篭手切正宗
籠手切正宗(こてぎりまさむね)
- 享保名物帳所載
籠手切正宗 磨上長二尺二寸六分半 或ル一本ニ代七千貫 松平加賀守殿
大切先表裏樋并影樋殊の外太し忠(なかご)表に朝倉籠手切太刀なり天正三年、裏に右幕下御磨上大津伝十郎拝領と彫付有之候、佐野修理大夫所持、利常卿御手に入る、子細は不知- 「右幕下御摺上」の右幕下とは右大将のことで、信長を指している。信長が磨上をした後に大津伝十郎が拝領し、切付銘を入れた。
Table of Contents |
|
作
- 極めが二転三転している。
- 【貞宗】:朝倉家ではこれを「(相州)貞宗の太刀」と呼んでおり、その後信長が大磨上(三尺三寸→二尺二寸六分半)し、大津伝十郎が切付銘を入れた際には刀工名は不明だったようである。
- 【行光】:次の佐野家ではこれを行光として「佐野の大行光」と呼んでいたという。
- 【正宗】:その後前田家に移ってから正宗と極められたもので、結果「享保名物帳」では「篭手切正宗」として所載された。
由来
- 越前朝倉家に伝わったもので、京都東寺の合戦の際、朝倉氏景(越前朝倉氏第3代当主、弾正左衛門尉高景の子)がこの刀で敵の篭手を切り落としたことから「籠手切太刀」と称し、当時は貞宗の作と伝わる。※ほぼ同時代の作となる。
朝倉美作守氏景卒。
朝倉系圖云 氏景。 彈正左衞門尉正景子(或爲廣景子) 。
孫右衛門尉、美作守。[又景代トモ。]大功勝勲。後改宗勲。暦應二年己卯生。文和四年二月十五日。 十七歳。 從父徳巖戰東寺。而以貞宗太刀。功敵軍韝。乃銘其太刀之心曰韝切。(略)應永十一年十二月二十八日逝去。六十六歳。
(後鑑)
- 3代朝倉氏景(1339-1405)が死んだという記事で、略歴の中に本刀が書かれている。それによれば、文和4年(1355年)、氏景は父・2代朝倉高景(戒名 徳巌宗祐)に従って東寺で戦い、敵将の籠手を斬ったために貞宗の太刀を「籠手斬り(韝切)」と名づけ、切り付け銘を入れたという。「韝(韋へんに冓)」は”ゆごて”と読む。
【初代】 【2代】 【3代】 【4代】 【5代】 【6代】 朝倉広景──朝倉高景──朝倉氏景──朝倉貞景──朝倉教景──朝倉家景─┐ (徳巌宗祐)(大功宗勲)(大心宗忠)(心月宗覚) │ ※彦三郎正景 ※孫右衛門尉為景 │ │ ┌──────────────────────────────────┘ │ │【朝倉7代】 【朝倉8代】 【朝倉9代】 【朝倉10代】 【朝倉11代】 └朝倉孝景───┬朝倉氏景───┬朝倉貞景───┬朝倉孝景───┬朝倉義景 (英林孝景) ├朝倉景総 └朝倉景宗 │(宗淳孝景) └朝倉信景 ├朝倉教景 ├朝倉景高 │(以千宗勝) └朝倉景紀 └朝倉小太郎教景 (朝倉宗滴)
異説があり、大永7年(1527年)10月29日に、朝倉孝景(10代宗淳孝景、1493-1548)が京都川勝寺口で畠山勢を破った時のもの、または同年大永7年11月19日に朝倉教景(宗滴、1477-1555)が京都西院で畠山勢を破った時のことともする。
朝倉氏は代々諱が重複することが多く(例えば7代英林孝景は祖父や父もかつて名乗った教景を名乗った時期もある)、混乱しているものと見られる。上の略系図もよく知られる諱を記載したものであり、諱を変えているもの(英林孝景、11代義景など)もいる。()内は呼び分ける場合の名称を記した。信長と対峙した朝倉氏当主は11代義景である。
来歴
朝倉家代々
- 「後鑑」に従えば文和4年(1355年)に3代朝倉氏景が父に従って東寺で戦い、敵将の籠手を斬ったために貞宗の太刀を「籠手斬り(韝切)」と名づけ、切り付け銘を入れたという。
- 越前朝倉氏第11代朝倉義景まで伝わる。
信長
- 信長が天正元年(1573年)に朝倉義景を討った際に手に入れる。
大津伝十郎
- 天正3年(1575年)に自ら三尺三寸(三尺二寸とも)あった大太刀を二尺二寸六分半に磨上させた後、そのまま小姓の大津伝十郎(大津長昌)に与えた。この時一尺ほど磨上たために、中心にあったはずの銘も、朝倉氏で入れた「韝切」という切り付け銘もなくなってしまう。※朝倉氏の伝に従えば貞宗銘が入っていたはずである。
- 大津伝十郎はその由来をなかごに切り付けさせたため、由来が判明している。
朝倉籠手切太刀也 天正三年十二月
右幕下(※信長様)御摺上 大津伝十郎拝領
- 大津伝十郎は天正7年(1579年)に病死。
信長側近として様々に働いていたが、近畿方面で荒木村重が謀反を起こした際には摂津高槻城に行き高山右近を翻意させている。同城を受け取り城番となっていたが、城内で病死したという。妻は丹羽長政の娘(長秀の姉妹)であったが、のち蜂屋頼隆に再嫁している。
佐野信吉
- 経緯は不明だが、その後本刀は下野天明城主佐野信吉に伝わった。この頃は相州行光の極め。
佐野信吉
佐野信吉は富田一白の五男として永禄9年(1566年)に生まれる。従五位下・修理大夫。政綱、信吉。秀吉の御伽衆として知られる。佐野房綱(天徳寺宝衍)の養嗣子となって佐野政綱、後に佐野信吉と名を改める。北条氏康の子の佐野氏忠が追放されると、秀吉から佐野氏の後継者とされた。元和8年(1622年)没。下野佐野藩主佐野信吉のことで、江戸の火災で真っ先に駆けつけたことから逆に無断参府として咎められたという話が残る。北条氏康─氏忠 【佐野氏】 ├─姫路(北条就之室) 佐野盛綱─┬秀綱───┬泰綱───豊綱──┬昌綱───┬宗綱───┬乗讃院 ├小見是綱 ├柴宮行綱 ├桐生重綱 └桐生親綱 └信吉室 ├船越増綱 ├久賀利綱 └房綱━━信吉室(宗綱娘) ├戸室親綱 └中江川高綱 ├───┬佐野久綱 └田沼重綱 富田一白──┬佐野信吉 ├岩崎重春 │ ├公當 │ └島村貫吉室 ├富田信高(安濃津→宇和島) └富田高定
前田利常
- 佐野信吉が慶長19年(1614年)に兄である富田信高の改易に連座する形で佐野信吉が改易されると、前田利常が本刀を買い求め正宗に極められたものという。
佐野信吉の実兄富田高定は、三好家の養子であった時代からの豊臣秀次の家臣で、若江八人衆に数えられることもある。秀次切腹事件の後、追腹を切ろうとするが泥酔してしまい昏倒し、それが秀吉に伝わり怒りを買ったため自ら京都西山に幽居した。秀吉の死後、将才を惜しんだ前田利長が周囲の反対を押し切って1万石で召し抱える。関ヶ原の際の大聖寺城の戦いで、一騎当千の働きを見せたが討死した。この縁で前田家に入った可能性もある。
- 前田家で磨上したとも伝わる。それによれば信長が二尺三寸に磨上げ、さらに前田家で二尺二寸六分半へと磨上げたことになる。現在は2尺2寸6分。
- 宝暦10年(1760年)に榊原長俊(源長俊)が、前田家から本阿弥にだされていた本刀を拝見している。
宝暦十辰年本阿弥次郎太郎宅ニテ加州ノ籠手切ノ太刀ヲ見タリ。刃ノ長サ此書ニ異ナルコトナシ。切先余程ノヒタリ中心ノ銘少異アリ。故ニ爰ニ記。
朝倉義景籠手切太刀也、脇天正三年十二月。裏ニ右幕下御摺上大津伝十郎拝領ト有リ。郎ノ字半分キレタリ。此書ニ拝領トアレト予カ見タル所、郎ノ字半分切レ有。愚按ハ右幕下御摺上ヨリ前ニ大津ノ銘アリシト見エタリ。
榊原長俊は江戸時代中期の武士(旗本)、儒学者で有職故実の大家。名は長俊。号 香山。伊勢貞丈に師事、武家の故実に長け、武器研究家として著名だった。
- 明和8年(1771年)に御砥のために江戸へ取り寄せている。
明和八年七月十日、從御國江戸へ被遣候御道具
送目録、
江戸御道具御國殘帳
一、小手切 正宗御刀
御鎺金無垢、御切羽赤かね、白鞘
同帳二
一、北野卿 御刀
御鎺金無垢、御切羽赤銅、白鞘
同帳
一、備前國雲次御刀 代金三拾枚折紙
御鎺金無垢、白鞘、
〆三腰
- 文化9年(1812年)に本阿弥長根がお手入れをしている。
明治天皇
- 明治15年(1882年)7月8日、前田家から名物「平野藤四郎」とともに明治天皇に献上された。
八日 従二位前田齊泰・従四位前田利嗣其の家傳來の籠手切正宗の太刀及び平野藤四郎吉光の短刀を獻上す、九日、宮内卿をして御満足に思召さるゝ旨の御沙汰を傅へしめたまふ、
東博
- 戦後は国の所有となり、東京国立博物館所蔵。
大津伝十郎長昌
安土桃山時代の武将、信長の側近
初名長治
- 大津長昌は、信長の馬廻を務めた代表的な側近。
- 荒木村重の反乱後の有岡城攻めに参加している。天正6年(1578年)、荒木の降誘には失敗するものの高山右近らを内応させることに成功し、摂津高槻城番となる。
- しかし翌天正7年(1579年)3月13日に高槻城内で病死した。
三月十三日 高槻の城爲御番手 大津傳十郎被遣の處に病死の由候へき
(信長公記)
- 妻は丹羽長秀の妹
- 子に同名伝十郎がいる。
- 丹羽長重の家臣となるが、関ヶ原の際に東軍の前田利長と戦ったことで戦後丹羽家が改易されると、伝十郎は藤堂高虎に仕える。大坂の役にも従軍するが、丹羽長重が常陸古渡から陸奥棚倉を経て陸奥白河10万石に転封されると丹羽家に帰参した。
AmazonPrime Video30日間無料トライアル