらに文化6年(1809年)には下谷金杉大塚村(下根岸)へと転居し、ここに庵・雨華庵(うげあん)を設ける。
    これは無量寿経の「大千応感動虚空諸天人当[雨]珍妙[華]」あるいは「應時普地六種震動天[雨]妙[華]」から取ったのではないかとされている。ちなみに小鸞は出家後に妙華尼と号している。

    この雨華庵の額の題字は、甥に当たる酒井忠実(姫路藩4代藩主)が揮毫している「文化十四年丁丑十月十一日乙巳書之従四位下雅楽頭源朝臣忠實」。抱一とは交流が深く、抱一の句集では「玉助」の名で登場しており、また抱一の部屋住み時代の堂号「春来窓」を継承し、抱一が忠実の養嗣子就任の際に贈った号「松柏堂」を名乗っている。正室の隆姫(横須賀藩4代藩主・西尾忠移の娘)も抱一から「濤花」の俳号を贈られている。
  • 文化12年(1815年)には光琳百回忌を催している。また毎年6月2日には光琳忌を行っている。
  • 文政11年(1828年)11月29日下谷根岸の庵居、雨華庵で死去。享年68。
    • 墓所は築地本願寺別院(東京都指定旧跡)。法名は等覚院殿前権大僧都文詮暉真尊師。葬儀から七七日(四十九日)法要まで酒井雅楽頭(先代忠実)から費用が出たという。
    • 形見分け。差料行光の短刀 銘「山雀」は池田孤邨か田中抱二が拝領し、昭和初期には藤田英次郎氏が所持していたという。
    • 小鸞こと香川は最期を看取ったという。小鸞は天保8年(1837年)10月27日死去。抱一の墓の横に葬られた。
  • 酒井鶯蒲(さかいおうほ)は築地本願寺の末寺である市ヶ谷浄栄寺住職、香阪壽徴(雪仙)の次男で、小鸞の願いを受けて文政元年(1818年)に11歳で雨華庵へと入った。この酒井鶯蒲も絵を能くし、作品が残る。天保12年(1841年)に34歳で死去。
    この鶯蒲を春條との間の子とする説もある。
  • 雨華庵は、酒井鶯一が継いだ。酒井鶯蒲に子はなく、築地善林寺の長子を養子とし雨華庵3世酒井鶯一として継がせた。この酒井鶯一の妻が「おすま」である。このおすまの手帳覚に慶応元年(1865年)8月21日に雨華庵が焼けたことを記す。

 転居歴

  • 「閑談数刻」の「御住居」
  1. 大手御句集に小かねの駒あり
  2. 本所椎の木やしき脇 ※本所番場東江寺隣
  3. 大音寺前 千束邸と云 大もんじやうしろ裏道也 ※浅草千束
    この「大音寺前 千束邸」であり大文字屋後ろ裏道というのが大文字屋を落籍せた香川と会うためであったともされる。
  4. 鳥こえ 紙あらい橋角 
  5. 下谷金杉うしろ大塚鶯邸 初音の里と云 雨華庵是也 此所に而御入定被遊候 ※下谷金杉大塚村

 関連項目


Amazonファミリー無料体験