朱判正宗


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 朱判正宗(しゅはんまさむね)

短刀
朱銘 元和二 正宗/光徳(花押)
名物 朱判正宗
一尺二分

  • 享保名物帳所載

    朱判正宗 朱銘長一尺二分 代金五百枚 紀伊殿
    表裏樋、反り有り、忠表「元和二」下に「正宗」、表に光徳朱判と有之、紀伊中将殿御入輿の刻拝領

  • 詳註刀剣名物帳所載

    この紀伊中將殿入輿とあるは紀伊中將殿へ御入輿と讀べし將軍家の女にて紀州へ嫁したるは五代綱吉公の長女鶴姫紀伊中將綱教へ嫁したれば此時賜はりし物と知らる此外には享保前一人もなし。

  • 金五百枚の折紙つき
  • 平造り、表裏に刀樋。鋩子尖る、中心うぶ、目釘孔2個。

 由来

  • 朱判にちなむ。
    朱判とは、朱漆で鑑定銘を入れたものをいう。本阿弥家では()中心(なかご)無銘のものに限って入れる決まりとする。光徳、光室、光温、光常、光忠らの朱銘入の刀剣は、在銘品と同様に扱われることがある。

 来歴

 前田家

  • ※これ以前の来歴は不明
  • 元和2年(1616年)に本阿弥光徳が朱銘を入れている。「元和二 正宗」、裏に「光徳(花押)」

 前田家→将軍家

  • 万治元年(1658年)閏12月10日、前田綱紀が襲封の御礼に、祖父利常の遺物としてこの正宗を献上する。

    前田綱紀 加賀守 利常の孫 致仕肥前守 松雲院 寛永二十年生る、正保二年八月廿一日襲封を謝するの時、新藤五国光の御脇差を賜ふ、此日父(光高)が遺物秋田正宗の刀、密庵の墨跡、この村肩衝の茶入を献ず、万治元年閏十二月十日、祖父(利常)が遺物朱判正宗の脇指、漢瓢箪の茶入、定家筆の伊勢物語を献ず
    (寛政重修諸家譜)

      利常公御逝去の事
      御遺物の事
    一、公方様へ
       朱判正宗御脇指  目貫芥子、小刀柄七夕、梨子地蒔絵の箱に入。
       漢瓢御茶入  袋二つの内漢嶋金襴
       定家筆   伊勢物語
    (三壷聞書)

    秋田正宗とは「石井正宗」のこと。漢瓢箪の茶入とは「上杉瓢箪」のこと。

 将軍家→紀州徳川家

  • 貞享2年(1685年)3月6日、5代将軍綱吉の娘・鶴姫が紀州徳川家綱教に輿入れした。挨拶で登城した際に、この正宗郷義弘の刀(松井江)を拝領した。

    ○六日紀伊邸に阿部豐後守正武御使し。(略)。御盃下さるゝ時。綱教卿へ御引出物とて。義弘の御刀。朱判正宗の御脇差たまひ。光貞卿に當麻の御刀。武藏正宗の御脇差たまふ。

  • 幕末まで紀州家。

 大塚氏

  • その後、大塚榮吉氏が購入したという。
  • 昭和23年(1948年)ごろには大塚肇氏蔵となっている。
    大塚肇氏は、かつて東商(東京商工会議所。日本商工会議所の前身組織)の副会頭を務めた人物である。永野重雄会頭時代に副会頭として支えた。また私生活でも永野重雄は大塚肇の姉妹を娶っており、縁戚関係でもある。
     父の榮吉氏と共に本間順治氏の親和会に入会していたというが、ほとんどが榮吉氏が購入したものであり、「肇さんは数寄者ではあったが、自分で買ったものはなかったようである。」と書かれている。大塚榮吉氏昭和22年(1947年)没、また大塚肇氏は昭和43年(1968年)1月没。
    • 大西左文字」と本刀「朱判正宗」は、両方とも大塚肇氏所蔵ののち行方がわからない状態となっている。
  • その後、行方不明。
  • 2018年(平成30年)9月~11月まで、京都国立博物館 平成知新館にて開催の特別展「京のかたな 匠のわざと雅のこころ」に出展されていました。※所蔵者は不明
    情報をお寄せいただきました。ありがとうございます。

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