福島光忠
福島光忠(ふくしまみつただ)
- 備前長船光忠の作
- 享保名物帳所載
福島光忠 銘あり長二尺三寸七分半 代金百三十枚 水戸筑前守殿
昔福島左衛門太夫所持、表裏樋有なり
- 詳註刀剣名物帳所載
この水戸筑前守とあるは誤寫なり、水戸殿と三字記せし本あり、今村長賀本にも水戸殿の三字とすべしとあり。
福島左衛門大夫は正則の事なり、某子爵の云福島光忠は織田信長か光忠の刀廿五口集めたる其一刀なり、福島正則之を佩びのち徳川將軍家に入り水戸威公(頼房)に賜ふ、其子頼雄に譲られ弟の雄利に傳り同家にて焼失すと云ふ、さすれば今水戸家にはあらぬるべし、此焼失 月定かならぬ事なり。
※こちらでは焼けたのではないかとする。宍戸藩2代藩主の松平頼道は従五位下・筑後守であるため、それの誤字ではないかとされている。なお「雄利」という人物は見当たらない。
- 表裏に樋。在銘。
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由来
- 福島正則所持にちなむ。
来歴
福島正則
- 元は福島正則の所持。
将軍家
- 寛永元年(1624年)7月13日に正則が死ぬと、子の福島正利は将軍家光に「大光忠」を献上しており、それが本刀であるとされる。
十三日先に信濃國川中島高井野村に配流有し福島左衞門大夫正則。今年六十四歳にて死しけるにより。堀田勘左衞門正吉を検使に遣はさる。然るに正則が家士津田四郎兵衞。検使來着をまたずして。同國高井郡鴈田村巖松寺に於て遺骸を茶毘せしかば。正則配所にて賜はりし四萬五千石を收公せらる。長子備後守忠勝は四年前にうせければ。庶子市之丞正利に三千石下され祀を奉ぜしめらる。但し正則が遺物とてあふらの茶入、大光忠の刀、大森義光の脇差を献じ、大御所(秀忠)にきのめ肩衝、正宗の刀、青江国次の脇差を捧げ、甲府中納言忠長卿にも切刃貞宗の刀、たゝがう吉光の脇差、修理肩衝を進らせしとぞ
- 将軍家光は度々水戸邸に御成をしており、その際に刀剣の授受も行われている。
- 寛永4年(1627年)6月28日 水戸中納言頼房卿の邸にならせらる。この日頼房卿に光忠の御太刀。景光の御脇差。頼房卿より當麻の脇差を献ぜらる。※一説に7月3日
- 寛永13年(1636)11月12日 家光水戸邸に至る、家光より頼房卿へ恒次の太刀、(略)三献の時頼房へ光忠の刀、正宗の脇差、光圀へ貞宗の脇差を賜はる。
水戸宍戸藩
- 享保名物帳編纂の頃は、水戸御連枝の宍戸藩2代藩主松平頼道のもとにあった。
松平頼道は、水戸初代徳川頼房の六男松平頼利の長男(頼房孫)。正室は鈴木重政の娘。官位は従五位下・筑後守。先代藩主で叔父の頼雄に嗣子が無かったためその養嗣子となり、元禄10年(1697年)に藩主となった。享保6年(1721年)に65歳で死去。跡は長男・頼慶が継いだ。
- 伊勢貞丈の弟子、榊原長俊(源長俊)が安永8年(1779年)に記した「本邦刀剣考」にも載っている。
中古刀之寸尺之事
一、御物 本庄正宗 磨上名銘 二尺一寸五分半
一、同 大傳多三池 銘在 二尺一寸七分
一、今川義元の刀 義元左文字 磨上無銘 二尺二寸一分半
一、織田信長公の刀 ヘシ切國重 銘在 二尺一寸四分
一、蒲生氏郷の刀 會津正宗 二尺一寸六分
一、福島正則の刀 福島光忠 二尺三寸七分
その後
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