幸阿弥
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幸阿弥(こうあみ)
漆芸における蒔絵師の流派
幸阿弥派
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概要
- 初代道長が入道して幸阿弥を号し、代々それを称したため幸阿弥派と称される。
- 初代、ニ代は足利義政に仕えて蒔絵で高い評価を受ける。
- ニ代の時、寛正6年(1465年)の後土御門天皇の即位の際には義尚の命により御道具を製作したという。
- これ以降、天皇が即位するときの道具は代々の幸阿弥を頭領として製作されることが通例となったという。
- 3代宗金 大永元年(1521年)104代後柏原天皇即位(義澄)
- 5代宗伯 享禄5年(1532年)105代後奈良天皇即位(管領) ※「從管領被仰付候」(細川高国?)
- 6代長清 永禄3年(1560年)106代正親町天皇即位
- 7代長晏 天正14年(1586年)107代後陽成天皇即位(秀吉)
- 8代長善 慶長17年(1612年)108代後水尾天皇即位(家康)
- 10代長重 寛永7年(1630年)109代明正天皇即位(秀忠)
- 10代長重 寛永20年(1643年)110代後光明天皇即位(家光)
- 11代長房 万治2年(1659年)111代後西天皇即位(家綱)
- 桃山期には城郭建築や寺社仏閣における蒔絵御用を賜って数々の作品を残したほか、江戸時代には徳川将軍家に御用蒔絵師として仕えて数々の婚礼調度品などを製作している。
初代道長
- 初代道長は応永17年(1410年)に生まれ、将軍義政の近習となって近江栗本郡を領したが京に在住したという。入道して幸阿弥を号したという。これが代々受け継がれ、「幸阿弥派」と称されるようになった。
近江栗本郡とは滋賀県にあった栗太郡のこと。現在の草津市、栗東市の全域、大津市の一部、守山市の一部にあたる。
かつて栗本と呼ばれていた地名が江戸頃を境に栗太(栗田)へと変わったのだという。「郡名に栗田、又栗本と記せるものあり、六國史延喜式等には栗太と記し「クリモト」訓す、「クリフト」の轉訛なり、獨り和名抄に栗本郡と記す、是「クリモト」の訓によりて栗本の字を書き當てたるものなるべし、江戸時代には撿地帳や佛像裏書に栗本郡と記したるもの少からず、栗太を正字とす、又栗太郡と記したるものもあり之れ栗太の音讀による誤字なり」
- 能阿弥・相阿弥・土佐光信の下絵に蒔絵を施したものであるという。
- 文明10年(1478年)没。
ニ代通清
- ニ代通清は永享5年(1433年)生まれ。明応9年(1500年)10月3日71歳没。
- 本格的に蒔絵師となり、能阿弥・相阿弥・土佐光信の下絵に蒔絵を施したが、自身でも下絵を書き出したという。鼓の筒に施した蒔絵が義政の御意に叶ったことから名物半夜の硯箱を拝領したとする。
- 寛正6年(1465年)の後土御門天皇の即位の際には義尚の命により御道具を製作したという。
6代長清
- 永正3年(1506年)生まれ、慶長8年(1603年)4月26日75歳没。
- 與惣次郎。
- この6代長清(5代の子)は蒔絵がもっとも興隆をみた桃山期に活躍した人物。
- 永禄3年(1560年)52歳で正親町天皇即位の儀の道具を調進し、天正11年(1583年)には秀吉の命により禁裏並びに院御所の道具製作を命じられ「天下一」の称号を賜っている。
禁裏御用被仰付候時天下一ヲ被下並
- 秀吉と高台院(ねね)の墓所である高台寺蒔絵についても幸阿弥派によるものと推定されている。
- 小田原の北条氏直(1562-1591)にも気に入られ、たびたび下向していたという。
7代長晏
- またその子である7代長晏は父と共に豊臣秀吉の御前で香盆に鶯を蒔絵して献じ、「鶯が飛び立つわ」と称され「上手」の号を受けたという。
秀吉公御前江十五歳之時長清召連出即御前ニテ御香盆ニ鶯之下繪ヲ仕此時繪出來指上ケ候時殊外御意ニ入御褒美之御言葉鶯カタツハ/\トノ御上意ニテ上手號取
- 慶長13年(1608年)40歳時には加賀の前田利常夫人である徳川秀忠の娘・珠姫(天徳院、秀忠とお江の娘)の婚礼調度〔濃梨地に松橘蒔絵〕を製作。
- 慶長14年(1609年)には秀忠に召されて二百石を賜っている。酒井雅楽頭忠世ほか老中よりお抱え蒔絵師の奉書・朱印を受けるも、その帰路、見附沢近辺で落馬し、10月25日に死去。
京都ヨリ罷下候道中見付澤ニテ落馬シテ十月二十五日ニ相果四十二歳
- 7代が手掛けた後陽成天皇即位時の道具類〔住吉蒔絵机(重文)、日月蒔絵硯箱(重文)〕は、のちに天皇の長子である仁和寺21代覚深法親王へ下賜され、寺宝となっている。
- 住吉蒔絵机:国指定文化財等データベース
- 日月蒔絵硯箱:国指定文化財等データベース
- 永禄12年(1569年)生まれ、慶長15年(1610年)10月25日42歳没。
8代長善
- 8代長善(7代長男)は落馬して急死した父の跡をつぎ、江戸幕府に御用蒔絵師として仕え、家康より後水尾天皇即位の道具製作を命じられ仕上げるが、25歳の若さで「頓死」する。
- 天正17年(1589年)生まれ、慶長18年(1613年)10月4日25歳没。
9代長法
- 9代長法(7代次男)は東福門院調度、桑名姫君祝言道具などを手掛けるが、制作途中の元和4年(1618年)に「俄ニ遁世」したという。生年不詳。
- そこで8代(長男)・9代(次男)の父・7代長晏の後家である長栄が江戸に運動した結果、7代の三男であり他家に養子に出ていた19歳の新次郎長重を呼び戻し、元和4年(1618年)9月幸阿弥本家の家督を相続させ10代とした。
つまり、1610年に7代が落馬で急死、1613年に8代が頓死、1618年に9代が遁世したことになる。
10代長重
- 10代新次郎長重は7代長晏の三男で、慶長4年(1599年)生まれ、慶安4年(1651年)2月21日53歳没。
- 與兵衛。
- 元和4年(1618年)、御細工頭矢部掃部烏帽子子になり、19歳で家督を継いだ。この時、仁王三原の刀を拝領したという。
矢部掃部は駿河矢部氏2代の定清であると思われる。氏真ののち天正18年(1590年)から家康に仕える。武蔵荏原で采地を賜る。慶長元年(1596年)細工頭。同心5人を預けらる。慶長6年(1601年)上野緑野で加恩、同心7人。慶長14年(1609年)下総千葉にて440石。両度の大阪の陣にも従い元和8年(1622年)67歳で死去。跡は定勝が継いだ。元和8年(1622年)細工頭。
- この10代長重は下記のものを手掛けている。
- 元和6年(1620年)東福門院の入内(婚礼)調度品〔濃梨地に枝菊蒔絵〕
- 寛永7年(1630年)明正天皇の即位調度品
- 寛永14年(1637年)大姫(水戸頼房四女、前田光高夫人清泰院)婚礼調度〔濃梨子地仙人歌之文字金銀彫物〕
- 正保元年(1644年)(1643年)後光明天皇即位道具
- 千代姫(家光長女、水戸光友夫人)婚礼調度品である初音蒔絵三段(厨子棚、黒棚、書棚)〔濃梨子地ニ源氏初音之巻(国宝)〕
- その他
- 近衛尚嗣夫人女二宮(東福門院の子。実名不明)婚礼調度〔濃梨子地ニ菊水岩有〕
- 日光御門跡御手道具〔濃梨地ニ粒菊・輪宝其外色々〕
- 女五宮(東福門院の子・賀子内親王、関白二条光平室)婚礼調度〔濃梨子地靏菱地上紋粒菊散シ〕
- 一条教輔室(池田光政娘・靖厳院)婚礼調度〔地紋綾杉ニ獅子牡丹(重文)〕国指定文化財等データベース林原美術館蔵、東福寺蔵(同文蒔絵食器類)
- 日光社参御道具
- 土井大炊頭御息女婚礼調度
- 松平伊豆守息女婚礼調度
11代長房
- 10代の子。寛永5年(1628年)3月10日生まれ、天和3年(1683年)没。
- 幼少の頃より父に連れられ江戸に下り、正保3年(1646年)19歳時に初御目見得。
- 23歳で家督を継ぐ。
- 4代家綱の初の日光社参詣の旅道具の製作
- 万治2年(1659年)後西天皇即位の儀の御道具(家綱)
- 5代綱吉御台御入輿御道具 ※鷹司教平の娘・鷹司信子
- 東叡山厳有院殿御仏殿宮殿の塗蒔絵にも参加している
- 土井大炊頭利重息女祝言道具
- 松平讃岐守頼重息女祝言道具
- 東福門院二條姫君祝言道具 ※甲府綱重に嫁いだ隆崇院(母が女五宮こと賀子内親王)
- 伏見宮貞致親王妃好君祝言道具(近衛尚嗣と女二宮の娘が伏見宮貞致親王に嫁いだ際のもの)
- 高厳院殿祝言道具 ※将軍家綱正室顕子女王?
- 女院御所入内道具 ※霊元天皇中宮こと鷹司教平娘・鷹司房子?
- 女院御所御用御茶碗台重箱
- 甲府綱重二度目祝言道具 ※隆崇院は22歳でなくなり、継室・紅玉院(綾小路俊景の娘)を迎えている
12代長救
- 寛文元年(1661年)生まれ、享保8年(1723年)没。
- 「家伝書」、「家伝巻」、「梅ケ枝御硯日記」、「唯一心」などを著した。
- 梅ケ枝御硯日記:幸阿弥家文書 梅ヶ枝御硯箱日記・唯一心(公刊)-東京文化財研究所刊行物リポジトリ
- 梅ケ枝御硯日記:美術研究 = The journal of art studies 9(3)(99) - 国立国会図書館デジタルコレクション
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