神崎正義


 神崎正義(かんざき まさよし)

昭和期の弁護士、愛刀家。

  • 同氏も著名刀を所持しつつも、検索で出てこない人物なのでここでまとめる。

 概要

  • 明治34年(1901年)神奈川県厚木市生まれ。神崎家は北条家臣・松田尾張守の裔という。
    神崎姓は、江戸時代に旗本として召されたときに、母方の三浦一族の姓を名乗ったのだという。
  • 作家児島襄の「東京裁判」にも度々登場する。
    • 児島襄戦史著作集 vol.11 (東京裁判) - 国立国会図書館デジタルコレクション

       たぶん、キーナン検事任命が発表になったころだが、弁護人神崎正義が(※清瀬弁護士のもとを)訪ねてきた。
       神崎弁護士は、陸軍元帥畑俊六と親しい。畑元帥は自分は連合軍の裁判にかけられることを覚悟している、そのさいは弁護をひきうけてくれ、と神崎弁護士に依頼した。なぜ畑元帥がねらわれているかわかるか、と神崎弁護士がたずねると、元帥は、戦時中に米機がまいた宣伝ビラを見せた。「日本軍部指導者諸君」と降伏を呼びかけたビラは、表に十二人の写真、裏にトルーマン米大統領の写真を印刷してあるが、十二人の中に畑元帥の顔も見える。(略)
       いち早く、この宣伝ビラと戦犯をむすびつけた畑元帥の鋭敏さに、神崎弁護士は感服し、依頼を承知すると、清瀬弁護士を訪問したのである。陸軍省の顧問をしている関係上、清瀬弁護士も、いずれは戦犯裁判に弁護人をつとめることになるだろう、と感じていた。

  • 経歴だけを並べると名家出身のエリートのように感じるが、そうではない姿がある弁護士の追想録に登場する。50歳を過ぎてもまだ英語の勉強を怠らなかったという。

    神崎正義弁護士といえば、東京裁判で畑俊六元帥の弁護人をつとめた人である。身内には裁判官、検察官もいる法曹一家の一人であった。私が行った時、五十余歳でありながら、なお英語の勉強に怠りないなど、一方では錚々たる地位と同時に大変な努力家でもあったといえる。

  • 昭和42年(1967年)2月1日、66歳で病没。
    生家は厚木。住居は茅ヶ崎。生家の方では幾度か日本刀剣保存会の特別鑑賞会が行われており、松田氏先祖が建立した菩提寺である松石寺(しょうせきじ)が付近にあると書かれており、神奈川県厚木市上荻野付近なのではないかと思われる。

 愛刀家

  • 少年期からの愛刀家で、中央大学在学中に日本刀剣保存会へ入会。日本刀剣保存会の幹事、のち理事となっている。
    • ※大正13年(1924年)の羽澤研究会にも出席しているようだ。当時数えで23歳。
太刀
備州長船住兼光/暦応二二年七月日。刃長二尺七寸一分五厘。南部家伝来。生ぶ中心。表裏棒樋。表は鎺元に独鈷剣、裏に梵字を浮彫り。
太刀
金象嵌銘貞次磨上之/本阿 花押(光室)。刃長二尺五寸六分。前田家伝来。「大青江
太刀
額銘 備中国住次直。金象嵌銘 毛利元康所持依此刀利埋忠磨上之。刃長二尺三寸一分。表裏に棒樋。毛利家伝来。「朝霜次直」。昭和10年(1935年)8月21日に重要美術品指定。
太刀
銘 備前長船住元重/□□年八月日。三尺二寸生ぶ中心 ※三尺三寸四分とも
短刀
銘 吉光。刃長八寸六分。名物増田藤四郎
短刀
加州住真景/貞治六年月日。刃長九寸四分五厘。重文。
短刀
銘 安吉。刃長一尺六分。表裏に刀樋と連れ樋。重文。柳沢家を出たあと三井合名会社所蔵となり、のち神崎氏が購入した。
柳沢吉保の嫡子は元禄14年(1701年)に元服し偏諱を与えられ「吉里」と名乗った。その際に青江助吉の刀と左安吉の短刀を拝領しており、本刀がそれではないかとされている。
短刀
銘 来国次。刃長九寸。表護摩箸、裏腰樋。小田原大久保氏伝来、昭和6年(1931年)に三井合名会社所蔵、戦後に神崎氏が購入。
伝三池。刃長二尺四寸。毛利家伝来。
短刀
朱銘 来国俊。本阿(花押)。本阿弥光温
短刀
銘 江州甘呂 俊長。刃長八寸九分。重文。
短刀
銘 長谷部国重/延文□年二月日。刃長九寸五分五厘。
朱銘 三木左(光忠折紙)。刃長二尺三寸五分。
大磨上無銘 伝三池(光温折紙)。刃長二尺四寸六分。
太刀
銘 八幡大菩薩 備前長船則光/白鳥大明神 長禄三年八月日。刃長二尺一寸九分。藤唐草紋の半太刀拵が付属しており、石黒正常の金具。
銘 荘司筑前大掾大慶直胤花押 文政十一年仲秋。刃長二尺一寸四分。鯨ヒゲ巻柄の刀拵がつく。船田一琴の金具。四君子を模す。
太刀
伝一文字。刃長二尺四寸七分。毛利家伝来。
太刀
銘 幸継(長船)。金象嵌 本多平八郎忠為所持。刃長二尺七寸五分五厘。岡崎本多家伝来。※二尺五寸三分とも
銘 備州長船住盛景/永和二年二月日。刃長二尺一寸。小笠原家伝来。※年紀銘が「永和元年」だともする。ハネているので恐らく元年だろう
脇指
銘 備前長船則光/寛正七年二月日。刃長一尺六寸。橋市の塗りの唐草紋蒔絵の脇指拵がつく。
肥前国忠吉(五字忠吉)/慶長六年八月日。刃長二尺二寸四分五厘。鍋島家伝来。長義写し。これが新刀で唯一という。※二尺二寸八分とも
薙刀
銘 広美。刃長一尺七寸八分五厘。山内家伝来。
短刀
朱銘 当麻。朱銘は本阿弥光室による。表に菖蒲樋。
脇指
大磨上 切付銘 依刀利埋忠磨上之/貞吉正銘也毛利元康所持
無銘 郷義弘。毛利家伝来。
太刀
銘 則重。刃長二尺三寸八分。
無銘 伝則重。刃長二尺四寸一分。大磨上無銘。光忠折紙
太刀
銘 国行(青江)。刃長二尺三寸一分。光忠折紙
短刀
銘 鎌倉国人行光/元亨二年三月。刃長七寸九分余。古刀銘尽大全所載。
金象嵌銘 正宗。※本阿弥光勇象嵌?
無銘 包氏。刃長二尺三寸八分。大磨上無銘。
桂小五郎(木戸孝允)の愛刀。銘 備前国住長船五郎左衛門尉清光作之/天文二十年二月。刃長二尺一寸八分、反り五分五厘。桐唐草象嵌の江戸肥後造の金具、柄は長門巻、鞘は革着せで表鯉口から鐺まで金の革止めがある。小五郎は、江戸でこの刀を買い求め、拵えを自分好みに新調した。小五郎の死後も戦後まで木戸家で所蔵したが、のち神崎正義が所蔵したという。

 関連項目


Amazonファミリー無料体験