谷干城
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谷干城(たに たてき)
土佐出身の軍人、政治家
- 谷家は大神姓。
- 長宗我部氏の旧臣で、土佐藩の上士の家柄。
生涯
- 幕末、坂本龍馬や中岡慎太郎と交わり志士活動を行う。
- 高名な愛刀家で知られる。
討幕
- 武市半平太と知り合って尊王攘夷に傾倒する。慶応2年(1866年)の長崎視察の際、後藤象二郎や坂本龍馬と交わる。
- 坂本龍馬への尊敬の念篤く、龍馬が暗殺された際には真っ先に現場に駆けつけ瀕死の中岡慎太郎から暗殺の経緯などを聞き出している。
- 板垣退助の率いる迅衝隊の大軍監として北関東・会津戦線で活躍する。
- 流山で近藤勇が捕らわれた際、尋問について薩摩藩と激しく対立し、斬首・獄門という惨刑に処したのも谷であるが、彼にとっては龍馬の敵討ちであった。
- 明治33年(1900年)、かつての見廻組の一人であった今井信郎が「龍馬を暗殺したのは自分である」と告白し話題となった。それを聞き及んだ谷は、「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と逆に厳しく非難したという。
維新後
- 明治4年(1871年)の廃藩後、兵部権大丞として新政府に出仕し、翌年には陸軍少将として熊本鎮台司令長官となる。
- 明治10年(1877年)の西南戦争の際には52日にわたって西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献した。
- 西南戦争の功績により陸軍中将に昇進、陸軍士官学校長となった。
政治家
- のち、第2代学習院院長から政治家に転身。明治18年(1885年)、第1次伊藤内閣の初代農商務大臣に就任するが、閣内の国権派として伊藤内閣の欧化政策(当時の外相は井上馨)を批判し、条約改正問題で辞任した。
- 後に貴族院議員となり地租増徴に反対するなど独自の政治運動を展開した。
- 明治44年(1911年)死去。享年75。
愛刀家
- 明治35年(1902年)刀剣会の二代目会頭になり、明治44年に亡くなるまで務めている。
- 大坂新刀に深い関心を持ち、和泉守国貞、河内守国助、伊勢守国輝、津田越前守助広、丹波守吉道、大和守吉道(延宝三年二月日 七拾八歳造改)、多々良永幸(朱銘 大神朝臣干城所持)、越後守包貞などを所持したという。
関連項目
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