大文字屋誰袖
誰袖(たがそで)
- ※なお名跡「誰が袖」は、様々な妓楼で遊女の名跡として使われている。ここでは土山宗次郎に身請けされた大文字屋の誰袖について述べる。
大河ドラマ「べらぼう」では振袖新造時代の「かをり」を稲垣来泉さんが演じ、成長後の誰袖を福原遥さんが演じる。誰袖(たがそで)
吉原の新興勢力・大文字屋の女郎。禿(かむろ)上がりの振袖新造(ふりそでしんぞう)の時には「かをり」と名乗り、蔦屋重三郎(横浜流星)に一方的な恋心を抱いていたが、その想(おも)いはやがて…。そして成長し、吉原を代表する花魁となる。
その後、老中・田沼意次(渡辺 謙)の“懐刀”ともいえる勘定組頭を務めていた幕臣・土山宗次郎に祝儀を含めて1200両という莫大な金額で身請けされ、江戸中にその名を広めることとなる。しかし、その金の出どころについてある疑惑が生まれ、やがて吉原と江戸幕府、そして蔦重と誰袖の人生を揺るがす大事件へと発展していく…。
大河ドラマ「べらぼう」福原遥が出演決定 蔦屋重三郎(横浜流星)を慕う花魁役 - 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」 - NHK
- もともとは「誰が袖」とは匂い袋の一種で、小袖の袖形をしていたことから古今集の歌にちなんで呼ばれたという。鎌倉頃に匂い袋として出現し、部屋にかける掛香へも発展した。室町・桃山期に大きく発達し、誰袖、匂玉、花袋、香包、香嚢、花世界、兵部卿など異名が多い。のちに様々な物を入れ、袂落としとして用いたという。元禄の末期には小型化し楊枝入れとしても使われたという。また衣桁や屏風に掛けられた衣装を描いた絵図は、誰が袖図(誰袖図屏風)と呼ばれる。
色よりも香こそあはれと思ほゆれ 誰袖ふれし宿の梅ぞも
(古今和歌集 巻一 詠み人知らず)単に「誰袖」と云へば、袖形に作られた匂袋の事で、後世かけ香がすたれてからは、楊枝入れに転化したものと云ふ。
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大文字屋誰袖
- 禿上がり。
- 大田南畝の「三春行楽記」の天明2年(1782年)3月9日にも名前が出てくる。一行は尾張楼ののち大文字楼へ登り、土山は誰袖(土山の狎奴だという)を呼び、朱楽菅江は袖芝を、南畝は
一炷 (一と本)を呼んでいる。(天明二年三月)
九日 晩晴、同菅江(※朱楽菅江)・嘉十(※平秩東作)、陪土山沾之(※土山宗次郎)遊北里、過茶亭尾張楼観花、是月也、北里大道種花樹、絃服靚粧粲如紅霞、夜過京街、登大文字之楼、奴誰袖取袖与総角、以贈余、余為家珍、是土山氏狎奴也、菅江呼奴袖芝、余呼奴一炷 、夙起、又同菅江宴書肆耕書堂 、午後書肆命肩與、帰舎
大意:土山に陪して吉原(北里)で遊び、尾張屋で花を観た。土山の狎奴である誰袖が袖を断ってくれたので南畝は家宝にした。菅江は袖芝を呼び、南畝は一炷(一と本)を呼んだ。その後書肆耕書堂へ遊び、午後に蔦重の呼んでくれた駕籠で家に帰った。
土山宗次郎(つちやま そうじろう)は百五十俵の御家人。土山家は本国近江、本姓は藤原氏。先祖は浅井氏に仕えた後、天草一揆のときは細川氏に仕えていた。その子から御先手組。父・孝租(実は久田見武兵衛男)の代に御徒から支配勘定、勘定組頭。母は土山仲右衛門照苗娘。宝暦6年(1756年)に跡目。諱は孝之。妻は御徒の日下部七十郎女。
安永5年(1776年)11月田沼に抜擢され三百五十石の勘定組頭に登用された。牛込細工町に酔月楼という豪邸を建て、酒宴に明け暮れた。狂名は軽少納言。天明6年(1786年)に徳川家治が薨去し反田沼派の松平定信が台頭した後、買米金500両の横領が発覚し、その追及を逃れるため逐電し、平秩東作(へづつ とうさく)に武蔵国所沢の山口観音に匿われたが、発見され、天明7年(1787年)12月5日、斬首に処された。匿った平秩東作も「急度叱」の咎めを受け、狂歌界とも疎遠となった。
土山の酔月楼は、「人にしられしもの 佐野の墓所 土山の屋敷 本多の痰瘤」と噂されたと書かれている。(翁草)。
- 大文字屋誰袖は、天明3年(1783年)の吉原細見で名が載るが、天明4年(1784年)板では名前が消えている。
- 天明元年(1781年)秋:三位
- 天明2年(1782年)正月:三位(西村板)、四位よび出し(蔦重板)
- 天明2年(1782年)秋:四位付け廻しよび出し
- 天明3年(1783年)春:四位付け廻しよび出し
- 天明4年(1784年)7月仮宅細見に名前なし ※同年4月吉原火災
- 天明5年(1785年)では名前が消える
「付け廻し」とは昼三の次位の階級にある遊女のこと。
なお天明7年(1787年)に土山宗次郎が斬首された際には誰袖こと「すが」は24歳となっている。つまり天明4年(1784年)に落籍された時は21歳ということになる。
- 天明3年(1783年)正月刊の狂歌集「万載狂歌集」(編は四方赤良と朱楽菅江)に載る。
寄紙入恋
忘れんとかねて祈りしかみ入のなどさらさらに人の恋しき
(万載狂歌集 十二 恋)万葉集の「多麻河伯尒左良須弖豆久利佐良左良尒奈仁曽許能児乃己許太可奈之伎(多摩川にさらす手 つくりさらさらに何ぞこの児のここだ愛 しき)」(万葉集 巻14-3373)の本歌取り。間夫にもらった「かみ入(紙入)」で思い出す心情を詠っている。
この歌により、「芸づくしなら濃紫が墨絵に夕はへが琴、滝川がうらなひに誰袖がたはれ歌」などと評価されている。
- また「巴人集」にも載る。
文字楼の浮れ女たが袖、睦月の衣模様何よけんといひければ、万歳の烏帽子、鼓、扇に松葉散らしたる肩よからんといひしに、果してその色目に定め侍りしと聞きて、
誰袖を引手あまたの浮模様 この万載は徳若きもの
- 天明3年(1783年)正月の北尾政演筆「青楼名君自筆集」(蔦重板)でも立ち姿が描かれている。※天明4年(1784年)正月に「吉原傾城 新美人合自筆鏡」としてまとめて出板された。
- 青楼名君自筆集|ColBase
ただしリンク先は1コマしかなく、誰袖は映っていない。 - 吉原傾城 新美人合自筆鏡|ColBase 誰袖は3/11コマ目左ページの黒地に鎌の打ち掛け姿。右ページで歳旦帳を見ているのが一本。※9/11コマ目右に六代目瀬川がいる。
- 自筆書は誰袖が「山家春とけ初(そむ)るかけひの水のをとにのみ 深(み)やまの里ははるをしりけり 大もんしやたか袖書」、一本が「梅 たちよりて我もしみなむ春ことに まつ咲そむる梅のにほひ香 大もんしやひともと書」。
蔦屋重三郎と北尾政演(山東京伝)は花魁達の詩歌と筆跡を入れた一枚摺百枚続きの豪華大々判錦絵の板行を計画し、天明2年(1782年)7月から作画に取り掛かり、仕上がった6枚を3枚一組にして天明3年(1783年)正月2日から一斉に販売を開始した。この年正月発売の細見(五葉松)の「耕書堂蔵板目録」に錦絵100枚を次々販売すると銘打ったが、当時蔦重はまだ錦絵板株を持っていなかったため、錦絵板株仲間からの申し立てにより計画は中止に追い込まれた。しかし蔦重もそのまま引っ込むわけにもいかず、既販6枚に1枚を加えた7枚の錦絵を折本仕立てにして「吉原傾城 新美人合自筆鏡」として天明4年(1784年)正月から販売した。寛政2年(1790年)まで耕書堂蔵板目録に載っており、三板まで重板したと見られているという。
- 青楼名君自筆集|ColBase
身請け
- 天明4年(1784年)、田沼意次の懐刀として知られた旗本・土山宗次郎に1200両で身請けされる。※身請料850両、そのほか祝儀など合わせて1200両という(千年草)。
なお土山の先妻「りつ」も遊女あがりで七百両で落籍したが、天明4年(1784年)に不義で離縁したのだという(よしの冊子)。誰袖はその後に入籍した。「惣次郎妻は吉原遊女にて、千両にて請出し候由。先妻も右同様のものにて、七百両にて請出候処、不義致し候ゆえ二百両金付にて縁付遣し」(天明大政録)
先妻「りつ」は、土山と共に歌人・日野資枝に入門した「流霞夫人」であるともされる(なお土山にはさらにその前にも妻がおり、断家譜では御徒の日下部七十郎女だとする。つまり誰袖は3人目の妻である)
「三春行楽記」の天明2年(1782年)3月18日「十八日 同土山沾之・流霞夫人・嘉十・(※星野)文竿、遊望汰欄、命二歌妓、曰阿直、曰阿兼、潮退、升・国共拾紫貝、会東江子(※沢田東江)・滝口氏・杉浦氏亦至」途中で潮が引いたため降り立って貝拾いをしたという。
※「望汰欄(ぼうだら)」は深川洲崎の高級料亭・桝屋の異称。洲崎神社(江東区木場)のそばにあった。主人は祝阿弥(惣助、号 升億。望汰欄主人。狂名 一気行成)。店名は松平不昧の父・宗衍が贈った扁額による。上総望汰郡(もうだぐん。現、木更津方面)が望めたことと、酔っ払いの隠語「棒鱈」に掛けている。「故松江老侯しば/\こゝに遊び、自ら望汰欄の字を書て賜ふ。鉄にて文字を鋳て額とす(大田南畝)」「広座敷に望汰覧の三字を鋳物になし、地は呂色、縁は蒔絵、四角に象眼のかな物、大さ六尺ばかり、書漢文にて南海君(松平宗衍)の祝阿弥へ賜ふゆゑよし、二百字ばかり記しあり(山東京伝)」。のち桝屋は寛政の初めに手放され商人の手に渡るが、寛政3年(1791年)9月4日の高潮にさらわれ明き地になった。主人祝阿弥は駿河浅間の坊主になったという。また扁額望汰欄は洲崎神社にあったが関東大震災で焼失した。
土山の失脚
- しかし田沼政治が終わると買米金500両の横領が発覚。天明7年(1787年)12月5日、土山宗次郎は斬首に処された。
- 「御買上米一件落着被仰渡候間事」
天明七年
御買上米一件落着被仰渡候間事
未 十二月
(略)
死罪 元勘定組頭 富士見番宝蔵番之頭 土山宗次郎
未四拾八歳
御役被召放小普請入閉塞 御勘定留役長滝四郎左衛門
押込林昌院
未六拾一 歳
(略)
未十二月五日申渡母・林昌院は別の箇所では72歳となっている。元勘定組頭 富士見番宝蔵番之頭
土山宗次郎
其方儀身持放埒ニ而、遊女たがそでを買揚ケ馴染身請いたし妻ニ召仕、且先年娘病死之説も不致、内々ニ而幼年之貰受実子同前ニ可致心底ニ而、親類書に娘両人と書出シ置、其上御勘定組頭相勤候節、去年…(以下略同断(※押込) 宗次郎召仕 す が(※誰袖)
弐十四歳ここでは誰袖は「すが 24歳」となっている。別の文書では「押込 大文字屋誰が袖こと すが」と書かれている。
なお「先年娘病死」は土山の実娘が死んだのを届け出ずに知り合いの娘を密かに養女としていた件を咎められている。※「すが」の子だと書かれていないため、恐らく前妻(前前妻?)の子ではないかと思われる。
- 「御買上米一件落着被仰渡候間事」
その後の誰袖
- その後の誰袖は、大文字屋へ返されたともいう(よしの冊子)。※いっぽうで大文字屋は無構だったともいう
一 土山が妾ハ大文字屋の遊女誰袖ニ無相違故、大文字屋へ御返しニ相成、受出し金六百両上納可仕旨被仰付候ニ付、大文字屋より六百両差上候由。しかれ共是ハ大なる御むたいの御政事と申上候よし。
要するに土山が大文字屋に入れた身請け料(ここでは六百両)は不正に入手したお金でありそれが土山を通じて大文字屋に入っていたため、それを上納させられると共に、誰袖は大文字屋へ返されたのだという。
そもそも身請けとは残り年季分(+落籍準備金)を建て替えることで行われるが、その身請け料が幕府に回収されれば再び残りの年季奉公を続けなければならないという理屈。ただし「よしの冊子」とは松平定信の家臣・水野為長が世情を伝えるために世間の風聞を集めたものに過ぎず、事実かどうかはわからない。
- ※なお大田南畝が身請けしたのはこの「誰袖」であると(玉屋山三郞抱誰袖とも)、かなり堂々と断定している特に明治頃の書籍が多いが、南畝が自ら「おしず」に聞き取って「松樓私語」を記しており、その跋には「松葉樓中三穂崎 更名阿賤落蛾眉」と書いており、南畝が身請けしたのは松葉屋の新造・三保崎で間違いないとされている。
- そもそも大文字屋誰袖は南畝のパトロンであった土山の意中の遊女である上に、貧乏な下級士族である大田南畝が花魁を身請けできるわけもなく、三穂崎の身請けについても土山が出したのではないかとも書かれていたりする。南畝が学問吟味に首席合格するのは三保崎ことおしづが亡くなった半年後、支配勘定に命じられるのは3年後のことである。詳細は「大田南畝#松葉屋三保崎の身請け」の項を参照
他の大文字屋誰袖
- 寛政5年(1793年)~寛政9年(1797年)にも大文字屋市兵衛方に「誰袖」がいる。禿は「とめき」と「かほる」となっている。
仮に土山宗次郎に落籍された「誰袖」こと「すが」が吉原に戻されていたとしても、寛政5年(1793年)には30歳になっているため別人である。
※酷い話だが、当時吉原での年季は27歳までの約10年間で支払い完了する前提で組まれており、もしそのまま残るとしても花魁としてではなく「番頭新造」となり、指名料も大幅に下る。そのため、禿が2名も付いているということは別の花魁ということになる。詳細は「吉原#吉原での様々な段階あたりを参照のこと
- さらに寛政13年(1801年)にも「誰袖」がいるが、こちらは禿が「せんかく」「はんき」となっており、どうも”寛政5年の誰袖”とは別の誰袖のようだ。
- 文化10年(1813年)の「今容女歌仙 三十六番続」にも「大文字 誰袖」が載る。文化11年(1814年)「奉納提灯見立」にも大文字屋誰袖が載る。
- 文政8年(1825年)の「吉原細見」にも大文字屋の一番目に誰袖が載る。
尾州楼の「誰袖」
- ※明治初年の尾州楼にも「誰袖」がいた。
尾彥樓ノ誰袖ハ本名ハ呂久其。母甞テ呂久ヲ以テ貴紳ノ妾ト爲ス、凡ソ二年所母性
貪婪 窃カニ呂久ヲ奪テ甲府某ヨジ樓ニ售ル。明治十二年故アリテ尾彥樓ニ入リ、名ヲ誰袖ト改ム。誰袖明眸皓齒艶色絕倫、然レトモ性詐騙ニ長ズ故ニ、客ノ之ト狎ル者忽チ傷ラル人誰袖ヲ云テ嬌笑中仍チ含ムト云フ
(芸娼妓評判記)
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