同朋衆


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 同朋衆(どうぼうしゅう)

室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと。
阿弥衆、御坊主衆とも。

Table of Contents

 概要

  • 語源は、仏教者の「同業同朋」から来たものと見られるが、将軍近侍の「童坊」から来たという説もある。
  • 一遍上人の起した時衆教団に芸能に優れた者が集まったものが起源とされる。時衆における遊行は、室町幕府から関所自由通過を許され、さらに時衆に加わる手続きも簡単だったため芸能を生活の手段とする人々が時衆集団に加わるようになる。
  • 時宗を母体としているために阿弥号(阿号)を名乗る通例があるが、観阿弥、世阿弥など、時宗の僧ではないものも阿弥号を名乗る。この用例を指して「擬法名的芸名」と呼ぶ。
    一遍は、自らの遊行に同行する人を時衆と呼び、男性には阿弥の法名を附し、また女性には「一房」号ないし「仏房」号を附した。一遍は寺院や堂舎を持たなかったことから、時衆には、世俗で生活をしながら修行することを大事にする性格を持つこととなった。
     一遍は、熊野本宮大社をはじめ多くの神社に参詣し、本地垂迹説をふまえて念仏を説いたことから、時衆となる武士が急増した。鎌倉幕府は神道を重視していたことから、鎌倉幕府と主従関係を持つ武士にとって他の念仏宗派より抵抗感が少なく、さらに、一遍は合掌よりも名号を優先すると教えており、戦場で合掌できずに戦死する可能性がある武士にとって受け入れやすかったとされる。鎌倉時代の末期には、戦争に直接関わる僧として「従軍時衆」が登場する。従軍時衆は戦陣に同行し、戦死した者に丁寧に念仏を唱え菩提を弔ったのである。

    一方、婆娑羅大名とした名高い佐々木道誉など在京大名が寄り合った時に“トモニツレタル遁世者”が田楽・猿楽・白拍子などを楽しみ、“道々ノ上手共”と呼ばれたという記述があるが、この“トモニツレタル遁世者”が阿弥のことだと考えられている。また応永7年(1400年)、信濃守護に任命された小笠原長秀が同国に入部する折に、それを阻止しようとする国人衆との間で大塔合戦が起こったが、長秀の軍の中に「頓阿弥」という遁世者がおり、連歌、早歌、舞に優れた多芸多能の人物だったという。

夫茶湯ノ起ハ、普光院殿(普広院、義教)・鹿薗院(鹿苑院、義満)ノ御代ヨリ唐物絵讃等歴々集リ畢、其比御同朋衆ハ善阿弥・毎阿弥ナリ、右兩 公方様薨去ノ後、(略)東山慈照院殿(義政)ノ御代名物悉集リ畢、花ノ御所様(義尚)ヘ御家督ヲ譲リアソハシゝ時、明光院殿(明広院、義視か)其御後見トシテ都ニ殘り給、御名物少々御授與シ玉フ、其外ニ七珍萬寶ハ其數ヲシラス(略)
慈照院殿ハ東山ニ御隠居ニテ、(略)能阿彌ヲ召テ、源氏物語雨夜ノ品サタメ坏讀セ、謌連哥、月見、花見、鞠、小弓、扇合、草盡、虫盡、サマゝ興を催、來方事トモ御物語アリシ時、慈照院殿被仰出、昔ヨリ有來遊興モ早事盡ヌ、漸冬モ近クナリヌ、雪ノ山ヲ分テ鷹狩リモ老身ニ不似合、何カ珍敷御遊在ヘキト御諚アリシニ、能阿彌謹テ得心シテ、憚ナカラ申上ル、御釜ノ熱音ハ松風ヲ猜ム、且又、春夏秋トモニ面白御遊ニテ候、コノコロ南都稱名寺ニ珠光ト申モノ御座候
(山上宗二記)

ここで珠光を紹介された義政は、その後珠光を召出して茶の湯に没頭する。ただし、能阿弥は義政が東山殿に移る前の文明3年(1471年)に没しているため、東山殿において珠光を推挙したという内容には矛盾がある。

 制度としての同朋衆

  • 制度としての同朋衆の起源は、細川頼之が執事となって奸佞の徒を退けるために6人の法師を抱え足利義満に「佞坊」として仕えさせたことに始まるとされ、それが後に「童坊」「同朋」と呼ばれるようになったという。
  • 初期の義満時代の同朋は主に連歌や茶・花・猿楽などに携わる阿弥として登場し、後期である義政の時代には猿楽や庭園作りなどの芸能を司るほか、唐物奉行として唐物や唐絵の目利き、表装、出納などを行ったという。
  • その後、同朋衆は戦国大名の家臣にもその名が見え、また織田信長豊臣秀吉にも仕えた。

 主な同朋衆

毎阿弥
〔茶道〕もと越前朝倉氏の家臣だったという。能阿弥の父とされる。

夫茶湯ノ起ハ、普光院殿(義教)・鹿薗院(義満)ノ御代ヨリ唐物絵讃等歴々集リ畢、其比御同朋衆ハ善阿弥・毎阿弥ナリ。

珠阿弥
古山珠阿弥。しあ。「鹿苑院殿厳島詣記」に”古山珠阿”として名前が見える。「新田族譜」によれば、新田義貞に仕えた太田十郎宗行の孫古山十郎宗房は義満に仕え、厳島御成にも供奉しておりのち古山に戻ったと記し、その弟である珠阿は鹿苑院将軍同朋であると記す。また歌道二条派の古今伝授を伝えた頓阿は、珠阿弥に師事したともいう。
昌阿弥
生阿とも。医師で足利義詮の信任を得る。義詮が貞治6年(1367年)に病に倒れると生阿が一人で看病したという。

大樹日来療治医師昌阿弥(世郷魏馬房)去五日逐電了、彼宅自侍所依相触之、雑人等壊取云々、療治依参差、早速勝負出来之間、依可被行罪科逃避脱云々

寿阿弥
応永29年(1422年)7月に称光天皇が病になられた際に治療にあたった。天皇は快癒し、寿阿弥は数々の引出物を賜った。

医師寿阿志仏法印弟子祇候。勧賞重宝被下之。自諸家進物悉拝領云々。諸医捨申之処志寿阿一人祇候。高名高運也。更非名医不思議之運歟。

正長元年(1428年)2月、再び称光天皇が病にかかった際にも、義円(義教)を介して寿阿弥が呼ばれている。
文安5年(1448年)5月4日、夜盗に押入られて斬殺され、居宅も火事となり医書等も焼失した。
立阿弥
〔会所室礼〕永享2年(1430年)3月17日の金剛輪院で花見が行われた際に、立阿弥が座敷飾りを命じられている。

自室町殿會所置物。(略)以上色々立阿弥被送下之了。祝着眉目此事々々。立阿ニ二千疋賜之也。立阿令奉行置物共悉置之。飾之了罷歸也。會絵以下大略今日周備了。摂政殿入寺。御宿坊法恩院也。

能阿弥
〔唐物、茶道、水墨画、連歌、立花〕号は鴎斎、春鴎斎子。父を金阿弥または毎阿弥とする。義政に仕え歌連歌、村田珠光を推薦し茶湯の師匠を務めた。「御物御畫目録」、「君台観左右帳記」、「能阿弥本銘尽」の著者。応永4年(1397年)生まれ、文明3年(1471年)没。

能阿弥事 慈照院殿東山殿也。公方ゾ同朋也。名仁也。畫ノ事ハ自元也。香ノ上手。連歌士。

この能阿弥に子の芸阿弥、孫の相阿弥をあわせて三代三阿弥(能・芸・相)と呼ぶ。
2024年3月、奈良県桜井市の長谷寺に能阿弥の顕彰碑が建立された。高さ約2メートルの庵治石製で、仁王門横の歓喜院の門前に建立された
芸阿弥
〔唐物、茶道、水墨画〕姓は中尾、名は真芸(しんげい)。絵師、連歌師、表具師、鑑定家。号学叟。足利義政に仕えたが、ちょうど応仁の乱の時期にあたるためか記録が少ない。永享3年(1431年)生まれ、文明17年(1485年)11月2日没。
相阿弥
〔唐物、茶道、水墨画、立花、作庭〕姓は中尾、名は真相(しんそう)。唐物奉行を務め、竜安寺や大仙院の石庭を造ったと伝わる。号松雪斎・鑑岳。祖父能阿弥の著した「君台観左右帳記」を追記し完成させた。大永3年(1523年)には「御飾記」を著している。大永5年(1525年)10月27日没。
南阿弥(なあみ)
〔謡作曲者〕海老名の南阿弥陀仏。曲舞「東国下」「地獄」の作曲者。観阿弥を義満にひきあわせた。遁世した関東武士の海老名六郎左衛門ともいう。
「申楽談儀」に佐々木道誉と並んで一忠の評者として登場する。

一忠、清次(法名觀阿)、龜阿(喜阿ともいふ)、是れ當道の先祖といふべきである。觀阿は、この一忠を我が風體の師であると申された。道阿もまた一忠の弟子であつた。世阿彌は一忠を見てゐないが、京極の道譽、海老名の南阿彌陀佛などの物語より推量するに、俗めいた仕手のやうであつた。

また室町時代の御伽草子「猿源氏草紙」に”海老名のな阿弥”として登場する。

中頃の事にやありけん、伊勢の國阿漕が裏に鰯賣一人あり。もとは海老名の六郎左衛門とて、關東ざぶらひにてぞありける。妻におくれて娘を一人もちたりしを、日頃召使ひける猿源氏といふものに取らせて、すなはち鰯賣の職をゆづり、わが身は都へのぼり、もとゆひ切り、えびなのなあみだぶつとて、隱れなき遁世者にぞありける。大名高家近づけ給へり。

三島由紀夫が、この話を元にして歌舞伎の演目としたのが「鰯売恋曳網」(いわしうりこいのひきあみ)である。
琳阿弥(りんあみ)
〔連歌師、曲舞作者〕足利義満に仕え、東寺と幕府の仲介役なども果たす。曲舞「東国下」「西国下」の作詞者。玉林。連歌師救済門人。
観阿弥
〔猿楽能〕「かんあみ / かんなみ」。1333年生まれ。本名結崎清次。通称三郎。芸名観世。観阿弥清次。観世流の始祖。大和の山田猿楽の家系の生まれ(三男で、長兄は宝生大夫であるという)で、のち結崎座(のち観世座)を率いて都に進出した。
なお昭和37年(1962年)に発見された上嶋家文書(観世福田文書)によれば、観阿弥こと清次は伊豆守源仲綱の次男・源有綱の後裔を称したという。有綱の遺児・有宗は吉富氏を名乗り、為盛の代に上嶋氏と称す。景守の次男・元成の三男が清次だという。父はのち服部氏の養嗣子となった関係で清次も服部姓を称した。なお父・元成の妻は河内国玉櫛庄の橘入道楠木正遠(つまり正成の実父)の娘(つまりは正成の姉妹)であると言い、これが正しいとすれば観阿弥こと清次は楠木正成の甥であるということになる。

三郎自身は大男ながら、ほそぼそとした女性の役から10代の美少年まで幅広く演じ分け、応安7年(1374年)42歳の時に今熊野での演能を見た足利義満に高く評価され、当時12歳であった息子世阿弥とともに重用された。山田猿楽の演劇性を基礎としながらも、曲舞の音楽性、田楽の長所、近江猿楽の唯美主義などを取り込むことで世界でも類を見ない長く演じ続けられる能の基礎を確立した。1384年、駿河での巡業中に客死。※ただし「能楽」という言葉の起こりは明治14年(1881年)に設立された「能楽社」による。発起人九条道孝らの発案で猿楽を能楽と言い換え、「猿楽の能」は「能楽の能」と呼ばれることになった。
世阿弥
〔猿楽能〕「ぜあみ」。観阿弥の長男。本名は観世三郎元清。世阿弥元清。幼名鬼夜叉、藤若。12歳のときに父とともに将軍義満に見出され、寵愛を受けた。父の死後2代観世大夫。応永8年(1401年)頃から世阿弥陀仏と号している。応永15年(1408年)に義満が没して義持が4代将軍となると、義持は田楽の増阿弥を寵愛したため不遇をかこっている。応永29年(1422年)60歳で出家して至翁善芳と号し、観世大夫を長男の十郎元雅へ譲っている。さらに永享元年(1429年)に義教が将軍になると弾圧され、永享4年(1432年)に十郎元雅が亡くなると、大夫を甥の音阿弥(観世元重)へ譲らされる。のち佐渡に流された。芸術論「風姿花伝(後に吉田東伍が花伝書としたため、俗に花伝書と呼ばれる)」など多数の著書を残した。
しかし時代の変遷とともに世阿弥の伝書は忘れられ、著作の多くは奈良金春宗家の相伝の「秘伝書」としてのみ伝えられていた。明治42年(1909年)歴史学者であり日本音楽史の造詣が深かった吉田東伍が「世子六十以後申楽談儀(申楽談儀)」を校訂、これがきっかけとなり「風姿花伝」など世阿弥伝書の発見につながる契機となった。

「申楽談儀」

一忠、清次(法名觀阿)、龜阿(喜阿ともいふ)、是れ當道の先祖といふべきである。觀阿は、この一忠を我が風體の師であると申された。道阿もまた一忠の弟子であつた。世阿彌は一忠を見てゐないが、京極の道譽、海老名の南阿彌陀佛などの物語より推量するに、俗めいた仕手のやうであつた。

音阿弥
〔猿楽能〕世阿弥の甥。応永5年(1398年)生まれ、応仁元年(1467年)没。観世音阿弥元重。観阿弥世阿弥と並べると「観・世・音」となり、前二者は義満、音阿弥は義政の命名ともいう。義教の寵愛を受け、「当道の名人」として世阿弥以上の世評を博した。現在では十郎元雅を数えず、音阿弥を3代観世大夫とする。音阿弥の後、観世流は、四世又三郎政盛(音阿弥の子)、五世三郎之重(政盛の子)、六世四郎元広(之重の子)、七世左近元忠(法名宗節、元広の子)と続いた。
喜阿弥
田楽新座の役者で、芸名は亀夜叉。亀阿弥ともいう。大和猿楽の観阿弥、近江猿楽の犬王らと同時期に活躍した。世阿弥は、喜阿弥の芸について「申楽談儀」で詳しく語っている。

喜阿は謡の先祖である。日吉の牛熊の音曲を似せたと云ふことである。音曲能ばかりを演じて、奥深い藝味を持つた風體の人であつた。

増阿弥(ぞうあみ)
田楽新座の喜阿弥の後継者。禅宗に傾倒していた将軍義持に寵愛される。世阿弥も「申楽談義」において「冷えに冷えたり」と幽玄の芸風を高く評している。また尺八にも優れ、豊原量秋の弟子であったという。女面「増」の作者とも、あるいはモデルの女性の夫ともいう。

今の增阿は、能も、音曲も、閑花風に悟入する人であらう。能に持つた音曲、音曲に持つた能であつた。南都東北院の立合に、東の方より西に立廻つて、扇の先ばかりでそつとあしらつて止めた風情は、感涙お流れるばかりに覺えた。(中略)增阿の立合は、世間一般とは變つてゐると云はれてゐる。尺八の能に、尺八一手吹き習ひ、なだらかに謡ひ、別に所作もなくさつと入る様が、又眞にさえてゐた。この增阿は、一方向きの田樂ではなく、殆何でも熟した。他人と並び諷ふ體や、炭焼に薪負つた様などは、田樂であつた。

道阿弥(どうあみ)(犬王)
能役者。通称犬王。はじめ犬阿弥。近江猿楽の日吉座に属していた。佐々木道誉に認められ、1380年ごろより勧進猿楽などで活躍すると観阿弥亡き後の足利義満に寵愛される。1389年の厳島詣にも同行しているが、応永3年(1396年)ごろ一時的に失脚して出家し、犬阿弥と号した。応永8年(1401年)ごろに呼び戻されて道阿弥の名を与えられる。「道」は、義満の法名「道義」から一字を拝領したものであり、この時期世阿弥よりも犬王が能楽の第一人者として重用されたという。応永15年(1408年)に後小松天皇が北山第に行幸した際に行われた天覧能で主役を演じ、三千貫の褒美を頂戴したという。応永20年(1413年)5月9日没。紫雲がたなびき花が降った(紫雲聳、花雨云々、)という。

一忠、清次(法名觀阿)、龜阿(喜阿ともいふ)、是れ當道の先祖といふべきである。觀阿は、この一忠を我が風體の師であると申された。道阿もまた一忠の弟子であつた。

犬王は上三花に登つて中上にも落ちず、中下を知らぬ人であつた。又音曲は中上程度のものであつた。葵の上の能に、車に乗り、柳裏の衣を豊かに着て、車副(くるまそえ)の女人は、先づ車の轅(ながえ)にすがり、橋懸で、「三の車にのりの道、火宅の門をや出でぬらん。夕顔の宿のやれ車やる方な」と一聲に謡ひ初めて、たふゝゝと云ひ流し、「憂世は牛の小車のゝゝ廻るや」などの次第を、「くるまの」の「まの」を張つて謡ひ、謡ひ納めにはた(、、)と足拍子を打つた。後の霊などでも、山伏に祈られて、山伏はとに、それをば顧みる所作の小袖扱ひなど、何ともいはれぬ風體であつた。天女なども、輕妙に、恰も飛鳥の風に從ふが如く舞つた。金泥の經を脇の仕手に渡して、後へ引いてより舞ひ出した。初の段では左へ扇を取る事もなく、最後に、何の何してと懸る時、左に取つて大廻りしたもので、一見意表に出てゐるやうに見せて、これで道は守られてゐるから面白いのである。皆は唯面白いと見て、帯の解けるばかりを見せて、結び納める事を知らぬものである。(中略)
道阿こそ上花に達して、風情にをのずから面白さが沸くものを、今の近江申樂の人は、至らずに其の體を似せるから、音曲も延び腐つて畢ふのである。近江の風體とは此の如し。

善阿弥
〔作庭、連歌〕河原者の出身で、庭師として足利義政に重用された。長禄2年(1458年)の相国寺蔭涼軒、寛正2年(1461年)の花の御所泉殿、その翌年の高倉御所泉水、文正元年(1466年)の相国寺山内睡隠軒などが善阿弥作とされる。”善阿弥”の名で登場するのは70歳半ばと見られており、文正元年(1466年)時点で83歳だったというが、その前半生はよくわかっていない。文明14年(1482年)9月に推定97歳で死去。

年齢八三。老而益健之由被仰出。音阿妙又河原善阿弥益健之由。
(蔭凉軒日録 文正元年1月18日条)

蔭涼軒御成、蔭涼庭頭可被栽葉樹之由被仰出也、善阿承尊命而来也。
(蔭凉軒日録 長禄2年2月24日条)

一説に、河原者の頭領であった虎菊ではないかとされる。虎菊(または異体字の乕)の名は永享11年(1439年)頃から登場する。

庭前松、大光明寺超願寺等之松河原者席召参令見之
(看聞御記 永享5年10月8日条)

少林院御成。御点心。於双桂庵御斎。真如堂御参詣。雑木可移栽御庭之由伺之。乃虎菊所白也。
(蔭凉軒日録 永享11年9月25日条)

子の小四郎らも庭師として仕え、慈照寺(銀閣寺)の庭園は彼の子の二郎、三郎、及び彼の孫の又四郎による作品である。
重阿弥
〔碁〕
拾阿弥
十阿弥。愛智義成の子孫と称した土豪の愛智氏。織田信長に仕えていたが、前田利家の佩刀の笄(正室芳春院の実父の形見)を盗むに飽き足らず、度重なる侮辱を繰り返したために、信長の門前で利家により斬殺された(笄斬り)。
千阿弥
千利休の祖父(『千利休由緒書』)で、子に堺の有力町衆である田中与兵衛(利休実父)がいる。足利義政に仕えて同朋衆を務めた。応仁の乱の際、敵方に内通したとの疑いをかけられて逃亡し、戦災を避けるため、堺へ移住したという。
弥阿弥
彌阿彌。鑄師名越家の出で、同家の伝承では初代七郎左衛門は北条義時の次男であるとする(要するに名越流北条氏の末裔という伝承)。文保2年(1318年)没。2代彌七郎は貞和2年(1346年)没、3代彌五郎は明徳2年(1391年)没、4代彌七郎は文安元年(1444年)没。そして5代の彌七郎が薙髪して「彌阿彌」と号して足利義政に仕え、初めて茶湯釜を鑄て献じたとする。文明2年(1470年)没。6代彌七郎は「鑄阿彌」と号し天文4年(1535年)没。8代彌七郎は信長に仕え三千石を領したという。文禄2年(1593年)没。9代彌五郎は天正8年(1580年)没、10代彌七郎は薙髪して「浄裕」と号し慶長11年(1606年)没。11代彌七郎は「善正」(名越善正)と称した。天正期の鋳物師棟梁で勢力を張った。また全国から鋳物師を集めて大仏の鐘を鋳て名を挙げたという。この善正の長男・彌右衛門三昌は京都で京名越家を継ぎ、次男の彌五郎家昌は江戸に下って江戸名越家の祖となったという。
京都名越家初代の名越三昌(号 浄味。古浄味)が慶長19年(1614年)に方広寺の大梵鐘鋳造にあたったという銘(冶工京三条釜座名護屋越前少掾藤原三昌)があり、伝承にずれがあると思われる。
幸阿弥
幸阿弥派)漆芸における蒔絵師の中は。土岐氏を称している。
初代道長は応永17年(1410年)に生まれ、将軍義政の近習となって近江栗本郡を領したが京に在住したという。能阿弥・相阿弥・土佐光信の下絵に蒔絵を施したものであるという。
ニ代通清は永享5年(1433年)生まれ。本格的に蒔絵師となり、能阿弥・相阿弥・土佐光信の下絵に蒔絵を施したが、自身でも下絵を書き出したという。鼓の筒に施した蒔絵が義政の御意に叶ったことから名物半夜の硯箱を拝領したとする。寛正6年(1465年)の後土御門天皇の即位の際には義尚の命により御道具を製作したという。これ以降、天皇が即位するときの道具は代々の幸阿弥を頭領として製作されることが通例となったという。3代宗金は後柏原天皇(義澄)、5代宗伯は後奈良天皇(管領)、6代長清は正親町天皇、7代長晏は後陽成天皇(秀吉)、8代長善は後水尾天皇(家康)、11代長房は後西天皇の即位のときの御道具製作を命じられている。

 会所(かいしょ)

  • 会所とはなんらかの会、催し物、寄合・会合が行われるところであり、中世期に発展して、ある特定の区画、さらには独立した建物が「会所」と名づけられるようになった。
  • 南北朝期には婆沙羅大名として高名な佐々木道誉も会所を持っていたことがわかる。

    爰ニ佐渡判官入道々誉都ヲ落ケル時、我宿所ヘハ定テサモトアル大将ヲ入替ンズラントテ、尋常ニ取シタヽメテ、六間ノ会所ニハ大文ノ畳ヲ敷双ベ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆ニ至マデ、一様ニ皆置調ヘテ、書院ニハ羲之ガ草書ノ偈・韓愈ガ文集、眠蔵ニハ、沈ノ枕ニ鈍子ノ宿直物ヲ取副テ置ク、十二間ノ遠待ニハ、鳥・兎・雉・白鳥、三竿ニ懸双ベ、三石入許ナル大筒ニ酒ヲ湛ヘ、遁世者二人留置テ、誰ニテモ此宿所ヘ来ラン人ニ一献ヲ進メヨト、巨細ヲ申置ニケリ

  • 室町幕府(花の御所)に会所が設置されるようになり、義持、義教が次々と増設し、四宇の会所を持っていたとされる。

    ひんかし山との御くわい所の御わたましの御れいに。しろ御たちてんそう御つかいにてまいる

    義満の代に花の御所内に一宇、応永16年(1409年)三条坊門殿に一宇、永享4年(1432年)に南向会所、永享5年(1433年)に会所泉殿、永享6年(1434年)に新会所を造営した。

  • 会所の発達は、寝殿造りから書院造りへの変遷を促すこととなり、さらに座敷飾りの場として床の間が出現し、「唐物」と呼ばれた絵画、墨跡、文房具、法具などが唐物数寄として発達していく。
  • 歴代将軍により蒐集された道具は「東山御物」(ひがしやまごもつ)と称されるようになる。これらの目利き、表装、出納などにあたったのが同朋衆であり、初期には三代三阿弥(能・芸・相)が「唐物奉行」と呼ばれ、「会所同朋」などとも呼ばれた。
  • こうした同朋衆の室礼の集大成が「君台観左右帳記」となる。著者の能阿弥は、刀剣鑑定書「能阿弥本銘尽」も著している。

 本阿弥

  • 後の刀剣鑑定所、「本阿弥家」の祖。
  • 初代が「妙本阿弥陀仏」を略して「本阿弥」と称したという。

本阿弥

 十阿弥(とあみ)

  • 拾阿弥とも。
  • 織田信長に仕えた同朋衆とされ、ある時又左衛門と名乗っていた頃の前田利家の刀の笄を盗んだという。怒った利家は信長に十阿弥の処罰を願うが却下され、その場で十阿弥を斬り捨てる。
  • 信長は利家を斬ろうとするが柴田勝家らに止められ、放逐をするに留まる。
  • 利家はその後「桶狭間の戦い」で単身今川方に切り込み首級を挙げるが赦されず、さらに後、美濃森部村(安八町)での「森部の戦い」(稲葉山城の戦いの前哨戦)で斎藤氏重臣日比野下野守の家臣足立六兵衛を討ち取る。
    日比野下野守は日比野清実。安藤・氏家・日根野らとともに署名する文書もあり、「斎藤六宿老」と呼ばれることもある。
     足立六兵衛は日比野清実の家来で、伝承によれば素手で首を取ったために「首取り足立」という異名がつくほど怪力の猛将であったという。
  • 信長は「足立の首は、城一つ攻め滅ぼしたも同然」と激賞し、利家はようやく帰参を認められ赤母衣衆として活躍していく。

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