平蜘蛛


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 平蜘蛛(ひらぐも)

茶釜
古天明平蜘蛛

Table of Contents

 概要

  • 松永久秀が最期まで秘蔵したと伝わる茶釜。「平蛛」とも
  • 通常の茶釜に比べ、クモが這いつくばっているかのように低く平らな形をしていることから名付けられたもの。※或いは、湯が滾るに従って鋳出してあったクモが這い回るように見えたからとも言う。
  • 室町時代には、鋳物の名産地である下野国佐野天明(栃木県佐野市)で作られたものを「天明」釜と呼び、同様に福岡県遠賀郡芦屋町で作られた「芦屋」釜とともに珍重された。桃山時代以前に作られたものを「古天明(こてんみょう、古天明釜)」と呼んでおり、松永久秀愛蔵品は、この古天明に分類される品である。

 来歴

  • 天文2年(1533年)の「松屋会記」(久政茶会記)に登場する。

        天文ニ年癸巳    久政
    三月廿日
    一、四聖坊へ      (久政一人)
      床ニ川チサ一文字[ナシ] 牧渓筆  板ニ平蜘蛛 ソハニ石花香炉

    四聖坊(ししょうぼう)は東大寺の一坊で、聖武天皇、開基良辨(良弁僧正)、勧進行基、導師菩提仙那(僊那。渡来僧ボーディセーナ、婆羅門僧正とも。東大寺大仏殿の開眼供養法会で導師を務めた)の御影を祀っていた。「師匠坊」あるいは「師聖坊」とも書く。牧渓は牧谿。

    主人が書かれていないが四聖坊の宗助法印であるとされている。宗助および英助は、茶を能くし名画・名物の収集で知られた(四聖坊名物)。「師匠坊肩衝」参照

  • 弘治年間(1555-1558年)成立と見られている「清玩名物記」では松永弾正所有とする。

        平釜之類
    平蜘蛛   奈良 三蔵院    今 松永弾正

  • 永禄6年(1563年)、松永弾正主人の茶会の席で用いられていることが確認できる。※なお松屋会記に初めて松永久秀が登場するのは永禄4年(1561年)正月のこと。

        (永禄六年)
    癸亥正月十一日朝
    一、於多門山御茶湯  六畳敷、北向、右カマヘ
       主人松永弾正少弼殿
                          成福院 醫道三 久政 堺宗可 竹内下總守
    (略)
      屏風ノ中、臺子四組ノ御錺也、ヱフコ水指、フラニ八葉/\十六葉ナリ、柄杓指・合子天下一也・平蛛釜フロニ、柄杓指ハ鹿苑院殿御物也、

    成福院は興福寺塔頭。醫道三は曲直瀬道三(翠竹院)。堺宗可は堺の豪商若狭屋宗可。竹内下總守は久秀の家臣・竹内下総守秀勝。

 松永久秀の最期

  • いっぽう、天正4年(1576年)から越中に侵攻し能登において激突していた越後の上杉謙信が七尾城攻略後に動きが停滞する。これを契機と見た信長は、天正5年(1577年)10月、総大将に織田信忠、さらに佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀ら加賀に参陣させていた諸将を加え、一気に信貴山城を攻め落とそうとする。
  • 総勢4万の兵で囲まれた久秀は、一度は耐えたものの無理を悟ったのか、10月10日に自ら天守櫓に火を掛け自害したという。享年68(或いは70とも)。
  • 名物「平蜘蛛」は、この際に久秀自ら破壊したという。

    松永弾正久秀反逆して、大和ノ国信貴の城に籠しが、信忠卿に攻詰られ、已に落城に及びしかバ、天守ヘ上り、其秘蔵する処の平蜘といへる釜を打破り、下ヘ投落しミぢんに砕き、其後火をかけて自害せり。此釜平蜘鋳附ありしが其たぎるにしたがひて、さながら這まはるがごとく見えて、世に聞えし名物なりし、
    (茶窓閑話)

    霜臺ハ秘藏の茄子の茶壺平蜘蛛と云釜を打砕きて、其のち自殺す、
    (老人雑話)

    平蜘の釜と我等の頸と、二ツは、信長殿御目に懸けまじきとて、みじんこはいに打ちわる。言葉しも相たがわず、頸は鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらぐもの釜と同前なり。

    松永殿(松永弾正)頸とひらぐもの釜(平蜘蛛の釜)不見と、此脇指のおさめ様よく似たりと人々申あへると承候事
    (川角太閤記)

 死の真相

  • 現代において久秀は、平蜘蛛の釜に爆薬を詰め釜もろとも爆死したというイメージで語られることが多いが、その最期には謎が多く首が安土へ運ばれたとする書もある。

    十一日、昨夜松永父子腹切、自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了
    (多聞院日記)

  • しかし「老人雑話」では、信長は箱に入れ運ばれてきた首を「この首は久秀のものではない。久秀はたとえ首になったとしても我が前にくるものではない。」と(秀吉の企みを)喝破しており、事実久秀は爆死したのだとする。

    松永霜臺籠城の時、信長討手に太閤を遣す、箇條書を以注進す、(略)其日期の如く無理に討破り、首を箱に入て信長に報す、信長云是偽ならん、霜臺は首に成ても我前へ來る者に非す、筑前才智にて此事をなすと云、箱をひらけハ果して然り、霜臺遂に降らすして、鐵炮の藥に火をかけ、自ら焚死す

  • また筒井順慶が久秀の遺骸を片岡山達磨寺に葬ったとする書もある。

    一、松永弾正久秀之墓所、同所有之
    天正五年十月十日信貴山之城爲織田家沒落、久秀自殺、筒井順慶葬久秀死骸于當寺碑名不知
    (大和志科)

 平蜘蛛のその後

  • さらに「平蜘蛛」についても、一般には上記引用にもあるように久秀自ら破壊したとされるが、これについても諸説がある。
  1. 信貴山城で焼失した:山上宗二記など
  2. 信貴山城焼け跡から掘り出された:浜名湖舘山寺美術博物館所蔵品は、掘り出された釜が信長に伝わったとし、「織田信長伝来品」とする。現存。
  3. 多羅尾玄蕃が信貴山城の焼け跡から破片を集め復元した。後、天正8年(1580年)3月及び天正9年(1581年)11月に多羅尾常陸介が開いた茶会で使用されたと「宗及他会記(天王寺屋会記)」に載る。

    多羅尾玄蕃平蛛ノ釜ツキ集メ持ナリ、
    (松屋名物集)

        松永殿
    一 平釜 ヒラクモ 今ハ大今ゲンバ所持
    (茶道具之記)

        同壬三 十三日朝 多羅尾常州會  宗及 池丹
    一、 平くも釜、小板ニ一ツ、 後ニ手桶
       タウ茶碗ニ而茶立られ候、
    (宗及他会記)

        同十一月十二日朝 多良尾常陸會
     爐ニひらぐも平釜ツリテ  長坂ニ雷盆
     迫門茶碗
    一 正宗ノ脇指持出テ見せられ候 前ニ十河殿(※十河一存)所持之脇指也メイナシ
    (宗及他会記)

    「多羅尾常州」こと多羅尾常陸介は、若江三人衆の一人で多羅尾綱知とされる。通称は左近大夫のち常陸介。破片を集めたという多羅尾玄蕃は親族か(子であるとされる)。「池丹」も若江三人衆の一人で池田丹後守教正。
     なお一部Wikipedia等では"5月"13日茶会となっているが、正しくは3月13日の茶会。5月13日には津田宗及は摂津我孫子での今井宗久による別の茶会(参加者は佐久間右衛門尉、水監物、宗及)に参加している。
     さらに同年5月21日には宗及は若江での「多羅尾玄蕃會」に参加しており、多羅尾常陸介(綱知)と多羅尾玄蕃(光信)が同時代の人物であることがわかる。

    ※最後の天正9年(1581年)11月12日の茶会で披露されている無銘脇指正宗が、元は十河一存所持という「若江正宗」である。
  4. 信貴山城で焼けたのは偽物で、本物は事前に柳生松吟庵(石舟斎柳生宗厳の弟)を通じて柳生家に伝わっていた:「玉栄拾遺」

    十月十日久秀秘蔵スル所平蛛ト云茶ノ湯釜ヲ打壊、糠ニ詰箱ニ入テ信忠ニ贈、其後野々宮囃子ヲナシ、火宅ノ門ヲ出ルト云時、城ニ火ヲ懸自滅ス。久通ハ行方不知ト云云。臣按、平蜘ノ釜ハ久秀秘蔵スル所、信長所望アリ。久秀不献、此事ヨリ君臣不合タリ。且柳生松吟庵ハ久秀平日断金ノ友タリ。故ニ実ノ平蜘ハ此時竊ニ松吟庵エ贈。打壊所ハ贋物也ト云。松吟庵代々伝テ重器トス

  • 信長が最後まで欲しがったとされる古天明の名物・平蜘蛛であったが、この後千利休が秀吉の茶頭を務める時代になると自らの好みに合わせて京都三条の鋳物師に作らせることが流行り、京作釜(京釜、京作)が興隆することとなった。
  • 山上宗二も平蜘蛛は失われたとし、(同じく失われた名物2つと共に)現存しても用いることはないと記している。

       名物之釜ノ数
    一、平雲 松永代に失候也、
    宗達平釜、藤波平釜二ッ、信長公御代ニ失也、但シ此三ッ釜ハ当世ハ在テモ不用
    (山上宗二記)

    写本により細部に異同があり、「御代火ニ入失申候」「御代ニ失申候」「御代ニ失也」とする。いずれにしろ失われたとする。


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