安国寺肩衝

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安国寺肩衝(あんこくじかたつき)  

大名物
漢作唐物
肩衝
五島美術館所蔵

  • 「安国寺肩衝」、「中山肩衝」、「有明の茶入」
Table of Contents

由来  

  • 「安国寺肩衝」の名は、安国寺恵瓊が所持したことにちなむ。
  • 「中山肩衝」は、再び手に入れた細川三斎(忠興)による命名。
  • 最初の幽斎(あるいは秀吉)所持のころには「有明の茶入」と呼ばれていたが、その由来は不明。
    これとは別に、正木美術館所蔵の大名物肩衝茶入、銘有明も存在する。こちらの伝来は、足利将軍家~毛利鎮実~大友宗麟~谷衛友~徳川家光~大橋龍慶~会津松平家~徳川家斉~会津松平家~正木孝之となっている。

来歴  

細川幽斎  

  • 戦国の頃、細川幽斎が所持していた。
    • 幽斎ではなく、細川忠興が秀吉よりの拝領ともいう。後述。

忠興→安国寺恵瓊  

  • 忠興(三斎)に譲られるが、この時忠興はこれを気に入らず、千貫で安国寺恵瓊に譲っている。

    從玄旨(幽斎)譲の肩衝心に不叶とて、安國寺へ千貫に賣給也

津田秀政  

  • この肩衝は関ヶ原の戦いで敗れた安国寺恵瓊から没収され、関ヶ原で功を挙げた津田小平治秀政に与えられた。

    此時君(家康)の御供して小山まで來りしが、上方の注進を聞かせ給ひ、御氣色よからず、御側に伺候せし者も、何といはむ様もなくてありしに、秀政進み出でやがて上方の逆徒も誅伐し、安國寺が調度を沒収せられむに、彼が珍藏せる肩衝の茶入を賜はらば、是をもて朝夕茶事を専にし、太平を樂まむ、と云出でしにより御氣色直り、いかにも汝が願を叶へて取らせむと仰せられしが、後御勝利に屬しければ、兼て御許の如く、かの茶入をば秀政に下されしとぞ。
    (実記)

    津田秀政(つだ ひでまさ)
    織田庶流の津田氏の生まれ。通称は小平次。諱は正秀とも。号は興庵。妻は滝川一益の養女。
     父の津田秀重とともに織田信長に仕え、岳父の滝川一益の与力として旗下に加わる。天正2年(1574年)3月、信長の嫡男・信忠の命より、祖父・織田秀敏の跡を継いだ。滝川一益の上野国拝領に伴い松井田城を任されるが、神流川の戦いで一益が敗れると、これに合流して伊勢及び尾張に帰還した。賤ヶ岳の戦いで一益が没落すると浪人し、信雄、のち馬廻りとして秀吉に仕えた。
     秀吉の死後は家康に仕え、会津征伐や関ヶ原の戦いで功を挙げ4000石の大身旗本となった。

細川三斎  

  • のち、細川三斎は一万貫にて津田秀政からこれを買い取り、「中山」と名付けている。

    是を一萬貫に忠興買取て、名を中山と付る。
       年たけて又こゆへしと思ひきや
          命なりけり佐夜の中山

  • ただし実際には、客として招かれた際に津田秀政が席を外した隙に持って帰ってしまったもので、後日謝礼として黄金二百枚他を贈ったものだという。

    瀧川左近將監一益が臣津田小平治、先手の隊將もし、武功重畳の士也、隠遁して幸庵(興庵)といふ、東照宮にも輕からず御あしらひにて、駿府へ下りし時、御茶道具一通り下され、老後の樂に爲すべしと、難有上意ありし、幽齋が遺物に上られし中山と云ふ茶入、紀三井寺の茶碗、黑木の掛物等給りし、後京に住みて茶事のみに暮せし。或時細川三斎を招聘せしに、三斎日頃此中山を再び家に返し度思はれしかども、幸庵拝領の道具故申出しかねたりしに、此日茶湯過に中山を一目見せ給へと乞ふて出させ、亭主勝手へ入りし間に、取て袂へいれ相伴の人へ、命なりけり佐夜の中山と傳へよといひて、暇乞もなしに歸られしが、幸庵立出之をきゝて、年たけてまたこゆべしとは思はねど、出しぬかれたりとて笑になりし。翌日きのふの茶の禮とて使者あり、時服樽肴黄金二百枚贈られしに、家來ども此黄金納め置れるはいかゞと言ひしに、幸庵苦しからず趣向有りとて、厚く禮謝し、卽ち其金にて北のに一寺建立ありて、一家の菩提所とせらる。黑木の掛物は津田平左衛門代まで持傳へしを、井伊掃部頭大望みにて遠州を頼み仲立して貰はれ、今は井伊家にありとなん。

細川忠利  

  • 忠興はこれを子の忠利に譲るが、忠利の代に手放すことになる。この経緯は「明良洪範」などに記されている。

    當時越中守(忠利)げ譲られ候由也。然る所寛永三年四月より秋の末まで領分旱りし、土民ども餓死に及び候故、止事をえず土井大炊頭へ相談し、大炊頭世話にて酒井宮内大輔方へ、右の茶入中山を千八百枚にて遣はし、其黄金を以て領分并に家士等までも手當致され候、

    寛永二年四月より八月まで領分大に旱魃するに依り、百姓共當分の食物にも難儀いたし、況や來年迄の夫食の心當はすこしも無之候と、役人中へ訴ふ、忠利殊の外苦勞に思召され候へども、少分の救にては濟難きより、御先代幽斎以來相傳の名物の茶入を近習の侍に授られ、是を京都に持参し質物に遣はし、金子を借候位にては事足り申まじき間、(略)
    忠利御賣拂の時は、土井大炊頭利勝の肝入にて酒井宮内大輔忠勝、黄金千八百兩に買求られたり。

酒井忠勝  

  • 結局、土井利勝が周旋して庄内藩主の酒井宮内大輔忠勝が金1800枚で購入した。

酒井忠当→将軍家  

  • 忠勝死後、慶安3年(1650年)に酒井忠当が父の遺物として幕府に献上し、柳営御物となる。

    慶安三年三月七日、父が遺物、國次の脇差、中山の茶入を獻ず。

  • 明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼けるが、修復されている。

    明暦三年正月十九日御災上の節火に入り、御繕ひあり、

松平伊賀守  

  • のち信州上田松平伊賀守に伝わる。

    其後信州上田の城主松平伊賀守に傳はり、大正二年同家藏器賣却の節、増田英作氏に落札せり。

    信州上田松平伊賀守は、丹波亀山藩の3代藩主松平忠周が、のち信濃上田藩の初代藩主となったのに始まる。伊賀守流藤井松平家3代。十八松平のひとつ。
     一方、売立を行った子爵松平信政は丹波亀山藩の8代(最後)藩主で、こちらは形原松平家の13代。
     直接のつながりはなく、丹波亀山藩主は藤井松平家が3代続いた後は久世家1代、井上家1代、青山家3代の後に形原松平家が入って明治まで存続した。藤井松平家(松平伊賀守)に伝わった肩衝が、なぜ形原松平家に伝わったのかはわからない。

益田英作  

  • 大正2年(1913年)に行われた子爵松平信政家の売立てに出たところを、益田英作(益田紅艶。三井物産設立・初代社長である益田孝鈍翁の弟)が落札した。

    其後信州上田の城主松平伊賀守に傳はり、大正二年同家藏器賣却の節、増田英作氏に落札せり。

    大正八年二月一日増田紅艶(英作)目黑明日庵天平茶會
     客 高橋箒庵 野崎幻庵 根津嘉一郎 藤原銀次郎 越澤宗見入
     茶入 安國寺肩衝 水指 砂張
     天目 玳皮盞

  • ただし、この売立の際には袋も書付もなく裸同然で出品されていたため、誰も大名物の茶入とは思わなかったという。しかし、後に酒井家から茶入の袋三個が出品され、それが偶然この安國寺肩衝のものであったため、再び付属することになったという。

    歳器入札の節、庵主(益田英作)が八百圓にて掘出したる大名物にして、黑塗の挽家に短冊形の張紙して、何人の筆にや安國寺肩衝とあり、溜塗外箱にも亦同様の張札ありて、袋もなく書附もなく、裸同然にて出品されたるが爲め景色面白き漢茶入とは見受けたれども、誰とて之を大名物とは見定むる者なく、庵主も實は二の足を踏みながら入札して、僅に七八圓の差にて運好くも手に入れたる次第なるが、其後別に酒井家より出でたる茶入の袋三個は、不思議にも嘗て此肩衝に掛り居たる者にて、過世の因縁浅からざりけん、今は其袋も庵主の手に入りて此茶入に附属するに至りたりと云ふ。

  • 現在は五島美術館所蔵
    益田英作の実兄である益田孝のコレクションは、その死後高梨仁三郎を経て五島慶太が買い取っている。益田英作は大正10年(1921年)に亡くなっており、そのコレクションの多くが実兄の益田孝へと伝わったと思われ、同じ経緯で五島慶太が入手したものと思われる。

「佐夜の中山」  

  • 細川忠興(三斎)が秀政の茶会に出た折に、一度は手放した「有明の茶入」と遭遇し、再び手に入れることになるのだが、その際に件(くだん)の西行の歌(命なりけり佐夜の中山)が登場し、三斎は黙ってこの茶入を持ち帰ってしまったという。後日金200枚を贈ることで正式に譲渡された。
  • それ故に「中山肩衝」と名づけたとも伝わる。しかし、この逸話は名物の短刀「小夜左文字」の逸話とかぶっている。飢饉の折に同時に手放されたためか、逸話が混同したものと思われる。

秀吉からの拝領説  

  • 肥後熊本藩主細川家の歴代家史である「綿考輯録」には、細川忠興(三斎)が太閤秀吉から拝領したのだという逸話が載っている。

    康之帰候以後、忠興君閉門御赦免ニ而、御登城被成候得は、奥へ通り候へとの御意にて、各列座の中を御通り候ニ、何れもあやうく被存体也、太閤ハ奥の間に床を枕にして御座有けるか、三成か訟へ捧る処の一味連判を取出し、是ハ其方の判にてハなきかと被仰、忠興君如何ニも能似申たる判にて候へとも、筆くわく違候と御答被成候得は、左こそ有へき事なり近く寄れとて、懐の中に手を入レ御さくり候へ共、懐剣も無りけれハ、如何にもケ様ニ有へきと見つる事也、大たをれ者に一味し、ケ様の連判有之と云共、惣而十人の中五人も三人も謀判を加る事は可有也、忠興ハ先年明智叛反にさへ組せさりし事なれハ、此判は偽り成へし、たとひ一味とも以前の忠義に対しゆるす也、さそ此程ハ気積りたるへし、茶の湯して慰候へとて、有明といふ御茶入を被下候間、畏て御礼申上候、其時御側衆、扨も結構なる物を被為拝領候と御取合有けれハ、太閤夫よりも大事の物を遣したりと被仰候、忠興君暫く御思案被成、誠に此以前も時雨の御茶壺を拝領仕候と御申上候へは、いや夫にてハなし、一大事の命を遣したりと被仰候、扨御退出被成候ヘハ、御次の人々御命をさへ危く存候ニ、名物を御拝領ハ冥加に御叶被成候事と各御申候なり

    忠興の長女御長(おちょう)は、秀次付きの家老であった前野景定(前野長康の子で坪内景定とも。前野出雲守長重)の妻となっていたが、この騒動の際に松井康之などが奔走して離縁させ、出家させたことで免れている。

  • 前段は文禄4年(1595年)の秀吉の甥である関白秀次事件の際、秀次からの借金や連判状への署名などから連座を疑われた細川三斎が、秀吉に呼ばれていることが書かれている。その後、誤解が解け、秀吉から「有明といふ御茶入」が下されたというのである。
  • つまりこれに従えば、秀次事件連座の疑いが晴れた際に、細川忠興(三斎)が太閤秀吉から拝領したものになる。その後、細川忠利から酒井忠勝、将軍家、松平伊賀守家と伝来したことになる。もしくは、細川幽斎が所持したという伝来がおかしいと考えれば、忠興から安国寺恵瓊へと伝わり、津田秀政を経て、再び細川家に入ったということになる。恐らく後者なのではないか。