小烏丸(伊勢家伝来)


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

OFUSEで応援を送る
  • 平氏伝来の「小鴉丸」とは別物と思われる「小烏丸」。
  • 伊勢家に伝来し、明治天皇に献上され現在御物
Table of Contents

 小烏丸(こがらすまる)

太刀
無銘(号 小烏丸)
二尺四分(刃長62.7cm)、反り1.3cm
附 錦包糸巻太刀
総長93.5cm
御物
山里御文庫 御剣庫蔵(宮内庁管理)

  • 現在御物として伝わっているもの

 概要

  • 鋒両刃造、庵棟、腰元からなかごにかけて強く反るが、上半はほとんど反りがない。
  • 表裏鎬に太い樋(鎬樋)、棟方に薙刀樋を掻き流す。
  • 生ぶ中心、栗尻、目釘孔1個
    なお製作時期には諸説あり、皇室御物を扱った書籍では平安時代(中期)とするが、実際には室町前期の作とされる。
     生ぶ中心無銘であるため天国作という平氏重代の太刀とは別物ということになり、また室町期の製作であるとすれば八咫烏伝承も関係がなくなる。恐らく平氏伝来の「小烏丸」とは別の鋒諸刃作の太刀が「小烏丸」と呼ばれるようになったのではないかと思われる。
  • 錦包糸巻太刀拵が附く。柄・鞘には紺地錦雲竜文、鐔には木瓜形漆塗金覆輪付大切刃。目貫に金二匹獅子容彫。
    元の拵は江戸末の弘化2年(1845年)の火災で焼失したため、献上する際に古記録を元に明治時代に復元製作したものである。

 小烏造(こがらすづくり)

  • 鋒両刃造(きっさきもろはづくり)と呼ばれる、刀身の先半分が両刃の剣になっており、その独特の形から、剣太刀とも称される。
    この形状は、一般に直刀から湾刀への移行期に見られるものとされている。
  • 本刀「小烏丸」がこの作りとして有名なことから、鋒両刃造のことを「小烏造」ともいう。

 来歴

  • 経緯は不明だが、平氏一門の流れを汲む伊勢氏(桓武平氏高望流、伊勢平氏)に伝わっていた。
    【伊勢平氏】
    平維衡─平正度┬平維盛─平貞度
           ├平貞季
           ├平季衡─┬平季経 【伊勢氏】
           │    ├伊勢盛光─伊勢盛行─伊勢盛長─伊勢頼宗─伊勢俊経─伊勢俊継→
           │    └平盛国─平盛俊┬平盛綱
           ├平貞衡         └平盛嗣─平盛長
           │
           │   【六波羅流】
           └平正衡─平正盛─平忠盛─平清盛─平重盛─平維盛─平高清(六代)
    
    平家重代の「小鴉丸」は、平維衡の父である平貞盛が拝領し、六波羅流に伝わったとされる。壇ノ浦での戦いの後、平高清(六代)が所持したところまでは伝わるが、その後は行方が知れない。もし仮に平家重代の「小鴉丸」と現在御物の本刀「小烏丸」が同物であれば、それ以後に伊勢氏へと伝わったことになるが、不明。

 伊勢貞衛

  • 寛永12年(1635年)の細川家文書に、伊勢貞衛が「小烏ノ太刀」の献上を望んでいることが記されている。

    寛永十二年四月三日池田由成宛
      伊勢兵庫殿(貞衡)被下候ニ付き御飛脚を被添、鰹一折三百入・南都緒白兩樽、遠路忝存候、
    一、兵庫殿之儀を不存、伊勢兵部少(貞昌)、古之伊勢殿(貞興)なかれハ無之かと尋被申候キ、
    原注:伊勢貞昌伊勢貞興ノ流ヲ探求ム
    一、こからすと申太刀、 上様(徳川家光)へ兵庫殿被上度由 左様之儀を、幸春日殿(春日局)、与州(松平忠昌)・中務殿(蒲生忠知カ)へも御肝煎之由ニ候間、如在ハ御座有間敷かと存候事、
    原注:伊勢貞衛小烏ノ太刀献上ヲ望ム
    原注:春日局ハ他ノ太刀献上ニ肝煎セル故如在ハアルマジ
    一、兵庫殿之儀、貴様へ不遁段、承屈候、公儀へ調候儀を、春日殿ならてハ埒明申間敷と存候、何ほと我等など存候ても、心中ニ不任儀ニ候、更共、兵部少是へ被居候間、可申談候、猶期後音候 恐恐謹言
    原注:公儀ノ事ヲ調フルニハ春日局ナラデハ埒明カズ貞昌ト相談セム
       卯月三日
        池田出羽守様(由成
           御報
    (細川家文書 二九一九)

    池田由成は備前岡山藩池田氏の家老。天城池田家2代当主。母は蜂須賀家政の娘・即心院。由成の娘・熊子は赤穂藩浅野氏永代家老家である大石家の嫡男大石良昭と結婚し、赤穂事件で知られる大石良雄(大石内蔵助)を生んだ。
     伊勢(兵部少)貞昌は島津氏の家臣・有川貞真の子。父の貞真が伊勢貞為の許しを得て伊勢氏を名乗るようになる。貞昌は有職故実家で、近衛家の家臣となっていた伊勢貞知より有職故実の伝授を受けている。慶長4年(1599年)の庄内の乱以後は筆頭家老。この兵部少こと伊勢貞昌にちなむのが「伊勢左文字」である。

  • 細川家文書に登場する「伊勢兵庫殿」が伊勢貞衡であるとされる。
  • 同様の話は「小烏丸太刀唐皮鎧之由来」にも登場する。

    其時三好長慶足利義輝を弑せしとき先祖伊勢守貞孝同子兵庫助貞良父子共に三好氏と戰て自害せられたり、貞良の子息虎福丸其時五歳成しを家來共介抱して小烏丸をも持て立退き若狭の國小濱に隠れ居て養育したりしが、小烏丸は盗賊の恐れありとて京都愛宕山の長床坊にあづけ置けり、長床坊は貞良の弟にてありし故なり。虎福丸成長して伊勢兵庫貞為といひて一生浪人也、貞為の子息伊勢三郎貞輝も浪人にて江戸に住宅せられしが、後水尾院の御時年月不知貞輝の伯母春日局の顧によりて大猷院殿召出し給ひ御麾下にめし加へらる、其後小烏丸献上仕度旨春日の局を以て申上る所、上覧あるべき旨仰下されしに依て長床坊より取り寄せて差上し處、十日斗御前に留め置かれ代々傳來の名物なる間其家に持傳ふへし、御用の時はめし上らるべき由上意にて返し給はりけり云々

  • 「三好長慶足利義輝を弑せしとき」が不明だが、恐らく永禄8年(1565年)の永禄の変の事を指していると思われる。少なくともこの時までには伊勢家に伝来していたということになる。政所頭人となっていた伊勢貞孝は、徐々に将軍義輝や松永久秀ら三好家からも敵対するようになった。永禄4年(1561年)11月の将軍地蔵山の戦いで将軍家や三好方に反発する動きを見せると、伊勢氏は更迭され失脚する。京都船岡山で挙兵するも、松永久秀の追討を受けて伊勢家の貞孝・貞良親子は戦死する。家臣たちが遺児虎福丸を若狭に逃れさせ、さらに小烏丸については貞良の弟(が住持を務めていたと思われる)愛宕山の長床坊へと預け置いていたという。
    伊勢氏が失脚すると、政所頭人には摂津晴門が就くこととなる。
  • 虎福丸貞為の子である貞輝(貞衡の初名)は、「伯母」である春日局の縁を頼って将軍家光へ上覧を願い出てこれが許され、その時に長床坊から取り寄せた。という流れに成る。この上覧時の逸話は細川家文書とも一致する。
  • 伊勢氏は桓武平氏の流れで、鎌倉後期に足利氏に仕え伊勢守を任ぜられ伊勢氏を名乗る。康暦の政変後に二階堂氏のあとを襲って室町幕府の政所執事に任じられた。以後、武家の有職故実を家業とし栄えた。のち伊勢貞衡が江戸幕府に仕え、殿中の礼法故実を伝えて「伊勢流」を称した。
    【伊勢氏】
    伊勢俊継─盛継─頼継─貞継─貞継─貞信─貞行─貞経┐
                             │
    ┌────────────────────────┘
    │
    └─貞国─┬貞親─貞宗─┬貞陸─貞忠─貞孝─貞良─┬貞為─┐
         ├貞藤    └江馬左馬助→江馬氏?  └貞興 │
         └娘                      │
          ├─伊勢盛時(北条早雲)           │
        伊勢盛定                     │
    ┌────────────────────────────┘
    │
    ├─阿古御局
    └─貞衡──貞守─┬貞永
             └貞益─┬貞陳
                 └貞丈─娘
                     ├──貞春(萬助)
               竹中定矩──貞敦
    
    北条早雲の出自については諸説ある。早雲の父である伊勢盛定の6代前の伊勢盛継の時、京都伊勢氏と分かれたという。
  • 貞衡は淀君(茶々)および秀頼に仕え、のち春日局の懇請により家光の時に召し出され、寄合旗本として幕府に仕えた。

    伊勢兵庫貞衡召出され廩米千俵を給ふ。(略)貞衡が母は春日局が妹なりければ。局よりも深く願ひて召出されしとぞ。
    (徳川実紀)

    伊勢貞衡 初貞輝 清十郎 三郎 兵庫
    幼にして豊臣秀頼につかへ、大坂落城ののち千代姫君のめしにより二條城にあり。其後東照宮彼城に渡御の時はじめて拝謁し、京都武者小路にをいて宅地をたまふ。寛永十四年三月二十八日今の呈譜十六年四月二十八日従母(ははかたのおば)春日の局のこひ申により、めされて大猷院殿(家光)につかへたてまつり寄り合いに列し、十六年九月二十一日千代姫君(家光の娘、霊仙院)、尾張右兵衛督光友卿に嫁せらるゝにより、仰をうけて家につたふる所の禮式をもつて其儀を撰ぶ。十二月二十六日廩米千俵をたまひ、其後仰により先祖より傳ふるところの小烏丸の太刀を台覧に備ふ。曩祖貞盛将門追討の恩賞として、朱雀天皇より賜ひし所なり。今猶家につたふ。このとき唐皮の鎧をたまふといへども、應仁の亂に焼失すといふ。
    (寛政重脩諸家譜)

  • 先の細川家文書が寛永12年(1635年)で、その後恐らく寛永16年(1639年)末ごろに伊勢家所蔵の「小烏丸」は一度将軍家光の台覧に供されたことが寛政重脩諸家譜に記される。

 伊勢貞益

  • 享保3年(1718年)、貞衡の孫の伊勢貞益の代にも台覧に供している。

    (享保)三年九月十七日、家に傳はるところの小烏丸の太刀、をよび等持院尊氏先祖伊勢守貞継に賜はる處の兜を台覧に備ふ。

    この日寄合伊勢兵庫頭貞益が家藏。曩祖貞盛 朱雀帝より賜はりし小烏丸の太刀。伊勢守貞繼等持院よりたまはりし甲をめして御覽あり。

 伊勢貞春

  • 天明5年(1785年)にも伊勢家に伝わっていた。

    右小がらす丸の太刀は、曩祖より傳りしや、伊勢萬助に寶として所持なるを、御具足師岩井播磨近頃見たりし由。播磨は古實を糺す事を常に好む癖有しが、家業の事にも委しき由。帶とりの革を見て、是は古きものなれど忠盛淸盛などの品にあらず、足利時代の革なるべしと目利せしかば萬助手を打て、能も見たる哉、添狀に應仁の頃此太刀修復せし事ありとて書記しあれど、其後は手入の沙汰もなきが、不思議は此太刀今以錆を生ぜずと申けるゆへ、中ごを見れば朽も入て甚古びしが、其刄はいさゝかのさびもなく、不思議は三寸程切先の方諸刄なる由。伊勢の家にてはつるぎ太刀と唱へる由語りし由。予が許へ來る望月翁のいへるは、つるぎ太刀とは何と哉らん可笑しき言葉なり、萬葉集につるぎ太刀と詠める歌二三ケ所に見へし、然れば古き言葉也。

    • 小烏丸と唐皮の鎧が伝来したが、唐皮のほうは応仁の乱で焼けたという。
      具足師の岩井播磨が、伊勢萬助(貞春)邸で「小がらす丸の太刀」を見たという。「古いものだがとても後白河院のころのものではなく室町に入ってからの革である」と目利きしたところ、伊勢萬助が、「添え状には応仁の頃に修復したと書かれているがその後は手入れもしていないが錆びていない」という。ナカゴを見てみると朽ちも入っているが刃は錆びておらず切先三寸ばかりが両刃作りになっている。伊勢萬助によれば「伊勢家ではつるぎ太刀」と呼んでいるという。万葉集にもつるぎ太刀と読める箇所がいくつかあるといい古い言葉であるという。現代ではこの様式を「鋒諸刃作(きっさきもろはづくり)」と呼び、一般にこの造りの刀を「小烏造」と呼ぶ。

      伊勢萬助(貞春、財翁)は江戸時代中期(1760~1813年)の有職家。伊勢貞丈の孫で幕臣となる。
  • 細川家文書に登場した貞衡の曾孫が伊勢貞丈であり、貞丈は「貞丈雑記」「安斎随筆」「武器考証」「軍用考」などの膨大な著述を残した。
    伊勢貞丈は森鴎外の「細木香以」に貸本屋卒業前の故実家として登場する。「わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読した。貸本屋が笈の如くに積み畳ねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本、書本、人情本の三種を主としていた。読本は京伝、馬琴の諸作、人情本は春水、金水の諸作の類で、書本は今謂う講釈種である。そう云う本を読み尽して、さて貸本屋に「何かまだ読まない本は無いか」と問うと、貸本屋は随筆類を推薦する。これを読んで伊勢貞丈の故実の書等に及べば、大抵貸本文学卒業と云うことになる。わたくしはこの卒業者になった。」森鴎外 細木香以
  • この貞丈の孫が、上記具足師の岩井播磨の話に出てくる伊勢貞春(伊勢萬助)である。貞丈の娘婿であった父は病弱であったため、貞丈が天明4年(1784年)に亡くなると、貞春が嫡孫承祖し家督を相続する。のち幕命を受け「武器図説」「室町殿屋形私考」「笠懸聞書」などを刊行した。このときにも台覧に供している。

    (寛政七年)九月十日また仰によりて小烏丸の太刀を御覧に備ふ。

 宗重正

  • 明治はじめごろ、伊勢氏と同じ平家の末裔で愛刀家であった対馬藩主宗重正伯爵がこれを買い取り、外装を修復の上で本阿弥成重に研がせている。

    此刀維盛に傳はりし以來久しく跡を匿しに其實、伊勢家に渡りてまた駿河の某氏に移り明治十四年に至りて華族宗重正氏の聞く所とりしが氏は元、平氏なるにより、之をば三百五拾圓にて譲り受け、いと大切に藏め置きけれど今更之を所藏せんは朝廷への憚りもありとて、同十六年遂に宮内省へ献納せり

    宗重正は対馬府中藩(対馬藩)の第16代藩主。初名は宗義達。明治2年(1869年)、鎌倉時代の宗氏初代当主である宗重尚より1字を取って宗重正と改めた。家伝では重尚は桓武平氏清盛流で、平知盛の孫とされるが、実際には大宰府在庁官人の惟宗氏であるとみられている
     華族に対し、旧公家の家格または旧諸侯の石高により爵位を叙爵した「華族令」の発布は明治17年(1884年)であるため、厳密に言えば献上当時は伯爵ではない。

 明治天皇

  • 明治15年(1882年)3月11日、宗重正伯爵から明治天皇に献上。翌月12日に小烏丸献上の褒美として金杯拝領。

    従四位宗重正傅家の銘刀小烏丸を獻上したるを以て、三ツ組金杯を賜ふ、


 異伝

  • なお江戸初期に本阿弥光悦が押形をとっており、それによれば「大宝□年□月日 天国」と銘があるが、現存するものには銘がない。
  • また水心子正秀も、伊勢家において天国作の「平宗盛佩之」と鞘書きのある二尺五分(62.1cm)の刀を拝見したという。これは朱雀天皇より拝領と伝わるという。

 関連項目


Amazon Music Unlimited 30日間無料体験