蜂屋江
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蜂屋江(はちやごう)
刀
蜂屋江
二尺二寸二分
- 蜂屋郷
- 享保名物帳所載(ヤケ)
蜂屋江 磨上長二尺二寸二分 代七千貫 御物
蜂屋出羽守所持、中切先、明暦の頃は甲府様に有之、御物御書如何、蜂屋善正寺殿へ上る、秀吉公へ上る、慶長の頃家康公へ進せらる、池田三左衛門殿拝領、宮内殿へ伝る、甲府様へ参り候、子細不知
- 表裏に棒樋をかき通す。中心大磨上、無銘、目釘孔3個。
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由来
- 蜂屋頼隆所持にちなむ。
来歴
蜂屋頼隆
- もとは蜂屋頼隆所持。
秀次→秀吉
- 秀次(善正寺殿)に献上し、秀吉に伝わる。
三之箱 蜂屋江刀
秀忠
- 慶長16年5月に秀頼が秀忠に贈る。
慶長十六年五月 蜂屋郷御刀 将軍様え被進之
池田輝政
- 慶長17年(1612年)8月13日に池田輝政が病気回復し将軍秀忠に拝謁、江とともに駿馬2頭を贈られる。
十七年八月十三日、輝政駿河に来て、大御所に見参し廿三日関東に下り、将軍家に参らる。年来の病気たいらぎし故なり、将軍家御家號(松平)ゆるさせ玉ひ、参議の事、御推挙あるべきよし仰下され、物多く賜て、蜂屋郷の御刀、乙御前の釜、御馬二匹等なり、御暇を給ひ、二十七日関東を立て、九月二日又駿河に参り、大御所又物を賜ふ事多く、虚堂の筆蹟の掛物、若狭正宗の御刀
(藩翰譜)
池田忠継
- 輝政は、翌慶長18年(1613年)1月25日に姫路にて急死すると、本刀は子の忠継に贈られる。
諸道具割符帳
左衛門督に相渡候分、
一、蜂屋江ノ刀 将軍様より拝領、
池田忠雄→家光
- 池田忠継の死後、同母弟の宮内少輔忠雄に伝わるが、忠雄が家光に献上している。
池田忠継は父の死後16歳で初入部し、父の遺領の内、母・良正院の化粧料の西播磨10万石を分与され計38万石を領した。大坂冬の陣では、兄の利隆と共に徳川方として参戦したが、帰城後に発病。翌慶長20年(1615年)2月23日に岡山城で死去した。享年17。森忠政の娘菊と婚約していたが婚姻前に死去したため、嗣子がなく同母弟の忠雄が跡を継いだ。
德川綱重
- 3代将軍徳川家光が慶安4年(1651年)4月20日に死去すると、その形見として相州貞宗の脇指とともに三男・徳川綱重(御両典の甲府徳川家綱重は4代将軍家綱の弟で、子の家宣は6代将軍となった)へ与えられる。
長松君には蜂屋郷の御刀。貞宗の御さしぞへ。
- ただし、甲府家に伝わった道具には記されていないため不審であるともいう。
甲府左馬頭御道具に、上野紀神太夫行平、一期一振、国綱、秋田行光、〆丸行平など掲げたれど、蜂屋江は甲府の道具とは記さず不審なり
- 甲府左馬頭とは徳川綱重のこと。
- 明暦の大火で焼けている。
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