中川光重
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中川光重(なかがわみつしげ)
織豊期の武将
織田氏、前田氏の家臣
清六郎
宗半、巨海斎と号す
生涯
- 中川光重は、中川重政の二男として生まれる。
曽祖父清政の代に尾張に来て中川氏を名乗ったという。父中川重政は織田刑部少輔の子で、はじめ織田駿河守忠政と名乗り、のち中川次郎左衛門の養子となって中川八郎右衛門重政を名乗ったとする。信長の黒母衣衆となり、京都行政などを担当するが、元亀3年(1572)に領地の隣接していた柴田勝家と刃傷沙汰を起こし、改易されたという。中川氏の出自については諸説あり、斯波尾張守高経の裔ともいう。
- 光重は中川清六、清六郎と称し、織田信忠に仕える。
- 利家の娘蕭(生母は芳春院まつ)と結婚し、本能寺の変ののち前田家に仕え、七尾城の守備を命じられる。
前田安勝・前田良繼・高畠定吉・中川光重をして能登の七尾城を守らしめ
- 天正14年(1586年)の九州征伐の際には増山城の守備を任されている。
是に於いて利家は、尾山城に前田安勝、七尾城に前田良繼及び高畠定吉、守山に前田長種、増山に中川光重を置きて留守せしめ、その子利長と共に京師に赴き、十五年二月二十日利長は兵三千を率ゐて先づ九州征討の途に上れり。
- 天正17年(1589年)、茶の湯にこり城の修繕を怠ったかどにより能登津向に流された。
遂ニ之ヲ能登津向村鹿島郡二謫ス
※文禄3年(1594年)の秀吉の前田邸御成では家臣団の筆頭として太刀・金子を献上しており、配流(蟄居)はその後ともされる。
- 御伽衆として秀吉にしばらく使えた後、慶長のはじめには再び前田家に仕える。
- 文禄3年(1594年)武蔵守となり、越中増山の守将となり知行二万三千石。
文祿三年には高畠定吉を石見守とし、中川光重を武藏守とし
- 慶長4年(1599年)に利家が没すると金子などを拝領する。利家の遺言に従い、娘(利家とまつの孫娘にあたる)を神谷守孝に嫁がせている。
- 慶長16年(1611年)に隠棲し巨海斎宗半と号す。
天正18年(1590年)ごろから名乗っていたともいう。
系譜
- ※諸説あり、系図は明らかではない。
┌娘 前田利家───瑞雲院簫姫 ├献珠院(神谷守孝室) ├───┴中川光忠──┬神谷之尚 中川清政───中川次郎左衛門━━━中川重政────┬中川光重 └中川正任 治郎左衛門伊治 ↑(八郎右衛門)│(清六郎、宗半) │ │ │ └中川忠勝─┬中川長勝 織田刑部少輔──┬織田駿河守忠政 └弟──中川重良 ├津田盛月──┬津田信任(山城国三牧城主) │ └津田信成(山城国御牧藩→改易) │ ├木下雅楽助──木下延重 ├織田善右衛門 ├津田正勝──┰津田正忠 │ ┗津田正俊(備前池田家→蜂須賀家中老) └津田正俊(兄正勝養子)
嫡男:中川光忠
- 光重の嫡男で、前田利家の八女を妻としていた中川光忠が1万7千石を相続して跡を継いだがのち藩を去っている。光忠の嫡男の之尚は光重の娘の嫁ぎ先である神谷家に養育され神谷之尚と名乗り、のちに前田家に3千石で仕え、支藩大聖寺藩の家老などを務めた。
養子:中川長勝
- 光重の弟の伊勢守忠勝は、徳川将軍家に仕え旗本3千石となっている。この忠勝の長男の八郎右衛門長勝に次女を娶せ、養子に取っている。中川長勝(宗伴)。
- この中川長勝にも子がなく、瀬川半兵衛の子長種を養子に取り八郎右衛門を襲名させた。元禄14年没。
娘婿:神谷守孝
- 娘は神谷守孝に嫁いでいる。
- 利家最期の時、まつに筆を執らせた遺書(遺誡十一條)の中で、中川光重の娘(母は蕭で、この娘は利家とまつの孫にあたる)を神谷守孝へ娶らせる旨が書かれている。
神谷信濃方(守孝)へ宗半(中川光重)娘可遣かと、おしやう(蕭、光重妻)申候。貴殿分別次第に候。
この神谷守孝の跡を継いだ養子の神谷長治(横山長治)は横山長知の三男。横山長治は「横山貞宗」を所持していた。
関連項目
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