水心子正秀(刀工)
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水心子正秀(すいしんしまさひで)
江戸時代後期の刀工
鈴木三治郎
鈴木三郎宅英、川部儀八郎正秀
号 水心子
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概要
- 源清麿、大慶直胤と並び「江戸三作」と称された名工
- 寛政年間頃から後に作られた刀、「新々刀」の祖として知られる。世の太平に慣れ、刀も弱い作りになっていたのに反発し、南北朝~室町初期頃の古刀を理想像としてその再現をめざした。
生涯
- 寛延3年(1750年)出羽米沢藩領の中山村諏訪原(現、南陽市元中山字諏訪原366-1)に生まれる。
- 本名は鈴木三治郎
- 父を早くに亡くし、母の実家である赤湯町外山家に母、兄太兵衛とともに移り育つ。古い膳に灰を敷きそれに字を書いて手習いをしたという。
- 外山某に入門して野鍛冶となり、のち鍛冶の基礎を下長井小出の吉沢三次郎に学ぶ。このころ「鈴木三郎宅英」と切る。
- 刀工を志して山形へ戻り、名を英国と改める。
- 更に明和8年(1771年)、22歳の時に武州八王子の宮川吉英の下で腕を磨き、山形に戻る。
- 安永3年(1774年)、山形藩2代藩主秋元永朝(館林藩秋元家8代)に召抱えられ、ここで川部儀八郎正秀と名乗り、「水心子」と号した。
- 過去の作刀の研究を続け名工の子孫に教えを請い、中でも寛政元年(1789年)、刀工正宗の子孫、山村綱廣(同家は代々綱廣を名乗る)に入門し、秘伝書を授けられた。その後も研鑽を続け、泰平の世で衰退しつつあった日本刀に大きな影響を与えた。
- 文政2年(1819年)古希を迎えると天秀と改名。
- 孫娘の秀蘭に書かせた文章を掛け軸にしたという。
不泥古作 不因新刀 剛鉄溶煉
加全金気 地鉄細美而 焼刃不尅
陰陽相和 難折難撓 鉾刃精利
- 文政8年(1825年)9月27日、76歳で没。
復古
- 水心子正秀が唱えた鍛刀法。
- 時を経て鋼を生み出す方法が失われたため、古来の製法に戻すことを提唱し実践した。
- 【古来】:古くは鉄山において砂鉄を千日千夜吹いて流れだした銑鉄を刀工は買い求め、それを火床で卸した。炭素量が適当であればそのまま打ち延ばし刀にして、多すぎれば5~6回鍛えることで適度な炭素量にしていた。
- 【中古】:応永末ごろになると、鉄山で千日千夜吹く方法をやめ、三日三夜、または一日夜吹く方法に変わった。そして炉底にたまった鋼を引き出し、細分したものを延べ鋼と称して売りに出すようになった。農具鍛冶はそれを使って農具を造ったが、刀工は使っていなかったという。
- 【天文ごろ】:天文ごろになると、播州宍粟郡千草村の鉄山で炉底の鋼塊を打ち砕き「白鋼」の名前で売りだした。石州邑知郡出羽村の鉄山でもそれに習って「水入れ鋼」の名前で売りだしたので、刀工たちはそれを買い、10回も鍛えた上で適当な炭素量にした上で刀を作るようになった。
- 【慶長】:慶長頃になると、全国の刀工はすべて白鋼や水入れ鋼で刀を作るようになったため、寛文・延宝ごろになると、昔の銑鉄を卸して鋼にしたもので刀を作る方法は絶えてしまった。
氏名について
- 「川部」姓を名乗ったこと、また刀工名を「正秀」のち「天秀」とし、さらに子に「貞秀」を名乗らせたのはそれぞれ意味があるのではないかという指摘が昔からある。※洒落の通じない人向けに念の為に書いておくと、根拠書籍等があるわけではなく連想ゲームに近い
或人は斯う言つた、鈴木姓を川部に變へたのは川上部を慕ふてである、正秀は正宗に秀づるといふ意味で、伜貞秀は貞宗に秀づるといふ意味だと、して見れば老後天秀と切るは天國に秀づる意味か、元より想像の事であるが一寸記して置く。
川上部(かわかみのとも)
垂仁天皇39年10月条に登場する五十瓊敷入彦命が剣千振を作り石上神宮に納めたという逸話がある。川上部は、石上神宮と関わりのある刀工(集団)であったという。「卅九年冬十月、五十瓊敷命、居於茅渟菟砥川上宮、作劒一千口。因名其劒、謂川上部、亦名曰裸伴(裸伴、此云阿箇播娜我等母)、藏于石上神宮也。是後、命五十瓊敷命、俾主石上神宮之神寶。」※原文通り素直に読めば、奉納された剣千口の名前が川上部、あるいは裸伴ということになるがそれでは意味が通じない。おそらく剣の制作にあたった鍛冶集団がいたものと思われる。
門弟
- 76歳で没するまで江戸日本橋浜町秋元家中屋敷内で鍛刀したが、正秀は無位無官終生わずか7人扶持で通し、多くの門弟を抱えたという。
館林藩濱町中屋敷
寛永12年(1635年)、館林藩秋元家2代藩主の秋元泰朝が日光造営総奉行の頃に小屋場(材木置場)を拝領し、後に中屋敷となったという。添地元禄16年(1703年)7月。坪数七千五百四拾七坪餘。現在はトルナーレ日本橋浜町のあたり。
- 特筆されるのは、その技術を十数冊の本として刊行し、公開したことである。門弟も北は出羽米沢から南は薩摩まで百余人を数え、新々刀の祖と言われた。
- 「剣工秘伝志」「刀剣弁疑」「刀剣実用論」「刀剣武用論」「鍛錬玉函」
- 生涯に369振の刀を打ったという。
大慶直胤
- 詳細は「大慶直胤」の項参照
細川正義
- 詳細は「細川正義」の項参照
長運斎綱俊
- 詳細は「長運斎綱俊」の項参照
系譜
- 水心子は、初代ののち四代まで続く。
初代:水心子正秀
- 川部儀八郎正秀
- 著名刀
- 「目覚め」
- 目が覚めるほど切味が良い意味
- 「石煙」
- 脇指に「石煙八丁精鉄金石八丁両断 不拘新与古特得恍惚鍛」と入る。石煙とは石煙墨のことで、それを八丁重ねておいて切ったという意味。
- 「縦死」
- 文化8年(1811年)の鉄鍔に「縦死猶侠骨香」(たとい死すとも猶お侠骨の香を聞かしめん)と彫ったものがある。王維の「少年行四首」の一節を引用したもの。
新豊美酒斗十千、咸陽遊侠多少年。
相逢意気為君飲、繋馬高楼垂柳辺。
出身仕漢羽林郎、初随驃騎戦漁陽。
孰知不向辺庭苦、縦死猶聞侠骨香。
一身能擘両彫弧、虜騎千重只似無。
偏坐金鞍調白羽、紛紛射殺五単于。
漢家君臣歓宴終、高議雲台論戦功。
天子臨軒賜侯印、将軍佩出明光宮。
刀釼造法 - 文政5年(1822年)の作。切刃造り。「刀釼造法 其理明而不 畏古之冶 雖然亦不侮 是唯以鍛煉 去鈍滓全鉄気而不泥刃文 陰陽相和鉾刃清利 難折難撓 無所疑」と鍛刀の理念を切りつけたものがある。
- 報恩
- 寛政2年(1790年)杉田某への報恩のために贈った刀。銘「余誤損三指 殆妨業得杉田氏治 鍛煉如初 乃作此刀報恩」。刃長二尺六分。
- 刀
- 銘「秋元家臣川部儀八郎藤原正秀/天明六年二月日」長二尺三寸五分、反り五分。目釘孔1個。天明6年(1786年)。
- 刀
- 銘「水心子正秀/寛政十年二月日 東大城之劔工源綱廣」長二尺三寸九分、反り五分。源綱広との合作。寛政10年(1798年)。
- 刀
- 銘「川部儀八郎藤原正秀/享和二年二月日」長二尺二寸六分、反り五分。裏に二本腰樋。津田助広写し。重要刀剣。享和2年(1802年)。
- 刀
- 銘「川部儀八郎藤原正秀/享和元年八月日」長二尺二寸四分五厘、反り三分五厘。佩裏の下り剣巻竜は本荘亀之助義胤の作。享和元年(1801年)。
- 刀
- 銘「川部儀八郎藤原正秀/於東大城之下造之 文化八年二月日」長二尺三寸一分、反り五分五厘。孫六兼元写し。文化8年(1811年)。
- 刀
- 銘「水心子正秀/文化九年二月日 應菱田直親需造之」長二尺一寸六分、反り四分五厘。佩表に棒樋と素剣の透かし彫り、裏には棒樋に護摩箸。文化9年(1812年)。
二代:川部熊次郎(水寒子貞秀)
- 2代:水寒子貞秀
- 川部儀八郎正秀(初代水心子)の子。川部熊次郎。
- 水寒子、白熊入道と号し、後に水心子と号す。
- 文政2年(1819年)に初代が天秀と改名すると、水心子正秀と改める。
- 文政8年(1825年)10月20日、父の後を追うように没。
三代:川部北司(水心子正次)
- 3代:水心子正次
- 亀松貞秀の子。
- 父貞秀が早世したため、祖父の門人である大慶直胤に師事し、のちにその娘婿となる
- 長じて川部北司と称し、武州館林藩工となる。
- 万延元年(1860年)閏3月11日没、47歳
- 袖雪
- 「袖雪号」
四代:川部儀八郎秀勝
- 3代の養子。
- 通称勇吉郎、藤次郎、儀八郎
- 明治26年(1893年)没
- 銘「正日出」「天日出」。銘の下に「日天」を図案化した刻印を打つ。
- 刀
- 銘「川部儀八郎藤原正日出(花押)/享和三年正月吉日」昭和16年(1941年)4月9日重要美術品指定、下郷共済会所蔵。
氷心子秀世
- 水心子正秀の娘婿。
- 本名は田村群平。水心子正秀に師事し、のちに娘婿となって氷心子と号して江戸麻布に住んだ。
- 門弟百人と称された数多の正秀の弟子中にあって、正秀の晩年には数多くの代作を行ったと言われる。山浦真雄が江戸に出て水心子正秀の門人となった際、秀世が手ほどきをした。
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