紅葉狩


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 紅葉狩り(もみじがり)

太刀
備前長船兼光
三尺三寸

  • 加藤清正の蔵刀
  • 朝鮮で虎の首を切り落としたという。

 来歴

  • 江戸城の石垣用として肥後から巨石を献上する時、清正は三尺三寸の兼光を指し、手に扇を持って木遣音頭(きやりおんど)を唄ったという。

    加藤肥後守清正、熊本七十萬石に及ひ候太守として、江城御築石を、領知より献上せる時、芝浦表より御城まて挽候みきり、手前人夫を用ひ、自分金のたね紙にて髪を茶筅に結ひ、紅の廣袖に同し丸ぐけのおひ、金箔にて蛇の目を、その廣袖の背にも、袖にも大きく付け、大兼光の三尺三寸の大脇指を落指しにして、金の扇子に、朱にて蛇目付けるをかざし、自身きやり歌をうたひで挽せけり、是皆合戦の時、手勢のあつかいと同しけるこゝともち、少しもかからさるゆへ、されハ公儀小普請人足も、御旗本中、御奉公勤ざる面々より、順番に下部を出し候、是御軍役のかかり也

  • 清正死後、遺物として将軍秀忠に献上した。
  • しかし清正の形見分け目録では、将軍秀忠には長船長光太刀来国光の脇差を献上したとなっている。恐らく別の時に献上されたものと思われる。

    同 清正遺物之事
    秀忠公へ 御太刀長光 御脇指来国光 御茶入
    家康公へ 御太刀助真 御脇指正宗 圓悟墨跡

  • 明暦の大火の際には、腰物係が縄でからげて本丸の井戸に放り込んだため焼失を免れたという。

    不斷指料の備前兼光三尺三寸の大脇指、清正卒期、送物として公儀へ差上候處、台徳公、殊の外御重寶に被思召、それより以來、御家の御寶物の、その壹ツとなる、備前大兼光といふ是なり、然るに明暦大火の時、御腰物方衆縄にてからけ、御本丸之井戸へ投込しゆへ、類焼せず、至于今延宝頃存在と云々、


 中島石右衛門所持「紅葉狩り」

太刀
もみぢがり/中島石右エ門
刃長二尺三寸五分

  • 幕末に王子稲荷神社に紅葉狩りという太刀が奉納されていた。
  • 不動利剣の彫刻があり、中心には差表に「もみぢがり」裏に「中島石右エ門」と切りつけてあった。

 来歴

  • これは窪田清音(くぼたすがね)の父である窪田助左衛門勝英が、寛政9年(1797年)重病平癒を祈願して寄進したものである。
    窪田清音新々刀刀工源清麿の師匠であり庇護者。清麿の清の字は清音の字をもらったものである。
  • これに添えられた由緒書きによると、中島石右衛門は加藤清正にしたがって文禄の役で朝鮮へ出陣している。立花宗茂が明兵数万に囲まれた際に救援に赴き、キコル山に到達する。そこで石右衛門が物見役に付いていると、明兵8人が襲撃してきたため即座に3人を斬り伏せ、2人に重傷を負わせたところ、残り3人は逃げ去ったという。清正は、むかし平維茂が戸隠山で鬼女を退治したのに似ているといって激賞し、この刀を与えるとともに文禄2年(1593年)2月18日付で「維茂石右衛門へ」と感状を出している。
  • 中島石右衛門はこれに「紅葉狩り」と名付け家宝とした。
  • 享保のころに中島作太夫の娘が窪田勝英の本家にあたる窪田主水正識に嫁いだ時、婿引出として主水正識に贈られる。
  • それが分家の勝英の家に移っており、勝英が王子稲荷に寄進した。

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