吉原
吉原(よしわら)
Table of Contents |
|
概要
- いわゆる江戸の遊郭「吉原」は、元は日本橋にあったものが明暦以降に浅草へ移転した。一般的にこの2つを区別するため、日本橋にあった頃の吉原を「元吉原」、浅草に移転して以降の吉原を「新吉原」と呼ぶ。
沿革
- もともと吉原は元和3年(1617年)に日本橋葺屋町続きの2町四方(日本橋堀留一丁目あたり)に許可されたもので、翌元和4年(1618年)11月に営業を開始したという。
ただし慶長期にも葭原の記述があり、元和以前にも女郎町があったことが指摘されている。例えば「吉原大全」では、慶長13年(1608年)に元誓願寺前に移され、慶長17年(1612年)に葭原に移ったという。
- 家康の江戸入部以後、江戸の町には様々な場所に遊女屋が散在しており、麹町八町目(京・六条からの移転)や、鎌倉河岸(駿河府中弥勒町からの移転)などに分かれていた。
- これを一ヶ所に集めて営業することを提案したのが庄司甚右衛門で、数度に渡って提案するも流され、慶長17年(1612年)にようやく願いが聞き入れられる。
途中慶長10年(1605年)には江戸城普請のため、柳町の遊女屋は御用地として没収され、元誓願寺前に移転されている。庄司甚右衛門(西田屋)もこの移転組で、のち江戸町一丁目の角に入ったという。正徳頃には花松ウ太夫という容顔美麗な太夫を抱えていたというが、西田屋は延享3年(1746年)かその翌年に廃業したと見られている。
「洞房語園異本(異本洞房語園)」によれば、庄司甚右衛門はもと甚内だという。甚内の父は北条家に仕えた庄司甚之丞で、甚内は天正4年(1576年)に小田原に生まれた。甚内の姉おしやうふ(おしゃぶ。お菖蒲、あるいは和尚婦)は北条氏政の愛妾であったという。
庄司甚右衛門は正保元年(1644年)11月18日69歳で死去。馬喰町の雲光院(龍徳山)に葬られた。現在は江東区三好に移転している。なお過去帳は日本堤(浅草橋場町)の正憶院(現、足立区大谷田)にある。
この庄司甚右衛門の6代孫の又左衛門勝富(道恕斎 どうじょさい)は、享保10年(1725年)に奉行所に命じられて「新吉原町由緒書」を書いた。ほかに「洞房語園(どうぼうごえん、享保5年)」、「板本洞房語園(元文3年)」を著した。
江戸初期に、江戸で高名な3人の「甚内」がおり、日本三甚内(三人甚内)などと呼ばれたという。1人は庄司甚内(後の甚右衛門)。もう1人は鳶沢 甚内(富沢甚内)でもと野盗の棟梁であったが家康より古着売買の総元締めの権利と土地を与えられたという(日本橋富沢町。元は鳶沢町)。もう1人は向崎甚内で、向崎/匂崎あるいは向坂/幸坂/勾坂ともいい、小田原落城後に風魔一族が箱根の山を根城に山賊として跳梁したが、向崎は徳川方の野武士を率いて戦って相手の首領・小太郎を召し捕って処刑したという(慶長見聞録)。のち兄弟の誓いをしていた鳶沢甚内に謀られ、旧悪を暴かれて磔刑に処されたという。かつて浅草鳥越神社前に甚内橋というのがあり、向崎 甚内が磔柱と共に鳥越の処刑場へ引かれていったことからの名だという。なお番町皿屋敷のお菊はこの向崎甚内の娘だともする(孝経楼漫筆)。現在、台東区浅草橋3丁目11-5に残る甚内神社はこの甚内を祀った祠で、関東大震災で焼ける前は少し東側の3丁目13−4にあったという。※現在の都道315号線の南側にかつて鳥越川が流れており(現在は暗渠)、そのほとりにあったという。移転元の(交差点東南角)「浅草橋3丁目13」の街区表示板の下には「甚内橋遺跡」の小さい石碑が残る。
この向崎甚内処刑ののち、庄司甚内は、甚右衛門へと改名したのだと伝えられている。
- 三か条の願書は初代北町奉行・米津勘兵衛の内諾を得て、翌慶長18年(1613年)に老中・本多佐渡守から尋問を受けた後、元和3年(1617年)3月に至って、下記の条件付きでようやく官許がでることになった。
- 郭設置後は傾城町以外での遊女屋家業は一切許可しない
- 傾城屋での逗留は一日一夜に限る
- 傾城の衣類は紺屋染を用い金銀の摺箔などは一切禁止
- 傾城町の家作普請は質素にし、町役などを格式の通り務めること
- 武士町人に限らず出所不慥な不審者は幕府に届け出ること
- こうして葺屋町の下付近で二町四方の土地を与えられ、庄司甚右衛門は傾城町惣名主を仰せつかることになる。
寛永の江戸図並に明暦三年正月改板の江戸図によりて考ふるに、元吉原の一郭ハ今の曲突河岸(※へつついがし)のほとりにて、禰宜町と尾張町の此の尾張町ハ京橋と新橋の間なるをはり町にハあらず艮にあり、こゝにいふ禰宜町は堺の旧名たり、寛文二年江戸名所記刊行の頃までも、その書四巻に禰宜町としるせしは、これ即ち堺町葺屋町のことなり。しかれどもこの禰宜町は、今の堺町より北の方たに距ること凡一町ばかりにして、今の和泉町高砂町のほとりなるべし、かくて明暦丁酉の大火後に、こゝらわたりの町わりをすべて改められしかば、今は何れを何れの町ぞと定かには考入がたかり江戸名所記に、中村市村の両歌舞伎を禰宜町としるせしハ旧名によれるなり、寛文中には堺町いで来たり、下に抄録せし図説を考ふべし(図略)しかるに、当時その処は、あちこちに沼にてありければ、俄に蒹葭を刈払ひて、平坦に築きならせし此の儀によりて、里の名を葭原と呼びならせしを、後にめでたき文字にかへて吉原に作るといへり。
(曲亭雑記)
元吉原
- 傾城町の普請は、元和3年(1617年)夏から始められ、翌元和4年(1618年)11月に一部で営業を開始するも、完成したのは寛永3年(1626年)10月9日であった。
- 元吉原は二町四方の土地を板塀で囲んでおり、その外側に幅三間の濠を巡らせて北の大門(おおもん)だけを出入り口としていた。大門を訓読みするのは京の遊郭を倣って作ったからだという。これは新吉原でも踏襲され、大門(おおもん)と呼ばれ続ける。
- また「吉原」の名は、もともとヨシが群生していた場所を切り開いたため「葭原(ヨシワラ)」と京風に読んでいた。
女郎屋がたちますと葦刈っている
- 江戸では同じ植物のことを「葦(アシ)」と呼び、これは”悪し”にも繋がるため、寛永3年(1626年)頃に好字である「吉原(ヨシワラ)」に変えたのだという。このため下記のように詠まれていることもある。
名にしおふわけ吉原と聞きしかど 通い過ぎればあし原の里
提案者・庄司甚右衛門の出身地駿河の吉原宿にちなむという話は、出身地が小田原の北条氏の浪人であったり、あるいは東海道の吉原宿(五十三次十四番目)であったりと一定しない。
- また「吉原」の名は、もともとヨシが群生していた場所を切り開いたため「葭原(ヨシワラ)」と京風に読んでいた。
- 大門からまっすぐに仲の町の大通りがあり、その右側に江戸町一丁目、京町一丁目、そして左側に江戸町二丁目、角町(すみまち)※、京町二丁目の吉原五町ができたという。初期には妓楼17軒、揚屋24軒、町数は5町だった。
- 江戸町は大橋の内柳町から下誓願寺前に移されていた者。
- 江戸町二丁目は鎌倉河岸よりだが多くは伏見夷町やするが弥勒町出身者だという(このため元柳町とも言ったという)。
- 京町は京・六条出身者で麹町に移っていたものが移ってきたという。
- 京町二丁目は吉原開基以後に、大坂瓢箪町、奈良の木辻などより移ってきたという。2年ほど後にできたため新町とも呼ばれたという。(初期には
賢藏寺町 といったという) - 角町(すみまち)は京橋の角町から来たものが集まったという。
※角町の形成は寛永初期とされる「当町は開基より七八年遅く町作りたり(略)当所に吉川半兵衛、並木屋半右衛門などといひし年寄共、馬喰町雲光院応誉上人を頼み申、此上の扱にて和睦し、水溜の明地を貰ひ、築立家作不審し寛永三年寅の春中に、角町より不残移る。割あまりの所を取立し故に、外の町並とは違ひ両側とも裏行十三間半なり。」
- 当所幕府公認の遊郭ということもあり、2・3年の間は繁盛したという。
吉原開基の砌より二三ヶ年の間賑ひしこと大かたならず、昼夜共に見物人多く入込し節は、謦ば東側より向ふの西側へわずか四間の所なれ共、女童の如きは向ふまで自由に通ることならざる程賑ひしと也。理なる哉、御江戸の律は諸国第一の大都なるにわずか二町の境地なればさも有べし。
(洞房語園抄書)
- 寛永17年(1640年)秋には夜遊びは禁じられ、営業は昼のみとなった。夕方に吉原の灯籠に火が灯ると、遊客は帰ることになった。※寛永10年(1633年)とも
寛永十七年辰の秋中、町売停止同時商売のこと昼計り被仰付候
- また寛永13年(1636年)ころに湯屋(湯女風呂)が繁盛し始めると次第に衰徴しはじめた。
寛永十三年の頃より町中に風呂屋といふもの発興して、遊女を抱え置、昼夜の商売をしたり、是よりして吉原衰微しけるなり。吉原を贔屓する人は、風呂屋女に仇名つけて猿といひけるなり、垢をかくといふ心か。
幕府でも寛永14年(1637年)3月に制限令、慶安元年(1648年)2月、5月に禁止令。慶安5年(1652年)6月に再度湯女制限令を出している。この時は風呂屋に3人以上の遊女を置いてはいけないというものであったが、明暦3年(1657年)6月16日にはこの日限りで営業停止を命じている。
- 当初は女郎も神社仏閣への参拝などが自由で、客の呼び出しに応じて出ることも多かったが、寛永18年(1641年)頃に大門から外へ出ることが禁止された。
- 参詣であったり仏参であったりと言って抜けては知り合い客と相取引することがあり、妓楼の売上にひびくため、甚右衛門が願い出てそうなったという。
- 寛永19年(1642年)には、妓楼25軒、揚屋36軒。太夫が75人、格子が31人、端が881人で、遊女が合計987人居たという。
- この元吉原では、高尾太夫(寛永の三名妓)や、小紫などがいたという。
- 宮本武蔵は島原の乱の時、この元吉原から出陣していったという。
(寛永)十四
肥前島原一揆蜂起、
一、新町河合権左衛門内雲井といふ女郎は、宮本武藏が相方なり、島原陣の時、此家より出立して、黒田様内陣へ宮本武藏御見 にまいりけるよし、一、宮本武藏ハ新町河合権左衛門内雲井といふ女郎の相方にして遊はれけるが、寛永十五年島原一起の時、黒田様の御陣へ御見舞に参るとて、いとま乞ながら、かの雲井が許に來られ、かの女にさし物を縫はせ、勇々敷出立、直に騎馬にて肥前へ参られけるよし、
- また遊女屋の名主は用心のために柔術を学び、並木源左衛門、山田三之丞らは宮本武蔵の弟子だったという。
一、寛永正保の頃、名にたちたる遊女やには、江戸町西村庄助、二丁目山田三之丞、角町並木源左衛門、京丁高島や清左衛門、京町三浦屋四郎左衛門、新町山本芳潤等也、其頃ハ
溢者 (ならず者)等も入こみ、或は人心も至て强く、意氣地を爭ふが故に、喧嘩口論も多かりし故にや、みな/\用心のため柔術など習嗜て、宮本武藏の弟子にて、就中並木源左衛門山田三之丞などよく得たる由申し候、
- この元吉原においても火事は度々起こっており、明暦3年(1657年)に移転するまでに寛永7年(1630年)12月、寛永17年(1640年)、正保2年(1645年)12月、貞応3年(1224年)11月、明暦3年(1657年)と火災に遭っている。
- ※遊郭街が新吉原に移った後の元吉原の大門通りには、金物店や馬具屋、指物店などが軒を並べ、呉服屋の大丸屋も店を出したという。
元吉原で如露(※じょうろ)を買うおとなしさ
元吉原もから簞笥ならべとく
大丸屋傾城どもが夢の跡
大丸のあたりがすがゝきひいた所コ
大門ンをごふくや一字丸くする
新吉原
- 明暦2年(1656年)幕府は江戸の町割りを見直し、吉原町も呼び出しの上で移転通達を受けた。替地は本所か浅草日本堤のいづれかであった。※奉行所よりの呼出しは10月9日
明暦二年申の十月、元吉原町場所がへの事、公命あり、代地として浅草寺のうしろ日本堤の辺か、あるひは本庄のうちにて、たまはるべきよしなり。よつて吉原町のとしより相談をとげ、日本堤のかた然るべきに極まりぬ。さてよし原遠方へ代地をたまはるによりて、あまたの所得をかうむりけり。
- 吉原町名主側はこれに強く反発し、結果幕府からは移転料を含めた譲歩を引き出した。
- 土地を五割増して二町四方から二町と三町にする
只今迄弐丁四方の場所なれ共、此度新地にては五割まし、弐町に三町の場所被下置候事
- 夜の営業も認める ※新吉原が江戸から不便なため「遠方違え被遣候代り昼夜の商売御免の事」
只今迄昼計商売いたし候得共、遠方江被遣候代り、昼夜の商売御免の事
只今までは昼ばかり見世をひらき商売せしに、自今已後昼夜の見世免許せらる
- 競争相手の湯女風呂二百軒を取り潰し、千人の湯女を吉原の下級女郎とする
御町中に弐百軒余有之候風呂屋共、悉御潰し被遊候事
湯女については承応元年(1652年)に1軒に3人までと定めていたが吉原町名主側の要請で取り潰しとなった。寛文5年(1665年)にはこうした「風呂屋くづれ」の女郎が吉原に溢れた。 - 町役御免
遠方江被遣候に付、山王、神田両所の御祭礼、并出火の節、跡火消等の町役御免の事
- 移転料一万五百両
御引料、御金壱万五百両被下候事
「異本洞房語園」、「吉原大全」、「洞房古鑑」など。「新吉原略説」「武江年表」では一万五千両、「徳川実紀」では一万九千両とする。この金は店の間口一間につき十四両を配分し(約9800両)、五百両を下水普請料、一二四両余りは茶屋3人分として会所保管。
- 遠所と連呼しているが、現在となっては千束あたりは都会の街中となっている。しかし当時は「万治あらたまる比にもいまだ人の住居とも見えず、垣をまばらに壁しどろに、床高びくにして軒のつま合はず、見るさへあはれしごく」などと書かれている。
- こうして浅草寺裏(日本堤)に普請することになった明暦3年(1657年)1月18日、振袖火事(明暦の大火)が起こり、江戸城天守のほか、元吉原も全焼した。
明暦三年酉の正月、本郷本妙寺より出荷す。是を酉の年の大火といふ。本所ゑかう院のたちし年なり。此時元吉原も類焼せしかば、日本堤へ引うつりの事延引す。その間は小屋かけをなし、せうばうせしとなり。同年六月中に日本堤の代地へ引うつるべきに極まりぬ。
- 地ならしは3月から起工し、4月には幕府より下地見分に訪れ、6月9日に「本月十五日まで元吉原引き払い」の命令が出された。しかし完成までにはまだ日にちを要するため、この時一時的な仮営業を申し出た結果、今戸村、新鳥越、山谷村の農家を借りて仮宅営業を行うこととなった。※この後新吉原が火災に見舞われた際にも度々この仮宅営業を行っている
- 6月14・15の両日、元吉原から3ヶ所の仮宅営業場所まで遊女の大移動が行われている。
明暦丁酉六月十四日十五日には、遊女共浅草三ヶ所の旅宿へ移るとて浅草寺にまうでながら、殊に花麗に粧ひて歩行より往もあり、或は智恩の方より送り迎ひの屋形ふねを出し、浜町の河岸より乗りて駒形へ着るもあり、かゝる序に木母寺の古跡を拝まんと、待乳山を跡に見て隅田川へ寄するもあり、浅草本堂東西の欄干、三門随身門の間には参詣の遊女を見物の貴賤群衆したり。
- 6月14・15の両日、元吉原から3ヶ所の仮宅営業場所まで遊女の大移動が行われている。
- 新吉原では五割増加した町割りとして揚屋町を作ることになった。仲の町の大通りを挟んで右側には江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目、左側には江戸町二丁目、角町、京町二丁目と並び、南北が京間で百三十五町、東西が百八十間、総坪数二万七百六十七坪となった。
※寛文8年(1668年)3月に(大門はいってすぐ左側の)江戸町二丁目の左右の地尻に新道をつけ、堺町、伏見町を作り、府内の茶屋や遊女屋らが移ってきた。ここに住む遊女を散茶女郎と呼び始めた。- 日本堤から衣紋坂(ここで大門口が見えると衣紋を繕ったため)を下ると高札が建ち、坂を挟んで見返り柳が植えられている。五十間道が蛇行してつけられ大門口へと至る。周囲には御歯黒溝 ( おはぐろどぶ )と呼ばれた濠が巡らされていた。瀬川のいた松葉屋は大門をくぐってすぐ右手(地図上西北西)の江戸町一丁目に、また蔦重のいた蔦屋は大門手前の五十間道の左側(同南側)にあった。
- ※現在の浅草警察署の吉原交番の前あたりに吉原大門跡があり、そこから東側の道が当時の五十間道のまま湾曲しているのが確認できる。土手通りに出るところの交差点の南側には見返り柳(6代目)がある。
五十間道は当初まっすぐに縄張りしていたが、神尾備前守の指示で三曲がりに直したという。
- 大火から半年後の明暦3年(1657年)8月10日に新吉原で営業が開始された。この後、昭和31年(1956年)の売春防止法成立まで吉原の歴史が続くことになる。
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺 ~」で描かれたのは新吉原である。
- 享保20年(1735年)大名・旗本の遊里行きを禁ずる
- 寛保3年(1743年)6月諸人の覆面外出禁止
- 寛延2年(1749年)吉原仲の町に桜を植える(武江年表)
- 宝暦2年(1752年)大文字楼の主人を歌った「大かぼちゃ」が流行る。
- [新]吉原[五]丁町[弥]生花[盛]全図 | 錦絵でたのしむ江戸の名所
- 新吉原 | 錦絵でたのしむ江戸の名所
- 参考:主に「吉原の起立とその変遷」杉浦佐一郎、川柳吉原風俗絵図所収
その他
籬(まがき)
- 妓楼(女郎屋)の格を表す言葉。
- 遊客が見世の入口から土間に入ると、土間と遊女の居る張見世との間に格子があってこれを籬と呼んだ。この格子(籬)の高さが等級をあらわしており、天井まで達しているものを総籬と呼んだ。
- 総籬(そうまがき)
- 大見世のことを総籬と呼んだ。大籬(おおまがき)ともいう。籬は幅七寸。敷地の間口十三間、奥行二二間。
- 半籬(はんまがき)
- 中見世。一部分格子を欠く作りの見世を半籬と呼んだ。一分以上、二朱の女郎も置いたため「交じり見世」とも呼ばれた。
- 小見世
- 格子の作りも低く、昼三(ちゅうさん)の遊女もいない。総半籬。上半分は開いており、下半分だけ籬がある。
- 河岸見世(かしみせ)
- 小格子
- 切見世(きりみせ)
- 長屋を区切って見世を開いていた。京町一丁目と二丁目の裏、角町を河岸の方に曲がった所にあり、一の長屋から五の長屋まであった。のち天保13年(1842年)に私娼を吉原に移した際には、新しく三日月長屋、松葉長屋、関長屋が生まれた。一棟を10~20に分けて1部屋ごとに遊女を一人置いている。
- 引手茶屋
- 揚屋消滅に従って新たに出現する茶屋。遊客はまず引手茶屋に入り、遊女をそこへ呼び、酒宴を開いてから一緒に遊女屋へと移動した。支払いもすべて引手茶屋で済んだため、揚屋で遊ぶよりはるかに安かった。
郭の生活など
- ※主に座敷持/部屋持視点での一日
時鐘 辰刻 現在の時法
(前後約1時間)吉原 夜/暁九つ 子の刻 0時ごろ 床入り 夜/暁八つ 丑の刻 2時ごろ 睡眠 暁七つ 寅の刻 4時ごろ 睡眠 明六つ 卯の刻 6時ごろ 前夜の客の送り出し 朝五つ 辰の刻 8時ごろ 睡眠 朝/昼四つ 巳の刻 10時ごろ 睡眠→起床 昼九つ 午の刻 12時ごろ 昼見世 昼八つ 未の刻 14時ごろ 昼/夕七つ 申の刻 16時ごろ 休憩(夕飯やおやつ) 暮六つ 酉の刻 18時ごろ 夜見世 夜/宵五つ 戌の刻 20時ごろ 妓楼での宴会など 夜四つ 亥の刻 22時ごろ 宴会続き - ※河岸見世などでは「線香一本の間」(20~30分)と呼ばれるほどの短時間で客をこなしていったという。
- 昼見世
- 明暦3年(1657年)に新吉原に移ってからは昼営業も再度許可されることになった。これは九つ(正午)から七つ(午後4時)までの営業をいう。
- 張見世
- 暮六つ(午後6時)になると夜間営業が始まる。縁起棚に灯明を灯し、鈴を鳴らす(見世出しの鈴)。
清掻 きを合図に上妓から格子の間に出て並び嫖客の見立てを待つ。これを張見世という。この夜営業は四つ(午後10時)まで続く。 - お茶ひき
- 客がつかずに売れ残った遊女をお茶ひきという。これは待ち時間にお茶ひきをやらされていたからという。このお茶ひき/お茶っぴきは現代の水商売でも使われる。
- 引け四つ
- 本当は夜見世は四つまでだがこれでは短すぎるというので、大門は閉められるが客はくぐり戸から出入りできた。実際には2時間延長され、九つ(夜12時)に四つの拍子木を打ち、さらに正九つの拍子木を打って引けとなった。これを引け四つあるいは後の四つなどと呼んだ。
- 後朝
- きぬぎぬと読む。夜を過ごした遊客は夜明けとともに帰り支度を始め、遊女は遊客がまた来てくれるようにと後朝を惜しんだ。
- 紋日
- 吉原での記念日をいい、この紋日(もんび)には揚代が倍になった。紋日は徐々に増えていき、宝暦から寛政初年にかけて最大に達した。
新吉原への通い道
- 遊客が吉原へと通うためには4つほどルートがあった。
- 〔江戸切絵図〕 今戸箕輪浅草絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション ※右上「画像調整」から「左に90度回転」するとほぼ東西南北になる(やや西向き)
- 現在の地図から探す:台東区 | 錦絵でたのしむ江戸の名所
- 【馬または駕籠】:
浅草観音横の馬道 ※金龍山浅草寺のこと。聖観世音菩薩を本尊とする
・日本橋から浅草寺東側の馬道通りを通った。幕府が寛文元年(1661年)に馬乗り禁止の町触を出したため、遊客は同じコースを駕籠かきで通うことになる。この場合、大門口手前で駕籠から降りた。帰りも五十間道から駕籠に乗って帰った。※禁止時期は寛文8年(1668年)3月とも
・日本橋から大門:並駄賃二百文。馬奴二人、飾り白馬駄賃三百四十八文。
・飯田町から大門:並駄賃二百文。馬子二人、飾り白馬駄賃三百四十八文。
・浅草見附から大門:並駄賃百三十二文。馬子二人、飾り白馬駄賃二百四十八文。
※なお馬と同時に駕籠も禁止になるが守られることがなく何度も禁制を出している。その後元禄13年(1700年)には吉原通いを除き緩やかになった。日本橋から吉原大門までが金二朱(八百文)。吉原へ急ぐ遊客は四つ手駕籠を使って道を飛ばした。3・4人の担ぎ手が交代で担ぎ、3人を三枚、4人を四枚といい、三枚が金三朱、四枚が金一分だったという。その他、酒手として1人二百文ずつは渡した。 - 【猪牙舟(ちょきぶね)】:
神田川の柳橋から猪牙舟に乗り隅田川を経由して山谷堀 まで船でのぼり、待乳山本龍院(待乳山聖天 )の北にあった船宿で降りる。このため吉原通いのことを「山谷通い」ともいう。※錦絵でも描かれるように山谷堀に入る所々に中洲があり、大きな船では入れなかったためという。
・一挺櫓か二挺櫓:柳橋から山谷堀まで三十町が片道百四十八文だったという。細長い船なので大勢は乗れず、1人乗りか、あるいは3人の場合は2人が向かい合って座ったという。
・三挺櫓:やや大型で一人船頭で四百文、二人船頭で五百文。
船宿で猪牙舟を降りると茶を一服し、船宿の若衆や船頭が吉原まで案内した。江戸中期までは、土手八丁(日本堤の衣紋坂まで)で人に会わないように編笠をかぶったり、黒頭巾をかぶって往来したという。
・隅田川から北西に掘られていたのが山谷堀。現在は土手通り横にある公園となっている。
真乳山 | 錦絵でたのしむ江戸の名所
真土山之図 | 錦絵でたのしむ江戸の名所
真乳山山谷堀夜景 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 - 浅草観音裏の田んぼ道を進む
浅間寺を裏に出て畦道を進んで本庄藩六郷家の屋敷や不二権現(浅草富士浅間神社)を過ぎて田町二丁目あたりで日本堤へ出た。左に行けば吉原大門がある。この道は人と出会うことが少なかったが畦道がぬかるんで不便だったため、浅草観音裏で貸下駄屋があったという。観音裏門 一、人にしのぶには此うら門よりゆくがよし、(略)昼はくるしからねど、夕ぐれ、たそがれどき、かりそめにも行くべき所ならず
- 西回り:下谷ルート
他に筋違門を通って寛永寺(不忍池)の方へ抜け、信濃坂から下谷坂本町へ出て、田んぼの中を進んで立花家の下屋敷を通って大音寺から日本堤を右に進むと吉原大門に出た。
浅草田甫酉の町詣 | 錦絵でたのしむ江戸の名所
この絵は大音寺からさらに東に進んだ長国寺(鷲神社)あたりを描いている。いずれにしろ御歯黒溝で囲まれているため、いったん日本堤側に回り込むことになる。なおこの絵で描かれている酉の町詣には、吉原の裏門が開かれ、御歯黒溝を渡って入ることが出来たという。 - 三輪から日本堤を南下する
- 1および2が表街道、3・4・5が裏街道にあたるが、どのルートでも結局は日本堤に出てから大門へと向かうことになる。
- よし原日本堤 | 錦絵でたのしむ江戸の名所
画面右手奥の白く描かれた屋根の数々が新吉原、右端中段に見返り柳が見える。
ただしこの絵が刷られたのは安政4年(1857年)4月。歌川広重が元絵を描いたのは安政3年(1856年)2月から安政5年(1858年)10月にかけてとされる。安政2年(1855年)10月2日の安政江戸地震で、軟弱地盤であった新吉原はもちろん江戸中が倒壊して焼けており、新吉原も仮宅期間(500+延長100日)であったため、この光景は歌川広重の想像(あるいは復興祈念)が入っていると指摘されている。
※歌川広重の生家・安藤家は江戸の八代洲河岸定火消の家系。父が隠居したため文化6年(1809年)に13歳で火消同心職を継ぎ、文政6年(1823年)に養祖父の嫡子・仲次郎に家督を譲り火消同心職の代番となり、天保3年(1832年)にはその仲次郎が17歳で元服したため正式に隠居し、絵師に専念する。
- よし原日本堤 | 錦絵でたのしむ江戸の名所
- なお吉原の茶屋は往時100軒を超え、遊客だけでなく商談も交わされ、また昼も夜も遊べる場所であったためサロン的な意味合いも強く、俳諧人や狂歌を楽しむ客も多かった。
女郎階層の変化(太夫・格子の廃滅)
- 京の柳町遊郭の開業当初、「太夫」と「端女郎」の2階層だったが、元吉原初期には、これに「格子女郎」が加わり、後期には「局女郎」「切見世女郎」が加わった。
- 新吉原に移った後、寛文年間(1661-1673)私娼取締〔警動〕により摘発された隠売女(町中の風呂屋の湯女)は吉原引取りとなり、廓内の妓楼主人たちにより入札された。
初期の吉原は夜の営業も認められていたが、寛永17年(1640年)秋に昼営業のみと改められた。夜間営業も行っていた風呂屋では湯女がこれに代わる存在となっていた。幕府も寛永14年(1637年)に3人以上の湯女の禁止、慶安元年(1648年)再達を行い、明暦2年(1656年)風呂屋営業を全面的に禁止を行った際には江戸市中で200軒の風呂屋が営業停止されたという。その後も表面は水茶屋で内部では商売女を置く店などが残っていたが、寛文5年(1665年)には市中の風呂屋74軒が申し合わせ、抱えていた女512を挙げて新吉原へ加入して遊女屋に転業することを出願し、江戸町二丁目の名主・源右衛門の斡旋を得て、江戸町二丁目に敷地をもらって伏見町・堺町と名付けて移住した。これらは「風呂屋くづれ」と呼ばれ、後には「散茶女郎」と呼ばれた。
- 彼女ら奴女郎は、客を振らないという意味から「散茶女郎」と呼ばれた。この中には有名な勝山もいたという。この散茶女郎は揚屋入りをせずその家の二階で客を取った。この頃は、太夫、格子、端、散茶、喧鈍の5階層となっていた。
されば当世の有様、太夫は格子、又格子は山茶、端は喧鈍に身を経下しぬる世なれば
近頃より散茶と云て太夫格子より下ツ方なる女中あり。大尽なるは揚屋にて参会し、夫より及ばざるは散茶の二階ざしきにて楽む
当時お茶を飲む際には茶葉を袋に入れ湯の中で振って抽出していたが、「散茶」は茶葉を挽いて粉状にしたものであり湯を足すだけで飲めた(現在の外食チェーンにある粉末緑茶のようなもの)。”袋を振らない”からの連想で”客を振らない”(断らない)の意味から散茶女郎と呼ばれた。「寛文五年、岡より来りし遊女は、未だはりもなく、客をふるなどいふことなし、されば意気張りもなく、ふらずといふ意にて散茶女郎といひけり」(洞房語園)
「散茶女郎」は当初は風呂屋出身者という蔑称であったが、延宝頃には階層化し、格子や太夫でも散茶に降ろされるというケースも出てきたという(奥するに揚屋を使わず二階で客を取る)。かつ吉原の利用客が大衆化したことも相まって、そうした客層には散茶女郎の庶民性が受けたこともあって、元禄6年(1693年)には散茶女郎が隆盛し、太夫は僅か3人(三浦屋の高尾・薄雲・若紫)のみ、また格子は57人で、これに対して散茶は1千人を超えたという。あるいは、享保頃には三浦屋の高尾・薄雲、山口屋の音羽・初菊・白糸、京町三浦屋の三浦の6人のみで、元文頃には三浦屋の3軒と玉屋のみにいたともいう。
- また局女郎から転訛してより低い階層の「梅茶女郎」と「切見世女郎」が次第に喈客の人気を集め主流階級になり、明和元年(1764年)、明和5年(1768年)、明和8年(1771年)、明和9年(1772年)の四度の火災を経て、吉原は大きく変容し、それまで中心をなしていた「太夫」が減少し、揚屋遊びも衰退した。宝暦10年(1760年)には最後に残った尾張屋清十郎の名前も消えて揚屋・太夫が消滅してしまった、あるいは宝暦11年(1761年)には江戸一丁目の玉屋山三郎の花紫ただ一人になったともいう。安永頃には呼び出し散茶が最上位となる。宝暦頃には散茶は昼夜揚代3分となり、これにより「昼三」(ちゅうさん)と呼ばれるようになった。
- ※下記「仮宅」の項も参照のこと
- 変わって散茶系の呼出・昼三・附廻、それに梅茶系の座敷持・部屋持・切見世女郎と呼ばれる階層ができ、寛政年間(1789-1800)には14階層に細分化した。
- この頃の客層について次のように述べられている。
- 呼び出し昼三:国家の留守居、うとくなる旅人、大商人の旦那、大名の御ゐん居の類也
- 平の昼三:有徳なる町人のむすこ、若との様、御用たし町人の旦那のるい也
- 一歩の坐しきもち:きめづきん、おはたの二男、又は店衆のるい也
- 大見世の部屋持ち:家中もの、又は高の能き山の手のるい也
- 「呼び出し」も次第に減少し、寛政12年(1800年)の細見では、江戸町一丁目・松葉屋半右衛門抱の染之介・瀬川・喜瀬川、扇屋宇右衛門抱の滝川、江戸町二丁目・丁子屋長十郎抱の雛鶴、角町松葉屋半蔵抱の粧、兵庫屋伊助抱の月岡の7名となっていた。
- それから8年経った文化5年(1808年)には、扇屋宇右衛門抱の滝川、丁子屋長十郎抱の丁山の2人になり、さらに5年経過した文化10年(1813年)には扇屋宇右衛門抱の花扇・滝川、丁子屋長十郎抱の唐歌の3人となり、その後2・3年で絶滅したとする。
- いっぽう「昼三」も漸減し、寛政末頃には角町松葉屋半蔵抱の松村、京町一丁目・大文字楼市兵衛抱の一もとの2名となっており、文化5年(1808年)には松葉谷半蔵抱の粧、大文字楼市兵衛抱の一もとを最後になくなった。
- 寛政9年(1797年)の統制を受けて合印をもつ女郎は14階層へと分かれ、揚代金も細かく細分化した。吉原には、これら合印を持つ遊女と、それを持たない下層の遊女とがいた。
万治3年(1660年)には合印を持つ遊女が212人、下層は335人の合計547人だったが、享保8年(1723年)にはそれぞれ528人と1,685人(合計2,213人)へと膨れ上がる。しかし明和4年(1767年)に2,863人まで増加した後、明和9年(1772年)には一時的に2,391人へと減少している。
その後は増加を続け、蔦重が「籬の花」を出す前安永3年(1774年)にはそれぞれ1,516人と1054人(合計2,570人)となっている。その後も増加を続け、享和3年(1803年)には合計5,000人超え(1,468+4,005人)、弘化4年(1847年)には吉原最大の7,144人(2,889+4,255人)を記録した。
- さらに天保年間(1830-1844)水野忠邦の天保の改革により岡場所は崩壊し、大量の遊女が吉原へとなだれ込み、一大勢力となった。
吉原での様々な段階
- 吉原に入れられた子どもは、最大20年の年季を勤め上げる必要があった。まず「禿」から始まって13・4歳で「新造」となり、やがて27歳で年季を終えて出ていったり、一部は年季以前に身請けされたりする。禿期間は修行中の扱いで年季には入らず(そもそも付いている姉女郎が禿の衣装・鼻紙・履物に至るまですべての面倒を見た)、新造もしくは呼び出しとなって客を取るようになってから初めて年季奉公の期間となった。このため、基本的に27歳くらいまでが年季奉公の期間となっていた。
- 残ったもので才覚のあるものは「遣手」となって他の女郎の世話をするか、あるいは吉原を離れられない女郎は河岸見世に落ちるものも居たという。
- 禿(かむろ)
- 禿は、7・8歳で遊女屋に奉公に入った子ども(男女)で、主人から小袖一枚をもらうほか、小袖二枚、上帯、下帯、櫛道具、鼻紙、履物にいたるまですべてが姉女郎の持ちだった。
- 遊女のそばにいて身の回りの世話を始めとして、食事の給仕、たばこの吸い付け、お茶の持ち運び、廓内の走り使い、道中の伴つとめ、琴、三味線、茶の湯などを習った。
- 宴席に侍っても酌をすることはなく、寝起きは遊女の次の間で、食事は新造や若い衆といっしょに台所で取った。
- 禿には、引込禿、若衆禿、坊主禿がいた。引込禿は14・5歳になって姉女郎の手許を離れて主人や内儀の元で新造となるために諸芸を習うために一旦引っ込んでいるのをいう。また若衆禿は眉目秀麗な男の子をいい、坊主禿は前髪と両鬢だけを残して坊主にした禿をいう。この引込禿はおの字名や本名で呼ばれる。
引込と号しおの字ではやらせる
- 新造(しんぞ)
- 禿(かむろ)として入った遊女は、成長して13・4歳になると「新造(しんぞ)」と呼ばれる。新しい船(新艘)の意味である。※上記引込禿を除く
- 新造には、振袖新造、留袖新造、番頭新造があり、「振新」、「留新」、「番新」(ばんしん)と呼ばれた。
- 【振袖新造】:ふだんは縮緬の小紋の振袖を来ていたが、紋日には総身に羽衣模様や孔雀模様を染めた晴れ着を着た。
- この振新には2種類あり、いっぽうは花魁に仕えながら見世へも出て客も取り、姉女郎の名代として廻しをとった。
- もういっぽうは将来呼出として出すために客を取らせないもの(引込新造 ひつこみしんぞ)もいた。引込新造から花魁になる女郎を「禿立ち(かむろだち)」と呼んだ。
一體「突出し」は禿立ではない女のことで、禿から引込新造になつて店へ出るのは、「突出し」とは云はない。途中からなつた女に限るのです。
- また14・5歳で吉原に来て新造にした(禿上がりではない)場合もあり、これも振袖新造となるか、花魁付きの新造として育てるかは器量によった。
- 【留袖新造】:十七・八歳で支援者が付いて部屋持ちになると、花魁の世話で元服し袖を留めて留袖新造となった。眉もそらず紅や白粉などの化粧もしなかった。
- 【番頭新造】:女郎の年季はだいたい27歳で終わり、28歳になると年季明けだが、行く宛のないものもいた。身請けされないまま30歳以上になって年季明けた遊女が、再び郭で働くために番新になった場合などが多い。あるいは河岸見世に身を落とす女郎も多かったという。
- 新造には、振袖新造、留袖新造、番頭新造があり、「振新」、「留新」、「番新」(ばんしん)と呼ばれた。
- つき出し(突出し)
- 禿として遊女に仕えずに、14・5歳以上の年令になってから妓楼に来て、そのまま客を取り始めるのをいう。他に新造から一本になるのもつき出しといい、道中で遊女の御披露目をするのにもつき出しと呼び、披露目の儀式もなくそのまま見世を張るのも突き出しと言った。
- 「道中突出し」は花魁道中ができる上級女郎としての顔見世であり、「見世張り突出し」はそれが出来ないものが見世に出て客を取った。
- 新造を「道中突出し」をする際には莫大な費用がかかったが、これは主に姉女郎の負担とされた。実際の世話は、それについている番頭新造の役目であったという。
- お職(おしょく)
- 抱え女郎のうち最も稼ぎが多いものを言った。ただし大見世では呼出が上座であったためこの場合はお職とは呼ばない。主に中見世以下での稼ぎ頭をいう。深川などの岡場所では、同じものを「板頭(いたがしら)」、それに次ぐものを「板脇(いたわき)」と呼んだ
- 遣手(やりて)
- 番頭新造などでもやっていけない年になると、遣手に転向したりした。これは遊女の取り締まりをするのが役目であった。遣手は、花車(かしゃ)、巾着(きんちゃく)などの異名でも呼ばれた。花車は本来は引手茶屋の女主人のこと。
源氏名
- 郭の女郎たちに名乗らせたのが、源氏物語の巻名から取った源氏名で、その妓楼に伝わる代々の名乗り(名跡)を名乗った。※ただし妓楼間で重複しているものも当然ある。
- ただし48巻では到底足りないため、これに倣って雅名前をつけることが多かった。
- 深川の芸者などは菊次、鶴吉、美代吉などの男名をつけており、これは「権兵衛名(ごんべえな)」と呼ばれる。品川の宿場女郎などはおの字名を名乗っていた。
- ※市井の一般女性が「お露」「お政」「お増」「阿藤」などと、二文字名の頭に「お(阿)」をつけて呼ぶものは「おの字名」である。
「吉原細見」
- この遊女の源氏名、階層を示す合印(あいじるし。遊女名の頭につける)、揚代金が記載されたのが「細見(吉原細見)」である。
- 最初は「遊女評判記」の付録として刊行されたが、のちにその「遊女名寄の部」が独立した。のち「遊女評判記」は出版規制により消滅し、取り締まりの対象とならない細見が主流となった。
元禄7年(1694年)に評判記「吉原草摺引」を刊行していた板木屋甚九郎らが処罰された(編者による女郎の評価が制限対象となったという)。これを避けるため、純粋な「吉原案内書」として、また女郎の人別帳としての性格を強く押し出した”基準”を提供することで判断基準を遊客に与える「細見」へと移行していったとされる。 - 最初は一枚地図であったが、これは広げると縦70×横80cmもある巨大なものであり、外で用いるには不便であった。
- このため享保12年(1727年)には横本(縦10×横15cm)となり、さらに蔦屋重三郎が板元になった天明期には竪本(縦15~18×横10cm)へと変わり、表題も「新吉原細見」と統一されていく。また従来細見本によりバラバラであった合印も統一されている。さらに元文年間(1736-40)には揚代金も記載し始め、蔦屋による独占販売体勢へと変わっていった。
※初期の遊客には懐を気にしない太客が多かったが、新田奨励の結果、大幅な米あまりと米価下落、それに伴って米で俸給を受け取る武士階級の窮乏が出ていた。その対策として大岡忠相の貨幣改鋳(元文改鋳)により特に江戸において米価を中心としたインフレが起こっていた(米価引き上げによる武士階級救済自体は狙い通り)。そのため、合印や揚代金の明記により懐具合を気にする低級武士や庶民でも予め費用をかなり細かく見積もることが可能となり、吉原に通う遊客の裾野を広げる効果があったという。※いっぽうで大岡の施策は、当時上方中心だった銀経済を、江戸中心の金経済へ切り替えることも目論んでいたという(江戸初期から中期まで大半の物資は上方から流入していた)。
吉原での流れ(花魁道中)
- 遊客はまず茶屋に上がり、そこから置屋(遊女屋)に好みの太夫に来てもらうように「揚屋差紙」を持たせた使いを出し、もし都合が良ければ客は揚屋に向かい、そこで太夫と落ち合っていた。
- 遊客は茶屋で、置屋の取り分も含めたすべての精算を済ませることで置屋も取りっぱぐれがなくなり、また遊客も荷物類をすべて預けることが出来た。
- 都合が合わない場合には代わりの妹分の新造を出すことがあり、それを「名代(みょうだい)」と呼んだ。この名代には手を付けないのが慣習だが、揚代はそのままであった。
- また遊びの手順としては、「初会」、「裏(二会目。裏を返す)」、「馴染(三会目)」という3段階を経る。3回揚屋に通って同じ女郎を指名することでようやく馴染みとなった。
- この呼出しのときに置屋にいる太夫や(一部の)格子が、
禿 や夜具持ち、三味線持ちを引き連れて揚屋に向かうのを「揚屋入り」ともいい、貞享年間には「道中」とも呼んだ。これは江戸町の太夫が京町の揚屋に、また逆に京町の遊女が江戸町へ行くのを東海道に見立てて道中と呼んだもので、太夫や格子などの高級遊女に限られていたという。太夫及び時として太夫次位の格子女郎とは、(但し格子女郎は、多くは妓樓に於て客を引いたといふ。)妓樓に於て客に接せず、揚屋に赴き、揚屋に於て洞房に待つた。
(略)
繰り返していふが、太夫・格子の二品の存在してゐた頃は、殊に太夫は、絕對に揚屋以外では、客に接しない。從つて太夫(時として格子)の客は、揚屋町の十八軒(又は十九軒)の茶屋から揚屋に案内せられ、その揚屋に、太夫又は格子が來たのである。
- のち(本来は揚屋入りはほぼしない)散茶も揚屋入りに限らず「示威運動的に漫歩」する道中をするようになったが、初期は引き連れる禿の数などで格式の違いがあった。※この時点で揚屋入りの道中ではなくなる
即ち太夫も格子も散茶も、いつの間にか、揚屋入と限らず、示威運動的に漫歩する、即ち所謂道中を始めたのであらう。揚屋入がこの太夫以下散茶までの道中と、いつ變じたか分らない。が、貞享頃は、すでに道中というたらしく、現にこの頃は、散茶も道中したらしい、貞享元年版の「好原女郎花」に、散茶道中の圖がある。禿一人と、夜具を背負つた男とがゐる。(これによれば、散茶も時には、揚屋へ呼ばるる事があつたのか。)
この道中(※つまり夜具を引き連れない揚屋入ではない示威運動的道中)となつてからも、太夫・格子と、散茶とでは、連れた禿の数によつて、格式の相違があつた。太夫女郎は三人禿と若い男による箱提灯二つ。格子女郎は、二人禿を連れたが、散茶は一人禿だつたといふ。それが、元禄の後の宝暦年間新町中近江屋の都路といふ散茶女郎によつて、二人禿を連れる新例が開かれ、以後、散茶の益々隆盛、太夫・格子の廢滅となつて、散茶から出た呼出、晝三の道中にも、長くこの二人禿の風習を傅へたのである。
- 昼三(もとの散茶)と呼ばれた高位の女郎は江戸後期には「花魁」と呼ばれたため、花魁道中(おいらんどうちゅう)とも呼ばれた。※吉原から太夫や揚屋は絶えたが道中だけが残った
江戸の吉原は安永・天明ころから散茶と呼ばれた遊女が「花魁(おいらん)」の名を使ったという。元々「花魁」は植物の梅の別称で「かかい」と読む。梅是百花魁。百花魁(ひゃっかさきがけ)。のちこれを「おいらん」と訓じて娼姑の名称となった。
この「おいらん」の発祥には諸説あるが、有力とされるのは禿や新造などの妹分たちが自分の姉女郎のことを「おいらの姉様」と言っていたものが「おいらん」と転訛したのだという。「おいらんは姉女郎のことなり」。その後、「花魁」の字を充てるようになったのだという。
なお京・島原の遊女は「太夫(たゆう)」(「こったい」とも)を使うが、これも同様に、「こち(近称の指示代名詞。こっち)の太夫さん」と呼んでいたものが、詰まって「こったい」になったという。
外八文字(そとはちもんじ)
- 花魁が道中する時に使う独特の歩き方をいう。
- 勝山太夫という女郎が初めたという。
承應明暦の頃、新町山本芳順が家に、かつ山といふ太夫ありし、元は神田の丹後殿前
紀國風呂 市郎兵衛といふもの方に居りし風呂屋女なりしが、其頃風呂屋女御停止にて、かつ山も親里へ歸り、又吉原芳順方へ勤に出たり、髪は白き元結にて方曲のだて結び、勝山風とて今にすたらず、揚屋は大門に多右衛門にて始て勤に出る日、吉原五町の太夫、格子の名とり共、勝山を見んとて、中の町の両側に群り居たりける、始ての道中なれ共、遊女の揚屋通ひの八文字を踏で通りし粧ひ器量おし立又双びなく見へしと、全盛は其頃郭第一ときこへたり、手跡も女筆には珍しき能書也、元は丹前風呂(神田佐柄木町にあったと言う堀丹後守直寄の屋敷前にあったため)と呼ばれる風呂屋・山本芳順方の湯女であったが、そのころから派手な出で立ちで評判であったという。のち警動により一時里へ戻ったというがやがて吉原で勤め始めたという。吉原に出たころも勝山風に髪を結い、初めて道中するときには吉原中の太夫や格子(女郎)たちがこぞって勝山を見ようとして見物に集まり、その時に勝山が披露したのが外八文字であったという。これまでは吉原の女郎たちも京・島原の太夫道中に倣って内八文字で道中したという。勝山の人気も高く、勝山髷や勝山草履、丹前などが流行した。
後ろ足を前に出す際に足を外側に大きく動かすため(この時高下駄を持ち上げず内側に傾けて半円形に引きずるのも同じ)歩いた後の模様(形跡)はほぼおなじ八文字になるが、足を着地して踏み込む時に、つま先をそのまま体の内側に向けているか(内八文字)、ぐいっと外へひねって体の外側に向けるか(外八文字)に違いがある。外八文字は着物を外側に蹴り出すようになるため、歩く時に着物の裾が割れてちらりと花魁の脛や膨ら脛が垣間見える。これを粋とした。簡単に言えば、外八文字は最後ガニ股風に踏み込むことで裾を意識して割っているが、内八文字は最後まで内股気味なので裾は割れない。
ありんす言葉
- 「ありんす」は吉原の郭言葉の代表で、遊女の国なまりを隠すために生まれたとされる。
- 往時跋扈していた「奴」(侠客や博徒)の六方詞を遊女が真似ていたものが、奴が衰えるのと同時に優美なる遊女としての上方下りの遊女の島原言葉が入ってきたのだという。
- 妓楼により違っているものもあり、「オス・ザンス・ナンシ・ザマス」など岡場所にはない郭ことばが多かったという。
日本を越すとアリンス国へ出る (日本堤)
日本からアリンス国は遠からず
アリイス国をバカラ州とも申 (「ありいす」は松葉屋から始まったともいう)
剣先はありんす国の方へ向キ (猪牙舟の尖った舳先のこと)
ありんすで嫁来なんした里がしれ
- 吉原をアリンス國と呼び始めたのは柳句(川柳)作者だという。初出は「柳樽」の「岡場所のありんすなどは
図横柄 」とされる。※源氏名を持つ吉原の遊女ならともかく、岡場所のおの字名ごときがアリンス言葉を使うなど横柄だという意味。
新吉原を江戸の北にあるという意味で「北国」あるいは「北州」と称していたが、「北狄」などとも称された。これに対して岡場所は、品川を「南国」あるは「南蛮」、深川を「東夷」、新宿を「西戎」などとも呼んだ。「北狄(吉原)にやはか南州(品川)劣るべき」「東夷(深川)南蛮(品川)西戎(新宿)は岡場所」
- 甲子夜話では元は駿河言葉だったとする。
江都吉原町ナル遊女ノ言葉ハ、一風アリテ、江都ノ言葉トモ違ヘリ、予モ少年ノ頃ハ花柳ヲ徘徊シテ親シク聞ケリ、又人道フ、其言葉ハ、駿府ナル弥勒町ト云遊女ノ鄙俗ニシテ、後カノ府ノ遊女都下ニ遷リシトキヨリ伝染シテ、当時ニ及ベリトゾ、近頃或人云シハ、吉原遊女ノ言葉モ今ニテハ漸変ジテ、駿府言葉ハ殆ド失、都下尋常ノ言葉トナレリト、別テ遊里ノ大家、扇屋ト称スル者ノ内ハ、分テ世ノ常ノ言ニ成リタリトゾ、是等モ澆季ノ一事ナル邪。
- また喜多村信節によれば、「あんす」のような島原言葉を真似たのだともいう。
おもうに、これもと島原詞の名残なるべし「浮世物語」島原の處に、谷の戸いづる鶯の、初音おぼろの聲を出し、又
きさんしたか 、はやういなんし 云々、その盃これへさゝんせ 、一つのまんし など見え、又「好色一代男」島原詞にありますといふべきをあんすと云へり、吉原詞の末をはぬるは是なり
(喜多村信節「嬉遊笑覧」)しかし特に元吉原が京の島原遊郭の影響を色濃く受けているのは事実であり、それは八文字道中、大門(おおもん)、階級太夫・格子などにも見ることができる。妓楼主人にも島原から来た者もおり、廓言葉についても島原の影響があったと考えるのは自然だと思われる。
酉の市(とり-)
- 11月の酉の日に、吉原のすぐ近くにあった鷲大明神(鷲神社)で行われた。毎年二回が通例だが、年によっては三回のときもあったという。
長国寺に祀られていた鷲宮に始まるという。大鷲神社(東京都足立区、花畑大鷲神社)を「おおとり」と呼ぶのに対して、こちらは「しんとり」と呼ばれた。明治初年の神仏分離に伴い、長国寺から独立し鷲神社(おおとり神社。おとりさま)となった。
- この酉の市の日には、通常開かない裏門のはね橋を下ろし客を通したという。
裏門は他の非常門と同じく、常時は決して明けぬ門ですが、酉の市に当る酉の日の午前零時零分と共に、八文字に押つぴらく特例があります。鷲神社の方でも、丁度この零時に鼕々と響く大太鼓を合図に守護札を売出します。この一番札を受けられた者が、一番の運が取れるという担ぎ方があつて、血眼で殺到する騒乱から祭の幕が切つて落されます。
各店のお帳場の前には、客の持つた熊手を御預りする為に、青竹を横に結んで立て並べる設備までして、御詣り帰りを待ち受けたものです。参詣数万の何割かが、この裏門に爪先を向けて来るのですから、この夜は郭内も活気充満して店々も天手古舞の大賑わいです。- 浅草田甫酉の町詣 | 錦絵でたのしむ江戸の名所は、この酉の市の風景を描いている。
仮宅(かりたく)
- 仮宅とは、火災などで吉原での営業ができなくなった際に、他の地域で茶屋などを借りて営業する形態のことで、都度幕府に対して希望の仮宅期間と仮宅希望場所を「仮宅渡世」として願い出たうえで、幕府より正式に許可の出た範囲内でのみ行われた。
- ※そもそも新吉原への移転時も明暦の大火で仮宅が行われていた。
- 安政江戸地震後の安政2年(1855年)では、遊女屋惣代の玉屋の山三郎が名主4人と共に3ヵ年60ヶ所の願いを提出しており、奉行所からの返答では仮宅場所は25ヶ所、期間は半分の500日間となっている。
- 吉原での火事は江戸時代に36回起こっており、うち全焼が21回、吉原自体が火元となっているのが28回となっている。このうち確かに放火と確認されるのは13回で、すべて遊女による火付けとされている。
- また仮宅期間については、明和5年(1768年)時が100日間、天保8年(1837年)300日間、弘化2年(1845年)250日間、安政2年(1855年)500日間(100日延長許可で計600日)、文久2年(1862年)700日間、慶応2年(1866年)2年間となっている。
※安政江戸地震後の仮宅期間延長
遊女屋共仮宅儀 日数五百日之外尚又百余日日延差免置候処 右は卯去年十一月四日申渡より十五日之間猶予致遣候間 十六日目より六百之積相心得
安政四巳年四月朔 - 仮宅営業は、吉原に通うという敷居が低くなることも相まって売上が増加する傾向にあり、それは名主側たちだけでなく、運上金を入手する幕府側にとっても利益となったことから徐々に長期間の営業許可が出たものと指摘されている。
吉原町類焼之節、仮宅にて渡世いたし候得ば湯代之外も雑用も手軽に候間、一旦は格別に賑ひ既に衰へ候。遊女屋も類焼後却て繁盛いたし身上取直候向も前々より粗有之候に付、毎度類焼之節、未鎮火不申内、向々仮宅借受之之対談に相懸り候儀も有之趣きにて、右等之類は自ら消防之方無精に相成、家財片付にのみ相懸り候故、小火も及大火吉原町一円之類焼にも相成可申に付、向後は万一類焼に逢候とも相互に申合、たとへ模合にて成とも手軽に小屋懸補理吉原内にて渡世いたし可成丈外町仮宅渡世之儀、御願不申上様可致事
火事を心待ちにしたり、あるいは火災発生時に鎮火よりも仮宅を借り受ける交渉に奔走するなどの有り様になったという。
- 仮宅は、仮宅地先の水茶屋や掛茶屋などが使われたが、急ごしらえで用意された。また吉原で行われていた格式も、紋日(やや料金が高くなる)もなかった。また仮宅を提供する側にも高い店賃で貸し出したことから、吉原以外の遊客をはじめ仮宅地提供地側にも喜ばれたという。
さらに普段は籠の鳥である遊女たちについても、仮宅中はかなり自由に外出が行え、舟遊びや花火見物、開帳を見物に行くなどの遊興を楽しんでいる様子がうかがえる。
- この仮宅営業の際には工賃が上昇するかと思えば、むしろ逆に下がるのだということを側近から教えられたと松浦静山が書いている。
都下繁盛の習ひ、火災広く焼亡多ければ工価沸騰して、人これに苦む。この頃吉原町の焼失して川の西畔(※隅田川西岸)多く遊女の仮屋となり、造作の急なる、郡匠涌が如し。因て娼家にも困難のとき、又作価のぼるべしと云へば、側なる者云ふ、曽て職工に聞く、毎々遊女屋仮宅のときには工価還て易し。人々某所に往くことを望て赴くゆゑ、価を倍するに至らずと。これ工作の処みな女人海なれば視聴の娯楽となるゆゑなりと。嗚呼、人心の色を好む、知べし。
- こうして仮宅営業が長期化するに伴い、「仮宅細見」なる書物まで登場している。現存するものだけで、明和9年(1772年)、天明5年(1785年)、文政7年(1824年)、天保6年(1835年)、弘化3年(1846年)、安政2年(1855年)、万延元年(1860年)の7回ある。※このうち蔦屋重三郎が板元となっているのは天明・文政・天保の3回ある。
- 参考:「吉原仮宅についての一考察」宮本由紀子(山城由紀子)、
雄山閣出版「都市の地方史-生活と文化」所収
身請け料(落籍)
- 吉原の女郎たちは、借金のかたとして、形式上は年季奉公という形で10年いくらで売られてきていた。この年季を勤め上げると里へ返されるが、一部には年季明け前に身請けされ吉原を出ていくものも居た。これがいわゆる落籍である。客は残りの年季分の金額(借金の肩代わり)と落籍支度料などを払うことで、彼女らを妾などにした。※ごく一部に親戚などによる身請けで里に戻る例もあった。
落籍されて吉原を出ていく際には、妓楼の主人や下男などを始めとして、世話になった茶屋などへの手当を行うことになっており、それらは落籍料から支払われた。
- 松葉屋半左衛門は、26年の間に二代目瀬川から五代目までの4人の瀬川を身請けさせることで五千両を得て富豪になったという。大金を得た松葉屋は、下谷金杉上町64番地に広壮な屋敷を構え、そのために松葉屋横丁の町名ができたという。
ただし上記したように二代目のはずの「仇討瀬川」は身請けされておらず(むしろ松葉屋は残った年季分を取り逃がしている)、恐らく代数に矛盾がある。
上記した現代の通説の代数で考えるとすると、5代鳥山瀬川が身請けされた安永4年(1775年)を基準にしてそこから26を引いた寛延2年(1749年)が数え始めとなるが恐らくそうではなく、この話が広まっていた頃は鳥山瀬川がこの話での”三代目”であり、当時の二代~五代、上記でいえば四代目から七代目までの話に相当するのではないかと思われる。仮にそうだとすれば、四代目(小見川)瀬川が見受けされた安永4年(1775年)から天明元年(1781年)までの26年間に4代の瀬川を身請けさせたという話になると思われるが、上記では七代目の身請けは天明4年(1784年)だったというのでやはり矛盾が残る(そもそも七代目の禿「このも」は瀬川ではないという話もある)。恐らく江戸当時はまったく別の代数になっていたのではないかと思われる。 - 寛保元年(1741年)に柳原式部太夫が九代目高尾を千八百両で身請けしたという。また京の万屋助六が島原の揚巻を千両で身請けしたという。
- 寛政年間には身請け料(身代料)は五百両に制限された。
- 身請け証文
証 文 の 事
其方抱の薄雲と申す傾城未だ年季の内に御座候共、我等妻に致し度色々申入候処、相違なく妻にくたされ、其上衣類布団手道具長持まで相添くだされ辱奉存候。即ち爲樽代金子三百五拾料其方へ進し申候。自今以御公儀様より御法度仰せつけられ候、江戸御町中ばいた遊女出合候座敷は申すに及ばず道中茶屋旅館等遊女がましき所に差出申間敷候。若左様の遊女所に差出し候と申す者御座候はは御公儀に申上げられ如何様にも御懸り成されべく候。其時一言の儀申間敷候。→うす組若離別致し候はば金百両に家屋敷相添へ隙出し申べく候。爲後日御証文依如件。
元禄十三年辰七月三日 貰主 源六 印
請人 兵右衛門 印
同 半四郎 印
四郎左衛門殿
江戸の入浴風俗
- 「吉原」というと女性が迫害された象徴と見る向きもあるが、そもそも江戸時代は混浴(男女入込湯)であり、祭りの際には男女入り乱れるというのもごく普通に行われていたという。
そもそも江戸時代は年季奉公自体がポピュラーに行われており、これは女児に限らず男児でも普通に行われていた。武家や豪商、豪農などに上がって2~3年など短期で年季奉公したり、あるいは長期で奉公するものも居た(年季前は盆正月も生家に帰る自由などは当然なく、出入りの自由がないことを籠の鳥なのだといえば男女問わず年季奉公は籠の鳥だった。元吉原の初期は出入りの自由があったし、新吉原でも仮宅営業時は祭りや花火などかなり自由に出入りできた)。さらに商家では丁稚奉公として務めることもあり、才覚を見出されれば手代や、支配人へと昇華することもあった。
武家でも長男(嫡長子)より下の扱いは部屋住みであり、それは大名家や旗本でも大差はなく、長男(嫡長子)が家督を継ぎ跡取りの男子を設けてしまうと、庶子を含めて次男以下は他家に養子に出されるなど基本的には厄介扱いされていた(次男だった酒井抱一も兄の長子が継ぐと逃れるように家を出ており、三男だった朋誠堂喜三二も平沢家に養子に出されている)。また旗本・藩士であっても上役(上司)が嫌だからと言って他藩に移ることなどまず出来ず、親から受け継いだ身分で一生奉仕し続けなければいけない。讃岐高松藩の白石家(足軽以下)の三男に生まれた平賀源内も、江戸に戻る際に「奉公構」とされ他家(他藩)への仕官が不可能になった。当然農家ではもっと悲惨で、女衒の誘い文句に「吉原に行けば白い飯が食える」という言葉があったほど、当時の農家は白い飯(精米)など食べられなかった。吉原だからかわいそうだというのではなく、(現代に比べれば)当時は厳格な身分制の中でもみんなが必死に生きていたというだけである。
- また遊郭以外でも「湯女(ゆな)」と呼ばれる女性がおり、客の垢すりや髪すきなどを行い、またあるときは客の相手もした。実際に江戸でも吉原以外に江戸四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)の宿場女郎や、岡場所の遊女、さらには夜鷹なども存在していた。また宿場町では飯盛女がおり、客の食事の世話をするほか客の相手をするものも居たという。
- むしろ4代目の小見川瀬川に見るように、勝れた器量を持つ遊女には三味線・浄瑠璃・茶の湯・俳諧・碁・双六・蹴鞠・笛・鼓・諷・舞踊などあらゆる芸能を仕込まれ、遊客と対等に話をするため政治情勢などの知識も与えられたという。ごく一部ではあるが、見方によっては(あくまで当時の世間相場からすれば)女性の可能性が伸ばされた場所であったとも言えなくはない。また一般論としても吉原の女郎は、客に再訪を促すための手紙をしたためる必要性があることから、基本的に文字の読み書きを教わっていた。その上で和歌や俳句、狂歌を嗜むなどの文化的素養まで与えられていた。これは江戸時代中期までの特に田舎の農家では考えられないことであった。
一般に雑な概論として「江戸時代の日本人庶民の識字率は、寺小屋などの普及で高かった」とされるが、そこでは地域差・男女差は考慮されていない。
明治16年(1883年)に明治政府が行った江戸期の寺小屋(手習所・手習塾)遡及調査によれば、総寺子屋数は15560校で、設立時期は江戸後期から幕末期が圧倒的に多い。また寺小屋のうち男子のみ通学は5180校、男女通学は8636校。一校あたりの平均寺子(生徒)数は男児42.90人、女児は17.15人。「男子生徒に対する女子生徒の比率」は、関東地方で61.93%、奥羽で8.47%、近畿41.26%、九州10.70%、全国平均では27.03%となっている。
さらに明治初期に数度にわたって自分の名前が文字で書けるか?という自署率調査を行っており(=識字率ではない)、限定的な数県より回答を得ている。それによれば、滋賀県の男子は自署不可能率(自分の名前すら書けない率)が10%強なのに対して同県女子は60%弱から明治中頃には40%弱へと変化している。また岡山県男子では30%半ばから30%を切る程度まで変化しているのに対して女子は+20%(60弱%~50%)前後で推移している。さらに鹿児島県では男子が60%弱、女子が90%超となっている。(幕藩体制の名残もあり)県別に差がありすぎるが、概ね女子の自署率は男子よりも低いことが傾向としてわかる。繰り返すが明治中期頃の自署率でこれである。「江戸期日本人庶民の識字率が高かった」という概論はあまり意味がないことがわかる。明治19年(1886年)に発令された小学校令(数度の改正を含む)により整備された「尋常小学校」の就学率が、男女ともに90%を超えるのは明治37年(1904年)頃である。
数字などの出典は「識字能力・識字率の歴史的推移──日本の経験」斎藤泰雄より。
- その意味において(現代の価値観で言えば)、むしろ迫害されていたのは宿場女郎や岡場所、あるいは夜鷹をせざるを得なかった名もなき女性たちである。※もっとも農家で寺子屋にも通えず幼少期から農業を手伝いさせられるのと、どちらが恵まれていたのか?という判断は現代となっては非常に難しいのではないかと思われる。なお当時、パートナーの死亡などによる再婚は男女ともにごく一般的に行われており、いわゆるレビラト婚(逆縁婚、もらい婚)も一般的に行われていた。
また例えば「吉原の遊女は劣悪な環境に置かれたため早死であった」と一般的に書かれることも多い。しかし例えば当時日本でも最も優れた(栄養・衛生・医療)環境下に居たと思われる将軍家斉には子女が53人(男26名・女27名)いたが、成年まで存命だったのは半数の28人、うち50歳以上存命だったのはたったの8名(男2名・女6名)である。また30歳以上生きれた子女に広げても、その8名に4名を加えた12名(男5名・女7名)に過ぎない。逆に5歳までに亡くなった子女に至っては32人(男15名・女15名・流産2名)もいる。
当時の栄養・衛生環境はもちろん、医療技術も現在とは比較にならないため、寿命などを現代の価値観で判断するのは危険である。当時の人々の死生観や、様々な子どもの成長儀式を大切にした理由も理解できるだろう。吉原遊女の衛生環境が良かったわけではないのは当然として、一般大衆も(現代人に比べれば)それほど衛生的な生活をしていたわけではないということである。また個人の尊重、個人の権利(人権)といった考え方が出てくるのは18世紀のヨーロッパにおいてである。
- 江戸に湯屋が置かれたのは天正19年(1591年)伊勢与市によるとされるが、当初は「空風呂」と呼ばれる蒸気風呂(蒸し風呂)で、湯具(湯帷子、湯文字、腰巻き)を付けて下半身のみを湯につけて埃を落としていた。膝の高さほどの湯を張った密室のような空風呂に、柘榴口と呼ばれる低い鴨居をくぐって入ったが、(蒸気をためるために密閉しており)中は当然暗かった。暗闇の中、客同士ぶつからないよう咳払いなどをして出入りした。またいわゆる掛け流しではなく、貯めた湯の交換頻度も高くなく濁っていたという(もっと言えば汚かった)。この空風呂で汗をかくことで埃を浮かせ、外に出て垢かき女が垢を流したり髪をすいたりした。この湯女による垢流しは、湯屋だけでなく大名屋敷などでも普通に行われていた。※そもそも住居の狭さと火事の多さから、江戸の一般家庭では風呂を持つことが禁じられていた。
- 弘化4年(1847年)刊とされる「歴世女装考」でも次のように記される。
二枚櫛 湯女の事
二枚櫛を刺事は遊女のみの態なれば辯ずるはよしなけれど筆のついでに記す(略)さて二枚櫛は大坂の湯女とりさしはじめたりとおもふ事はそゞろ物語をはじめ是にるゐする物を参考せしに天正十八年大坂にも風呂屋といふ事できて湯女とて女ども入り来る客の垢をすり髪をあらふ。ゆゑに髪あらひ女ともよべり髪をあらへば結ひもするゆゑ常に櫛をさす。此湯女寛永の中比にいたりては容色を飾浴客等が酒のあひてをもなし櫛一枚は常なるゆゑ常に櫛を二枚さして客の多きをみせ且かざりとも湯女のしるしともしたるなり。然して稍々色を賣にいたり大湯女小湯女の名目ありて大ゆなは酌をとり小ゆなは垢をすり髪をあらふ。こは慶安貞應の間なり。かくて追々湯女の淫風浪花はさらなり。
- 元禄の始め頃までは男女ともに湯具を付けて入っていたが、それも次第になくなり、しまいには前を手で隠しただけで入るようになったという。また男女別々の湯屋を用意する店も少なく、「男女入込湯(なんにょいりごみゆ)」と呼ばれる混浴形態がとられることが主であった。※一部に男湯・女湯も存在したが、経費の問題で分けることが難しかった
- 当時の湯屋では明け六つから暮六つまで営業が行われていたが、入込湯では暮七つから男女入込湯が行われていた。
- 男女入込湯の禁止令が出されたのはいわゆる寛政の改革の寛政3年(1791年)である(新規開業禁止はその前年)。ただしその後、享和3年(1803年)、文化3年(1806年)、天保13年(1842年)と何度も禁止令が出されているように、守られていたとは言い難い。
- また結局狭い湯屋をさらに2つに分けるか、あるいは営業日を分けるしかなく、江戸中期まで男女間に圧倒的な人口差があった江戸市中では、男女入込湯禁止により自然と女湯が圧迫されることになり、主に女性客から不満の声が上がったという。湯屋は江戸時代には免許制だったようで、男女風呂株、男風呂株、女風呂株の「割附」が江戸の湯屋十組に割り当てられている。幕末の往来物からその一例をあげる。※下線は引用者
一番組
本町組 男女十二株 合二十一株
男八株
女一株
堺町組 男女八株 合十一株
男三株
小傳馬町組 男女十七株 合〔十七株〕
東神田組 男女八株 合十株
男二株
西神田組 男女七株 合十七株
男九株
女一株
合五組七十六株
(略 ※この調子で二番組~十番組まで続く。最後に合計らしきものが記されている)
男女風呂 合三百七十一株
男一ト風呂 合百四十一株
女一ト風呂 合十一株
(湯屋十組割附幷男女風呂員數)
大方、女風呂はこの割合となっている。一番組はまだ女風呂が存在しているだけマシであり、四番組(外神田・下谷・本郷・根津)、六番組(深川南・同北・本所南・同北)、九番組(小石川・小日向・駒込)、十番組などではそもそも女風呂株(つまり女性専用風呂)自体が見当たらない。雑に総数だけで考えても、比率としては女湯は11/(371+141+11)で2.1%しかない。結局男女分けているとは言え、実態としては男女入込湯に入っていたものと思われる。
一部銭湯へ通えない客に向け「鉄砲風呂」と呼ばれる木の桶に釜を外付けにしたものを貸す古道具屋があったが、一廻り(1週間)で348文、1ヶ月で銭一貫文もした(守貞謾稿)。※江戸時代の湯銭は上下しているが、概ね大人6文、小人4文前後である。
- 入込湯禁止後に「薬湯」という同業態のものが現れるがすぐに禁止されるも、さらに天保~嘉永年間には「二階風呂」なる業態も現れた。それらは事実上男女入込湯であった(二階では売店などがありくつろげた他、一部では客の相手もしたという)。この二階風呂については明治になっても残っていた。※明治期に立て続けに禁止令を出しているところを見れば、この江戸期の禁令は完全には守られていなかったことは明らかである。
- この入浴風俗を一例として見てもわかるように、当時の人々の生活は現在の都市生活者の抱いている衛生観念や、性に対する関心や考え方、個人個人が置かれている生活環境、生死に関する考え方などとは大きく異なっていることがわかる。それを現代の価値観を基準に正邪の判断を振りかざすのは非常に危険である。例えば現在でも、都市育ちの都市生活者が一般的に田舎と言われる土地に移住するとなると相当の覚悟が求められるのと相対的にはあまり変わらない。
- よく知られているように、この男女混浴が厳格に禁止されたのは明治に入ってからである。各地に居留外国人が増え、主に彼ら外国人から風呂屋の男女混浴について抗議の声が起こった。これは彼らキリスト教圏(特に19世紀後半の帝国主義国家)ではそれが認められていなかったことも大きいとされる。
- ※男女混浴を行っていた文化圏は日本以外にもあり、現在でも男女混浴が禁止されていない国もある。例えばドイツやオランダのスパ、北欧諸国でのサウナでは男女混浴が認められている。これらの国でのスパやサウナは入浴施設であるとともに「社交の場」としての意味合いが強かったため、混浴文化が残ったとも言われる(ただしパブリックなものでは水着の着用やタオルの携帯が求められる)。このように入浴風俗一つとっても時間や場所により考え方は様々であり、「混浴」、すなわち淫らで汚らわしいなどと判断するのは少し偏った見方であると認識しておく必要がある。
- また柘榴口と呼ばれる風呂桶が現代のように湯を満々と張った風呂桶(浴槽)へと変わったのは明治10年(1877年)頃の神田連雀町の湯屋主人・鶴澤紋左衛門によるとされている。
鶴澤紋左衛門は、各地の温泉地の風呂を真似て、柘榴口の小屋を取り払った上で浴槽を低く下げて設置し、明るく衛生的であったことから評判となった。これを「改良風呂」あるいは「温泉式風呂」と称し、「紋左衛門風呂」とも呼ばれたという。この時、柘榴口の湯気に慣れていた浴客が、手ぬぐいを頭に乗せ始めたのだという。
ただし自発的に改良風呂にする湯屋はわずかであったことから、明治12年(1879年)10月、東京府下の柘榴口を明治18年までに外すよう警視庁令が出されている。「そのころ(明治10年頃)、京橋の三十間堀の日ノ出橋のそばに、日の出湯と言ふ大きな湯屋がありました。これまで東京には少くなかった新しい湯屋で、みんなこの湯屋を温泉、温泉と呼んだものです。それはいままでの旧式な板囲ひのしてある浴槽とは、まるっきりちがったもので、その後出来た新しい銭湯の皮切りでした。」
- ※慶応4年(1868年)、明治政府は築地付近の湯屋での男女混浴禁止と二階風呂の目隠しを通達。明治2年(1869年)には東京府が「風俗矯正町触」を出した。明治5年(1872年)全国的に男女混浴禁止と湯屋の二階や入口が外から見えないようにすることが定められた。さらに明治12年(1879年)に「湯屋取締規則」が制定され、第六条・第七条で男女混浴、裸体の露出が規制された(明治18年改正、明治19年京都に湯屋営業取締規則)。明治23年(1890年)には子どもの混浴についても禁止されている。
関連項目
AmazonPrime Video30日間無料トライアル