大谷吉継


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 大谷吉継(おおたによしつぐ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将
紀之介
従五位下・刑部少輔
大谷刑部

Table of Contents

 生涯

  • 幼名紀之介
  • 豊臣秀吉の家臣で、のち越前敦賀城主。
  • 前半生はよくわかっておらず、近江で生まれたという説が一般的。
    父または吉継本人が大友氏の家臣であったことがあるともいう。「大谷刑部少輔吉隆は豊後の人にして」。「吉隆は大友家の臣なり、大友家亡し時、浪遊し、姫路に来り、石田三成に寄り、秀吉に仕ふ」。※「吉隆」は吉継が一時使ったとされる名乗り。

 秀吉家臣

  • 大谷紀之介は、秀吉が長浜城を与えられた際に新規雇用した下士の中に入っていたとも言われるが、その後天正ごろには小姓となっている。
    一説に、二千石の加増を打診された三成が、加増を断りその代わりに吉継を推挙したという逸話もあるが、上述の生母の立ち位置を考えると事実ではない可能性が高い。
  • 天正10年(1582年)の本能寺の変の後ごろから寺院宛書状などに名前が登場する。三木城攻めでは馬廻りとして従軍し、「大谷平馬」として記録にも登場する。

 刑部少輔叙任

  • 天正13年(1585年)7月に秀吉が従一位関白に叙任すると、吉継も従五位下・刑部少輔に叙任され、以後「大谷刑部」と称されるようになる。
  • 天正15年(1587年)には九州征伐に従軍しており、秀吉の側近として様々な外交書状に署名をしている。
  • 天正17年(1589年)9月25日蜂屋頼隆の死亡後に越前国敦賀郡・南条郡・今立郡の2万石余を与えられ、敦賀城主となる。当時の敦賀は日本海交易の要港、北国の物資の集散地であり、吉継支配の下、北国から畿内への輸送の拠点、出兵時の物資の調達拠点として機能した。
  • 天正18年~19年には小田原征伐や奥州仕置、文禄元年には朝鮮出兵に参陣している。小田原征伐後に天正18年(1590年)末には5万石へと加増されている。

 病状悪化

  • その後病状(癩病、一説に梅毒とも言われる)が悪化し、文禄3年(1594年)ごろには湯治治療をする記録が残る。
  • しかし秀吉が死去すると家康に近づき、慶長4年(1599年)に徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川家の伏見屋敷に参じ警護。また同年の石田三成襲撃事件の際には、毛利輝元に対して石田三成に加担しないよう書状を送っている。
  • 慶長5年(1600年)春、上杉景勝が会津領内で公然と軍備を整え始めると、家康は増田長盛と吉継の連署で書状を出している。

    京都にて増右(増田長盛)、大刑少(吉継)、万事内府(家康)公へ申し含められ候間、御申し分候わば御申し越しこれあるべし

 西軍入り

  • 慶長5年(1600年)7月、会津の上杉景勝に謀反の嫌疑ありとして家康が上杉討伐軍を起こすと、吉継は三千の兵を率いて上杉討伐軍に参加するべく領国を立ち、途中で石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。
  • 三成と家康を仲直りさせるために、三成の嫡男・石田隼人正重家を自らの軍中に従軍させようとしていたとされる。
  • そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられると、吉継は3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得する。しかし三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下、西軍に与したという。
  • 吉継は一旦敦賀城へ帰還し、東軍の前田利長を牽制するため越前・加賀における諸大名の調略を行い、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功している。

 関ヶ原

  • 9月、吉継は三成の要請を受けて脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出し布陣する。
    このうち戸田を除く4隊が、のち小早川秀秋隊の裏切りに乗じて東軍に寝返ることになる。戸田勝成は大谷隊に属し奮戦するも、織田有楽斎長男・織田長孝の槍を頭部に受けて討死した。この時織田長孝が使った槍が村正作であるとされ、戦後家康の前で槍を披露した際に、家康の家臣が誤って槍を取り落として家康の指を傷つけてしまうという逸話がある。
  • 吉継は西軍の最右翼に位置し、当時すでに病により盲目となっていたため輿に乗って軍を指揮し、午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦する。
  • 正午ごろ松尾山に布陣していた小早川秀秋隊が突如東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、一時的に500メートルほど押し返している。
  • しかし、さらに脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り大谷隊へ横槍を入れたため、前後側面の三方向から攻撃を受け大谷隊は遂に壊滅し、吉継も自害する。自害した吉継の首は、側近である湯浅五助(隆貞)の手により関ヶ原に埋められたという。享年42。
    吉継の生年については諸説あり。一説に、吉継の首は家臣三浦喜太夫が袋に包み、吉継の甥の従軍僧祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたとも言われる。
  • 大谷隊の壊滅は戦場の趨勢を一変させ、西軍諸将に動揺を与え、西軍潰走の端緒となる。
  • 辞世の句は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」で、これは戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている。

 刀剣

 逸話

 千人斬り

  • 天正14年(1586年)2月、大坂では千人斬りという辻斬り騒動が起こっており、その犯人として吉継の名前が上がっている。

    天正十四年二月廿一日
    このごろ千人斬りと号して、大坂の町中にて人夫風情の者、あまた打ち殺す由、種々風聞あり。大谷紀ノ介という小姓衆、悪瘡気につきて、千人殺してその血を舐れば彼の病平癒するとて、この儀申し付くと云々。世上風聞なり

  • しかし秀吉はその噂を信じることはなく従前どおり吉継を重用したという。

 100万の軍勢

  • 秀吉は、「紀之介(大谷吉継)に100万の軍勢を与えて、自由に軍配を指揮させてみたいものだ」と語ったという。同様の話は蒲生氏郷にもある。

 小早川秀秋

  • 関ヶ原で小早川隊の裏切りを受け自害する際、小早川秀秋の陣に向かい「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹したという。秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に死亡しており、この祟りによって狂乱して死亡に至ったという噂がある。

 関ヶ原の勇戦

  • 同時代の神龍院梵舜(天文22年 - 寛永9年)も吉継の死に感銘を受けたのか、小早川秀秋の裏切りと共に吉継が自害するまでの記録を梵舜日記に詳細に書き記している。

    士卒皆其恵に懐き、敢て離反する者なし、其敗るるに及びて、決然として自屠し、陵辱を受けず、人皆其智勇に服せり

  • また関ヶ原にある吉継顕彰碑には次のような文字が刻まれ、義に生き壮絶な最後を遂げたことが記されている。

    大谷吉隆は若年の頃より豊臣秀吉に仕え重用せられて越前敦賀の城主となる慶長5年関ヶ原役起るや石田三成の切なる勧誘に遭ひ之を阻止すれども聴かれず意を決して西軍に党し九月十五日此の宮に陣し攻戦大に努む然れども衆寡敵せず遂に自刃して逝けり吉隆人となり聡頴にして智勇兼備へ三成と共に秀吉を輔けて功あり其の蕨然として起ちしは一に主家の恩に酬ひ三成との義を重んぜしに因る固より成敗の跡を慮れるにあらさるなり而して盲目の身を以て悲壮なる最後を遂げ寡に武士道の亀鑑として永く名を青史に垂るる者と謂ふべきなり

 親友三成

  • 吉継は三成と「刎頚の友」と呼ばれるほど仲が良かったという。もっとも有名なのが茶会での話である。
  • 天正15年(1587年)、大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。この時、癩病(当時は、不治の病でかつ伝染すると考えられた)を患っていた吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み干したという。
  • その事に感激した吉継と三成の友情は強くなり、のち関ヶ原において共に決起する際に影響を与えたとされる。ただし、これは秀吉との話であったという説もある。

 石田三成の子

  • 関が原前に、自軍に従軍させようとした三成の嫡男石田隼人正重家は、関が原の趨勢が決まると、乳母やその父津山甚内により密かに脱出して妙心寺塔頭寿聖院に入り、住職の伯蒲慧稜によって剃髪して仏門に入れられた。
  • のち「済院宗享」の法号で臨済宗の僧となり、三成と三成の父石田正継が、伯蒲慧稜に帰依して建立された寿聖院の三世となっている。
  • 寿聖院の開基伯蒲慧稜は、俗姓角倉氏で豪商角倉了以は従兄弟にあたる。6歳で出家して龍安寺塔頭養花院に入り、天正2年(1574年)の31歳の時に印可を受けている。養花院から妙心寺に出世し、師匠月航の後を継いで龍安寺12世住職。石田三成と実父石田正継の帰依を受けて慶長4年(1599年)に妙心寺内に壽聖院を開いたほか、織田信包に請われて龍安寺塔頭西源院を復興している。

 湯浅五助と藤堂高刑

  • 湯浅五助は関東浪人であり、槍の名手として知られ、新参衆として吉継の側に仕えたという。
  • 吉継は、関ヶ原のおりにはすでに病が進行し盲目であったため、五助に「戦さが負けになったら申せ」と言い含めていた。合戦中「負けか?」と何度も尋ねるが、五助は「未だ」と返し続けたという。しかし、敗戦の色が明らかになり五助が「御合戦、御負けに候」と言うと、吉継は乗り物から体を半分乗り出し、首を討たせたという。
  • 吉継は、自害する前に「病み崩れたわしの醜い顔を敵に晒すな」と申し伝えていたため、五助は主君の命を守り吉継の首を戦場から離れた田に埋めたという。埋め終わった時に藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見されるが、五助が「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼むと、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取ったという。
  • 戦後、叔父である藤堂高虎が家康に湯浅五助を討ったことを報告すると、家康は「吉継の側近である五助なら主君の居場所も知っていよう」と高刑を詰問したが、高刑は五助との約束を守り、「知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったので、このことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ私を御処分くだされ」といい頑として所在を言わなかったため、その姿勢に家康は感心し自分の槍と刀を与えたという。
  • 五助の墓は、合戦後まもなく藤堂家によって建立された大谷吉継の墓の隣に、大正5年(1916年)、五助の子孫により建立された。
    藤堂高刑は鈴木弥右衛門と藤堂高虎の姉の子供として生まれた。その後慶長20年(1615年)の大坂の陣にも参加するが、5月6日八尾・若江の戦いで長宗我部盛親隊の猛攻を浴び、藤堂隊は壊滅状態に陥る。高刑は多くの将兵と共に戦死した。享年39。

 子孫

  • 大谷吉継の子、大谷吉治は関ヶ原の戦い後に浪人となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、義兄弟に当たる真田信繁らとともに大坂城へ入城。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で福井藩主となる松平忠直の軍勢と戦い、討死した。
  • 三男泰重の子で吉継の孫にあたる大谷重政は、寛永3年(1626年)越前福井藩主松平忠昌松平忠直の同母弟)に1800石で出仕、その子孫は家老の家格に列し、家老高知家大谷丹下家の祖となった。老中土井利勝らはこのことを知ると、「亡き家康様が知ったら喜んだだろう」と言ったという。

 関連項目


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