平野藤四郎


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 平野藤四郎(ひらのとうしろう)

短刀
吉光名物平野藤四郎)
9寸9分
御物
山里御文庫 御剣庫蔵(宮内庁管理)

  • 吉光作の短刀において最も大ぶりで代表作とされる。
  • 享保名物帳副本の第一番に登場する名刀。

    平野藤四郎 在銘長九寸九分 不知代 松平加賀守殿
    表裏に刀樋并影樋残り有之、摂津国平野町の人道雪と申者所持、木村常陸介金三十枚に求む、其の節は長さ一尺あり詰め候て如何とて一分磨上る秀吉公へ上る、利長卿拝領又た秀吉公へ上る、元和三年利家卿館へ渡御の刻利光卿拝領なり、其節加州より新身藤四郎を上る

    • 幕府に献上された正本では、厚藤四郎(当時御物)が一番目に記載されている。
    • 「平野道雪→木村常陸介→秀吉→前田利長→秀吉→前田利常(利光)」となるが、この記述には誤りがある。後述。
  • 平造り、真の棟、表裏に刀樋。差表の鎺下に添え樋の痕が残る。鋩子小丸、中心は一分区送りのうぶ。瓢箪型の目釘孔の下に「吉光」二字銘。
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 由来

  • 大坂の商人、平野道雪所持にちなむ。
    平野家は坂上田村麻呂の子孫を称し、その子広野の領地であったために付近を広野といったが、のち平野庄に改められた。子孫は平野殿と呼ばれ、江戸期まで栄えた。現在の大阪市平野区。

 来歴

 平野道雪

 木村常陸介

  • 木村常陸介(木村重茲)が摂津国平野町の豪商平野道雪から金三十二枚にて買い取った。

 秀吉

  • この時は1尺あったという。1分磨上た上で、豊臣秀吉に献上。

 前田利長

  • その後前田利長が拝領する。

    これよりさき利長太閤の恩遇あつく、しばゝ邸によぎり、橋立の茶壺、平野藤四郎の脇指をさづけらる。

 秀忠

  • 利長は、慶長10年(1605年)6月28日に隠居の挨拶で2代将軍徳川秀忠に献上する。

 前田利常

  • 元和3年(1617年)5月13日、前田邸に将軍秀忠が渡御の際に、前田利常が秀忠から拝領し、以来前田家に伝来した。(3月12日とも)

    十三日(二代将軍秀忠)松平筑前守利常の邸に渡御あり、(略)利常へ守家の御太刀、一文字の御刀(浅井一文字)、平野藤四郎の御脇差を賜ふ(この藤四郎は中納言利長さきに献ぜし処也)。此時利常より貞宗の刀、新身藤四郎の脇差を献じたる也

    三年五月十三日台徳院殿利家が邸にならせたまひ、猿樂を台覧あり。このとき守家の御立ち一文字の御刀、平野藤四郎の御脇指、(略)をたまふ。利常も守家の太刀貞宗の刀、新身藤四郎の脇指(略)を献ず。

    • つまり、「平野道雪→木村常陸介→秀吉→前田利長→(秀吉ではなく)徳川秀忠→前田利常」となる。
      ここでいう「脇差」は短刀の意味。贈答においては「太刀・刀(今でいう脇差)」または「太刀・刀(脇差)・脇差(短刀)」のセットで贈答することが多い。
  • 前田家では、折紙はついていないが千貫以上の脇差の筆頭にこれを上げ、金沢城内の宝蔵に保管していた。
  • 文化9年(1812年)3月に本阿弥長根がお手入れに出張し、「新刀の如し」と感嘆している。

 明治天皇

  • 明治15年(1882年)7月8日、前田家から名物篭手切正宗」とともに明治天皇に献上された。

    八日 従二位前田齊泰・従四位前田利嗣其の家傳來の籠手切正宗太刀及び平野藤四郎吉光の短刀を獻上す、九日、宮内卿をして御満足に思召さるゝ旨の御沙汰を傅へしめたまふ、

  • 御物調書」にも載っており、上皇后陛下(美智子)の枕刀に使用されたという。

    50.山城国吉光御短刀
    名物 平野藤四郎)
    鎌倉時代
    明治12年
    皇后陛下御枕刀(前田斎泰献上)

  • ※「御物調書」の明治12年は15年の誤りと思われる。

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