御牧勘兵衛
御牧勘兵衛(みまきかんべえ)
室町時代後期の武将
御牧景則(みまきかげのり)
三牧とも
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概要
- 御牧勘兵衛は山城国久世郡御牧(現久御山町)を領した御牧氏の生まれ。
なお「御牧」とは古代朝廷のために設けられた牧場のことであり、甲斐、信濃、武蔵など各地にあった。久御山町の町名は「久世郡」「御牧村」「佐山村」から取られた。景綱─┬景氏──景正 │ │摂津守 遠江守 大和守 摂津守 三左衛門 └氏綱──包綱──氏包──益景─┬景重(兼顕) │ └景則──信景 勘兵衛 勘兵衛 (四手井氏系図による)
御牧の地
- この周辺は巨椋池の周囲に古くより開け、平安時代には皇室領として
美豆 に御牧が設けられている。かりてほす美豆の御牧の夏草は しげりにけりな駒もすさめず(順徳帝御製)
「美豆」は桂川と宇治川に挟まれたエリアでJRA淀競馬場の西側。現在は久世郡淀町になっている。
- 「巨椋池」は、京都南部にかつて存在した淡水湖で、周囲16km、水域面積は約8平方kmあったとされ、池というよりも湖と呼ぶほうがふさわしい規模を持っていた。
比較対象が難しいが、例えばジョギングコースとして使われる皇居一周が約5キロ。濠を含む千代田区千代田(皇居+東御苑含む)の面積が1.4255平方km、皇居外苑(皇居前広場など)まで含めると2.3平方kmになる。
江戸城三十六見附が置かれた外郭の周囲が約15.7kmなのでそれに近い。江戸城三十六見附は永代橋、両国橋、浅草橋と上り、小石川、牛込(飯田橋)、市ヶ谷、四ツ谷、赤坂、溜池、虎ノ門、御成門、浜御殿と外堀の内側に設置されていた。つまり凡そ千代田区より少し小さい程度の広さである。
- 平城京と平安京の間に位置しており、古代、中世を通じて水上交通の中継地として栄えた。また古来景勝地として貴族や文人に愛され、多くの歌などに詠まれてきた。
巨椋池の北岸にあたる指月(しげつ)の地は、南に巨椋池を一望する風光明媚な地で平安時代より観月の名所として知られた。「指月」は、空の月、川の月、池の月、盃の月の「4つの月」の意味とされ、貴族の別荘や宮家の御所として栄えた。
平安後期の“伏見長者”と称された橘俊綱(頼通次男、橘俊遠養子)は、宇治・平等院を開創した父・藤原頼通にならい、「臥見亭」「臥見別業」などと称された伏見山荘を築き、連日のように仲間の公家たちを招き、指月の森や巨椋池の風光明媚な様を愛で、詩歌管弦に耽ったり、酒を楽しんだりしたと云われている。俊綱没後に、伏見山荘は白河上皇に寄進される。伏見院から有仁親王(源有仁)、頌子内親王へと伝領され、後白河院に献上された。伏見山荘が後白河上皇に伝承された際、仁安2年(1167年)上皇はここに壮麗な伏見殿(船津御所、伏見離宮)を造営する。崩御ののちは長講堂領に含まれて伝領する。両統の対立が激化し、さらに崇光院と後光厳院との対立が発生すると、伏見領と伏見殿は崇光院が別相伝するようになり、崇光院がこの伏見殿御領を栄仁親王代々の相伝地とし伏見宮家を創設する。それ以後、伏見宮家は伏見殿と称し、指月の伏見殿を上御所、巨椋池の船着場である南浜付近に建てた舟戸御所を下御所とする伏見御所は繁栄を極めたと云う。しかし、室町期の動乱、戦国期の争乱を経て、伏見殿は荒廃の一途を辿っていく。
豊臣秀吉が関白の位を豊臣秀次に譲った際に隠居屋敷を築いたのもこの地である(秀吉が築城した伏見城の内、始めに建て慶長伏見地震により崩壊した城。この後、秀吉は現在桃山と呼ばれる地に木幡山伏見城を築城した)。
- 秀吉が伏見城を築き、周囲の街道と堤防を整備した頃から巨椋池は徐々に埋め立てられ、昭和初期に完全に姿を消した。
- 大正期に哲学者和辻哲郎が巨椋池で蓮見船に乗った思い出をつづった紀行文「巨椋池の蓮」が残る。和辻哲郎 巨椋池の蓮
戦国期の御牧氏
- 戦国期には付近を領した御牧氏が御牧城を築き、天正12年(1584年)には城主御牧勘兵衛尚秀が玉田神社(久御山町)を再建している。
織田家従属
- 信長の死後、御牧氏は明智光秀、豊臣秀吉に属し、醍醐の花見など様々な行事でその名前を見ることができる。秀吉の死ぬ慶長3年(1598)ごろまで発給文書に名前が見えるが、その後、慶長5年(1600年)には息子の御牧助三郎(信景)の名前が山城国久世郡市田村の千石を安堵する書状で登場しており、この頃に家督を譲ったと考えられる。
- その後の御牧氏の動向は、ようとして知れない。一説には
四手井 氏を名乗ったともいう。
御牧藩
- なお同じ頃、御牧の地は信長の一族である津田盛月が1万3千石で与えられている。
津田盛月は織田氏の一族(信長の叔父織田信次の系統)という。盛月の兄が中川重政といい、その息子が中川光重で加賀前田家に仕えた。
- 文禄2年(1593年)には盛月の兄の津田信任(盛月の子とも)が3万5千石で継ぐが、まもなく千人斬りの犯人として逮捕され、その後は信任の弟の津田信成が、秀吉から遺領のうち1万3千石を与えられている。
- 津田信成は慶長5年(1600年)9月の関ヶ原では東軍に属したことから本領安堵され、初代御牧藩主となっている。しかし慶長12年(1607年)に稲葉通重らと京都祇園で遊んでいた際に茶屋の女房などに乱暴狼藉を働いたかどにより御牧藩は改易された。
この月伏見にて御家人稻葉甲斐守通重。津田長門守元勝。天野周防守雄光。阿部右京某。矢部善七某。澤半左衞門某。岡田久六某。大島雲八某。野間猪之助某。浮田才壽某等士籍を削らる。こは京洛の富商後藤并茶屋等が婦女。祇園北野邊を逍遙せしに行あひ。ゆくりなくその婦女をおさえ。しゐて酒肆にいざなひ酒をのましめ。從者等をばそのあたりの樹木に縛り付刀をぬき。若聲立ば伐てすてんとおびやかし。黄昏に皆迯去りたり。酒肆の者これをみしりてうたへ出ければ。かく命ぜられしとぞ。
一族
御牧摂津守益景
- 三左衛門の父。
- 信長に仕えたという。
- 天文18年(1549年)秋、御牧摂津守益景は、僧称念に帰依し、専修念仏道場として一宇を建立したという。後に専念寺となった。
- 元亀元年(1570年)に御牧の地は織田氏の支配下に置かれた。
しかし摂津守は度々近郷を押領したらしく、狭山郷について今後さらに違乱すれば処分するとの信長の朱印状まで残る。塙直政が狭山郷の押領について調べさせた文書も残り、信長との関係がうまく行っていたようには思えない。
- 益景は元亀3年(1572年)6月17日没。
- 同寺には、称念禅定門と記された位牌がある。
一、当寺ハ御牧勘兵衛父浄念、称念上人に帰依ありて起立在り、専修念仏の道場ニして、則ち放光山称念寺と号す、天正十五年太閤秀吉ノ命に依り、御牧勘兵衛尉尚秀聚楽御殿此所ェ移シ建立、本山記録又ハ桂極楽寺ノ記ニ見エタリ、本ト樫ノ御殿也、寛文十二年十世重世上人本堂庫裏ト改め、則ち本堂五間四面四方縁也、
(中略)
一、延享四年八月十七日木津川洪水堤切、当村三十六軒流家、水死三人、此時当寺宝蔵戌角本堂裏ニ有、開基大旦那御牧摂津守益景、称誉浄念先祖古来の巻物、勘兵衛尚秀由緒記録、其外観音堂、当寺開山上人数多軸物等、住寺代々の筆記、古来の過去帳、同八月廿三日ノ大洪水流失、十二世到誉これを記す
一、当寺門前ニ御牧氏の城跡ト申し伝える藪屋敷これ有り、則ち城藪ト申し伝フ
- 専念寺に残る年不詳の御牧氏系図書抜によれば御牧氏は姓は藤原、家紋は風車、御牧勘兵衛尉信時には、信正(御牧大助)、信勝(御牧三左衛門、山崎合戦で討死)、直秀(御牧勘兵衛)の三人の息子がいたとする。この直秀は尚秀と書く資料がある。
御牧三左衛門
- 三左衛門。諱は景重または兼顕、信勝。
- いつ頃からかは不明だが、明智光秀の配下武将として行動している。
- 天正10年(1582年)6月13日山崎の合戦にて討ち死に。
天正十年六月十三日山崎合戦討死御牧三左衛門兼
顕 中嶋村住
喜叟清観大禅定文 勘兵衛兄也
山科ニハ景重大居士トこれ有る也景重 御牧郷中嶋村ニ住す、信長公御牧三左衛門ト召されシヨリ、其後御牧ト改め、天正十月山崎ニ於て討死ス
- 山崎の合戦では、右翼松田太郎左衛門尉(政近)配下にいた。
右備伊勢与四郎、諏訪飛騨守、御牧三左衛門尉、其勢二千
御牧三左衛門尉兼顕ハ、大将光秀ガ陣ニ使ヲ馳、今日ノ軍是迄トコソ存候ヘ、我等兄弟討死仕リ候隙ニ、何方ヘモ御引取然る可く候トソ申し遣わシ、舎弟勘兵衛
兼景 ト相共、手勢二百余騎、群ル敵ヲ追靡、少時支テ戰ツヽ、一人モ残らず討死ス
- 討ち取ったのは中川清秀隊であったという。
天正十年、明智反逆の時、清秀、秀吉の先手をいたし、山崎の山上にして合戦し、敵の先手大将三牧三左衛門、伊勢伊勢守を討とる、これによりて明智敗北す
- また明智軍記には、三左衛門兼顕の弟・御牧勘兵衛「兼景」という人物も明智方として登場している。※上の山崎の合戦で兄・三左衛門と共に200余騎で一人残らず死んだと書かれている。
- 第3回黒井城攻めでも、四方田但馬守政孝とともに御牧勘兵衛兼景が、伏兵別働隊千人として配備されている。※うち兼景は300人で、現在の丹波市氷上町犬岡あたりに陣取っている。
御牧勘兵衛尉尚秀
- 諱は、尚秀または景則というようだ。
名乗り自体は「勘兵衛(尉)」と、明智軍記に登場する三左衛門の舎弟なる人物と同じだが、こちらの勘兵衛尉尚秀はどうも最初から秀吉に仕えていたようだ。永禄11年(1568年)に織田信長が上洛を果たした時、秀吉が御牧城を攻めたとの説もあり、その際に秀吉に降ったものと、明智に士官したものに分かれたのかもしれない。ただし明智配下の三左衛門などが武将として仕えているのに対して、秀吉に仕えた勘兵衛はあくまで吏僚であり代官であり、検地奉行としての動きが主に目立つのみで独立した大名的な動きはしていない。
- 信長、ついで豊臣秀吉に仕えたという。長束正家らと同僚の奉行(代官)だったようである。
天正三歳信長公出勤ス、御牧勘兵衛尉ト改、同十歳信長公滅亡、これに依り秀吉公エ出勤ス、
- 秀吉からは田井村七百石、ついで文禄4年(1595年)に市田村三百石を加増されている。肥前名護屋城にも詰めている。
則ち七百石御朱印玉ハル、其後文禄四歳八月三日、三百石余加増、都合本知千石玉ハル、秀吉朝鮮御陳の伴を勤め奉り、其後軍功に依り、秀吉公より柏木御殿拝領ス、則ち右御殿をもって田井村専念寺ヲ建立ス
- 検地奉行として働き、天正13年(1585年)に相国寺鹿苑院の検地に際して、「鹿苑日録」には、検地に訪れた尚秀は酒肴も一切受け取らなかったと記されている。
勘兵衛一切不取礼儀、一瓶之酒、一瓶之肴。亦不受之。雖尺地寸土。
- 天正14年(1586年)に御牧郷の郷氏神である玉田神社を再建したという。
- 称念寺の記録によれば天正15年(1587年)に勘兵衛尚秀が秀吉の命を受けて聚楽御殿(の樫木殿)を引き移し再建したという。しかし聚楽第は天正15年(1587年)落成であるため、それとは別のものと推測されている。
- 文禄元年(1592年)文禄の役の名護屋陣にて
秀吉、京都を出馬のこと
三月一日御同座とおほせいだされ候じぇども、大軍と申すにあひささへ、しばらく御延引、吉例にまかせ、関東御陣へ御供候て、御しあはせよきにつゐて、
北政所・佐々木京極さまに孝蔵主・おちやをおひそへられ、御同陣、供奉人数の事。
服部土佐 御牧勘兵衛 大野木甚之丞 稲田清蔵 荒川銀右衛門 太田又助
御輿数五十余ちやう、馬上のおん女房たち百余騎、美々しき御よそおひなり。
三月廿四日、御さきへ御参陣。その日は津の国茨木川尻肥前私宅御とまる。翌日、雨ふり、御逗留。
三月廿六日、太閤みやこをうつたたせられ、馬上の御きらあたりをはらつて、結構申すばかりなし。名護屋旅館御作事衆
山里局北矢藏 御牧勘兵衛尉
(略)
山里局くの木作番所 御牧勘兵衛尉
(略)
御本丸與二の丸 大手門 御牧勘兵衛尉名護屋城御留守在陣衆
裏御門番衆
一番 有馬中務卿法印、大野木勘之丞
ニ番 石田杢頭、大田大和守
三番 長束大蔵太夫、芦浦観音寺
四番 寺沢志摩守、御牧勘兵衛尉諸大名陣場之事
一、御牧勘兵衛尉 小星木ノ辻 久保手坂
- 慶長2年(1597年)には家康を自邸に招きもてなしたとする。
六日、自伏見人来、御牧勘兵衛書札也。明日江戸内府迎請。債予為相伴也。又迎馬来。即乗輿赴伏見。小雨不及沾衣。園庭所生之笋一折贈御勘
七日、早々赴御勘。江戸内府乗舟来儀也。有斎。本膳・二膳。引物・果子五種。中酒三返。午時雲門・饅頭数回。晩着湯漬也。尤奔走。有棊。有中将棊。予也見之。不打之。藤右衛門遣京。及晩帰。藤四郎壺ケ来。自内里千来。
- 慶長3年(1598年)の醍醐の花見でも、1~8番茶屋まで構えられたうちの7番の作事を担当している。
七番 御茶屋 御牧勘兵衛
たてをき、さまヾ風流あひかまへ、一献進上候なり。
- 慶長4年(1599年)10月15日没。
- 位牌、心誉浄蓮大禅定門。
御牧勘兵衛尉尚秀、石塔有、御尺三尺五寸、則ち此寺ぇ葬る、御紋は風車五七桐
- 妻は吉岡六郎左衛門与秀の女という。
吉岡六郎左衛門与秀は山城佐古村の出という。その息子・種秀は秀吉に仕え、慶長4年(1599年)8月没。その子・行秀は山崎合戦で死亡。行秀弟の種行は喜左衛門。服部土佐守の養子となり服部助之進。義直に召されて三百石。志水甲斐守の同心。寛永17年(1640年)7月没。その子・種長(服部喜左衛門)は義直に召し出されて五十人組。元禄14年(1701年)に没。
佐古村は現在の京都府久世郡久御山町佐古。旧巨椋池の南側あたり。
御牧助三郎信景
- 勘兵衛尚秀の子という。
- 慶長5年(1600年)8月に、家康、輝元、秀家より千石の黒印を頂戴し、同慶長7年(1602年)に「勘兵衛」と改名、八幡極楽寺造営奉行を務めた。
四月六日豊臣氏三大老連署にて御牧助三郎に知行を安堵せしめた。但しこのとき中央にいたのは公一人である。
山城國久世郡市田村千石之事、被對父勘兵衛尉任 御朱印之旨、全可有領地之狀如件、
慶長五
卯月六日 輝元
秀家
家康
御牧助三郎殿醍醐金堂從秀頼様御建立付て彼寺領百姓手伝□申候間、堤之隙明次第、急可御返候、不私儀候、恐々謹言、
(慶長五年)三月五日 徳善院玄以(花押)
横須賀民部少輔殿
長管兵衛殿
御牧助三郎殿
御宿所去廿二日至名嶋令着岸候、爰元無別儀候間、可御心安候、其元相替儀、無之候哉、御報ニ可示願候、尚追々上洛之刻、可申上候、謹言、
九月十三日 築中秀秋(花押)
御牧助三郎殿慶長五年
極楽寺御再興
奉行御牧助三郎 造進之
- 「家康公真筆御書類頂戴ス、此節ヨリ甚病身ニヨツテ古郷山科エ引退」とする。
御牧三郎右衛門政尚
- 江戸時代に三郎右衛門政尚の名前が見える。それによれば久御山関係の御牧は御牧三郎右衛門政尚が山城郷士の一人として数えられている。この山科に移った末裔が四手井氏だという。
御牧勘兵衛殿ハ山科奥の村の人ニて、御牧郷支配仰せ付けられ、今坊之池村の西、古城といふ所ニ屋形を立、住居候へ共、洪水の節こまり、今田井村専念寺前、城藪といふ所え屋敷替有、天正十年太閤山崎合戦の節ほろび、山科の奥野村え家内引取といふ
関連項目
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