石井正宗
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石井正宗(いしいまさむね)
- 「秋田正宗」とも
由来
来歴
- 詳註刀剣名物帳では「石井伝右衛門何れの人とも分らず」としている。
- おそらく肥前鍋島氏の外戚一門衆の肥前石井氏の石井正能ではないかと思われる。
- 石井正能は、通称伝右衛門。佐賀藩主鍋島家の代々重臣をつとめた石井家に生まれ、長じて初代藩主鍋島勝茂の家臣となる。
祖父石井生札は佐賀藩祖鍋島直茂の側近で、鍋島生三、下村生運とともに「鍋島三生」と称された名臣。佐賀藩家老。
- 島原の乱に出陣した際には、同族の石井正之と示し合わせて、敵陣一番乗りを成し遂げ、一躍英雄となる。
※軍令で定めた一日前に功名目当てで突撃したため、軍令違反で閉門を命じられている。
- のち、江戸在府中の吉原通いと、遊女との不適切な関係を咎められ切腹している。
- ただし伝右衛門が肥前石井氏だとしても「秋田」で買い求めという由来がよくわからない。
- なお"光室"は本阿弥光室のことで、天正11年生まれ寛永2年(1625年)没。伝右衛門なる人物が本阿弥光室と相談して正宗三百枚に極め、のち三百五十枚に直された。
秋田正宗
- この「石井正宗」は別名「秋田正宗」と呼ばれるという。
- 寛永6年(1629年)4月、前田利常に下賜されている。
廿六日加賀中納言利常卿が上野の別墅にならせ給ふ。利常卿に二字國俊の御太刀。秋田正宗の御脇差。銀三千枚。時服三百。夜着二十。羅紗三十間。長子筑前守光高に眞長の御太刀。貞宗の御脇差。
廿六日大猷院殿利常が上野の別業に渡御ありて二次国俊の御太刀、秋田正宗の御刀、(略)をたまひ。利常よりも友成今の□□大友の太刀の太刀、大原真守の刀、長銘正宗の脇指、(略)を献ず。
ただし秋田正宗の「御脇差」と記されており、これは短刀を表している。
- 正保2年(1645年)8月、父前田光高の遺物として将軍家に献上している。
廿一日故松平筑前守光高長子犬千代丸襲封の謝恩に登營あり。(略)御脇差を奧にてたまはり。大納言殿より萬菊丸へ丹州國光の御脇差をつかはさる。けふ故筑前守光高が遺物秋田正宗の刀。密庵の墨蹟。肩衝(此村)を奉り。大納言殿へ戸川國次の脇ざし。面影といふ茶壺を獻ず。
ここでは刀になっている。
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