浅井一文字


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 浅井一文字(あざいいちもんじ)

太刀
銘一
二尺一寸六分

  • 享保名物帳所載

    浅井一文字 在銘長二尺一寸六分 代千五百貫 松平美濃守殿
    江州浅井備前守長政殿所持、其後如何なる伝なるや尾張大納言殿御若年の時御所持、元和三年丁巳年四月四日守家三枚の御太刀筑前守殿に下さると御帳にある由光室覚書に在り、其刻一所に拝領歟、松姫君様御入輿以後右刀千貫にて松平美濃守殿へ宰相殿より被遣、其後来り代上る

    • いつごろからか分からないが、尾張義直が若年の時より所持しており、元和3年(1617年)に前田利常が(将軍秀忠から)守家(金三枚)を拝領した時に本刀も一緒に伝わったと本阿弥家の記録にあり、その後、松姫(尾張3代綱誠の娘、綱吉養女)が前田吉徳に嫁いだ宝永5年(1708年)以降に前田家より美濃守殿(柳沢家)へ千貫で伝わったという。
  • 本阿弥家伝名物帳」では加賀守殿(前田家)、芍薬亭本名物帳では美濃守殿(柳沢家)となっており、この間に柳沢家に譲渡されたと見られる。
  • 今は磨上られ銘が消えているが、かつては「宗吉」在銘だったという。宗吉は福岡一文字とりわけ古一文字と呼ばれ、御番鍛冶の七月番ともいう。
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 由来

  • 北近江の戦国大名浅井(あざい)長政所持にちなむ。

 来歴

 信長?

  • 元は織田信長が所持か?(あくまで可能性の話)
  • 永禄11年頃、浅井家との同盟が成り、お市の方が輿入れしている。その際に、信長から一文字宗吉を、また長政からは石割兼光を贈ったという。

    永正十一年七月二十八日に信長卿より浅井備前守方へ使節を以申させ給ふは、(略)備前守には一文字宗吉の御太刀并に鎗百本、しちら百端、具足一領、御馬一疋を引給ふ。父久政には黄金五十枚、御太刀一振を給はる。(略)其時長政は家重代の備前兼光太刀、名を石わりといふ一腰、近江綿二百把、同じく国の名物布百疋、月毛の馬一匹、定家卿の藤川にて被レ遊し近江名所つくしの歌書二册進上して御禮申上る。
    (浅井三代記)

    • 信長より:一文字宗吉→長政、御太刀一振→久政
    • 信長へ:備前兼光太刀「石わり」
    • ※この時の一文字が浅井一文字かどうかは不明。
  • ※また浅井家には、別の刀で一文字を磨上た刀も伝わっていた。これは浅井一文字とは別の刀。大正10年(1921年)の遊就館に出品された際は田安徳川家所蔵。
    • 一文字 表ニ五條左京佐用之と切り、裏ニ弘治二年辰三月、スリ上、浅井備前守とあり、大丁字亂刄
      弘治2年(1556年)といえば長政はまだ数え12歳である。年代的に父・久政ではないかとも思うが、久政は左兵衛尉、下野守、宮内少輔。また祖父・浅井亮政(通称備前守、号 休外宗護)とも書かれているが、亮政は天文11年(1542年)没なので矛盾し、磨上たのは長政しかないと思われる。
       なお長政は「備前長船住兼光/貞治五年八月」銘の兼光にも同様に「弘治三年二月浅井備前守帯之」と銘を入れている。こちらの兼光も田安徳川家伝来。

 浅野長政→茶々

  • 天正元年(1573年)8月に浅井長政が自害すると、一文字の刀は形見として長女茶々(淀殿)に伝わる。
    • ※この一文字が浅井一文字かどうかは不明。仮に本刀であったとしてもその後尾張義直に伝わる経緯が不明。

 尾張徳川家

  • 慶長20年(1615年)の大坂の役で行方不明となるが、後に尾張徳川家に伝わる。

    其後如何なる伝なるや尾張大納言殿御若年の時御所持

    徳川義直は慶長6年(1601年)生まれ。大坂冬の陣には14歳で初陣しており、翌年の大坂夏の陣の際には15歳。

 将軍家

  • 元和3年(1617年)4月、尾張義直が将軍秀忠に献上している。
    将軍家腰物帳には「丁巳四月四日、尾張宰相殿江御成ノ時進上」とあるが、御成ではなく拝謁の際に献上している。そもそもこの時には「江戸邸成らず、故に本多美濃守(忠政)邸を以て仮宿とす」と書かれている。鼠穴屋敷地を拝領するのは同年9月。

 前田利常

  • 同年5月、秀忠から前田利常に下賜。本阿弥光室の覚書にも記されているという。

    元和三年丁巳年四月四日守家三枚の御太刀筑前守殿に下さると御帳にある由光室覚書に在り、其刻一所に拝領歟

    十三日松平筑前守利常の邸に渡御あり。(略)廣間へ成せられて利常へ守家の御太刀。一文字の御刀。平野藤四郎の脇差。(此御脇差は中納言利長さきに献ぜし所なり。)

    太刀守家、刀貞宗、脇差新身藤四郎(略)利常是ヲ献ス

  • 本阿弥光甫の極めた少ない刀の一つで、金象嵌を入れたという。

    光甫翁の極め置かれた刀劍も亦頗る稀であるらしい。公爵山県有朋氏所蔵の浅井一文字は光甫翁の鑑定せられたものであるが余はいまだ其外に見ない山縣公爵の浅井一文字にも金象嵌で光甫の銘が入ってゐる。

  • 寛文8年(1668年)に代千貫の折紙

 柳沢吉保

  • 宝永5年(1708年)以降に柳沢吉保に譲っている。柳沢家の時に代千五百貫になる。

    松姫君様御入輿以後右刀千貫にて松平美濃守殿へ宰相殿より被遣

    松姫君様とは前田利常の七女。慶安元年(1648年)の産まれで桑名藩主松平定重に嫁いだ。なお柳沢吉保が将軍綱吉から松平姓および「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保と名乗り、出羽守から美濃守に遷任したのは元禄14年(1701年)のこと。

 山県有朋

  • 廃藩置県後、明治4年(1871年)10月に柳沢家から売りに出されたものを、山縣有朋が譲り受ける。
    • 明治5年(1872年)10月赤井梶蔵が拝領し、その後旧臣の土倉某が三百円で入手していたものを、日清戦争の戦勝記念として本阿弥光甫筆の巻物を添えて山縣に贈ったという。
  • なお今村長賀は「剣話録」で、西郷従道が入手して砥ぎ直しさせ、その後山縣が入手したのだとする。

    是は過る(明治)十三年八月に西郷侯が之を取寄せられ、其節本阿彌平十郎に磨直させ、其節度々見た事がある。本阿彌光甫自筆の傅來の巻物が添へてあつた。是は唯今公爵山縣家に傅つて居る。

  • つまり明治13年(1880年)8月に西郷が取寄せ、本阿弥平十郎に砥がせた。その際に今村長賀も拝見しており、本阿弥光甫自筆の伝来をしるした巻物が付属したという。巻物まで拝見したと言っているのでさすがに嘘ではなく、あるとすれば年月の記憶違いだろうと思われる。
    なお西郷隆盛は明治10年(1877年)没で、正三位だったが爵位はない。死後に官位褫奪され無位になるも、明治22年(1889年)大日本帝国憲法発布時に大赦され正三位を追贈された。
     弟の西郷従道は侯爵。華族令で勲功のあったものが授爵したのが明治17年(1884年)なので、今村のいう「西郷侯」とは西郷従道を指している。なお西郷従道は明治35年(1902年)没。ちなみに山縣有朋は大正11年(1922年)まで生きた。
  • これらを強引に矛盾なくつなぐとすれば次のようになる。
  1. 江戸期に柳沢吉保が入手
  2. 明治5年(1872年)10月:赤井梶蔵が拝領
  3. 明治13年(1880年)8月:西郷従道が取寄せ
  4. のち土倉某が三百円で入手 ※これが西郷のあとと考えれば矛盾はない
  5. 明治28年(1895年)5月:日清戦争の講和成立
  6. この頃:(土倉某が?)戦勝記念として山縣に贈った
  • 明治45年(1912年)7月刊行の今村長賀の「剣話録」にも押形が載っている。いろいろあったが最終的には山縣有朋の元に納まった。

    淺井一文字太刀
    公爵 山県有朋君藏
     
    銘 一 太刀銘 號淺井一文字 名物帳所載
    形 鎬造身長二尺一寸六分 莖長六寸六分 反り身巾元一寸○七厘 中九分二厘 先七分六厘 鎬巾元三分五厘 中三分 先二分五厘 重元二分 中一分八厘 先一分六厘 三ツ頭ヨリ切先迄一寸一分 横手ヨリ切先一寸二分五厘
    鍛 板目    刄 逆足大丁字刄匂深シ
    鋩 亂      中心 生忠切鑪目釘穴二ツ

 焼失

  • 山県有朋の死後には養子の山縣伊三郎氏が所持したが、大正12年(1923年)の関東大震災で消失。焼け跡から残骸も見つからなかったという。

    浅井一文字刀
    長二尺六寸五分 白鞘
    此刀は浅井長政より淀君、徳川家、柳沢家に傳來したる名物なり、焼跡に残骸も見つからざりしと云ふ

    この時の記録では「長二尺六寸五分」となっているが誤記と思われる。

  • 昭和15年(1940年)の原田道寛「日本刀私談」に詳しい経緯が載っている。

    山縣公秘藏の淺井一文字は元淺井長政之所持であつた。この刀は長さ二尺一寸六分、一文字宗吉の作で、本阿彌光甫自筆の傳來書きが付いてゐるさうだ。徳川家淺井長政を討ち之を滅ぼした時手に入れたものであらう。後徳川家の重器となつてゐたが何うした理由か、之が柳澤伯爵家のものとなつた。
     所が、維新後この有名な一文字が賣物になつた。何でも廢刀令の出た間もない頃で、同家では最早刀劍などは全く不要のものと見切りを附け、名刀も鈍刀も一トからげにして一束五圓とか十圓とかいふ相場で道具屋へ賣拂つたのださうだ。この中から、樺山大將所持の備前三郎國宗、伊藤評定官所持の有名な村雲江、それにこの淺井一文字などが出たのであるが、最初この一文字は京都あたりの某氏が之を求めて山縣公へ進物としたのださうである。某氏が求める前には西郷公爵と吉井伯とが競争して手に入れようとしたが、兩家とも遂に手に入れることが出來なかつたのを、某氏が三百圓の大金を投じて手に入れたのださうだ。

    今村長賀の話では西郷従道は入手して本阿弥平十郎に研がせたとなっているが、この原田道寛の逸話では入手しそびれたという話に変わってしまっている。


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