千鳥の香炉


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 千鳥の香炉(ちどりのこうろ)

青磁香炉
銘 千鳥
大名物
徳川美術館所蔵

  • 13世紀、南宋時代のもの。
  • 高6.4cm、口径9.1cm
Table of Contents

 由来

  • 円筒形で、三つの足が浮き上がる形態が千鳥が片足を上げるしぐさにたとえられ、この種の香炉を「千鳥形」と呼ぶ。
    形状的に三つの足ではなく底面中央の高台で支えており、外側の三つの足はわずかに浮き上がっている。
  • 蓋にも千鳥をかたどったつまみが付いており、盗賊の石川五右衛門が秀吉の寝所に忍び込んだとき、この千鳥が鳴いたため捕らえられたと伝わる。

 来歴

 武野紹鴎

  • もとは紹鴎所持という。

 今川家

  • いつごろ駿河今川家に入ったのかは不明だが、少なくとも氏真の時にあったことが紀行文から判明している。
    前所持者の武野紹鴎は天文24年(1555年)閏10月29日没。義元が花倉の乱を制して今川家家督を継いだのが天文5年(1536年)で、紹鴎死の当時義元は36歳(桶狭間の5年前)、氏真は17歳。
  • 里村紹巴の「紹巴富士見道記(紹巴富士紀行)」は次のように記している。

    御館様にて、宗祇香炉に、宗長松木盆、翌日御會席半ばに(氏真)御手づから出ださせ給ひ、千鳥といふ香炉、名物拝見忘れがたくして、丸子に至りぬ。

  • これは永禄10年(1567年)のことで、紹巴は5月中旬から6月下旬まで一月半あまりを駿河で過ごしている。紹巴は、駿河の地で三条西実枝(三条西実隆の孫で、細川幽斎に古今伝授の返し伝授を誓わせた人物)や、正親町三条実福らと交流している。
  • なお里村紹巴は、帰路の尾張では信長家臣の連歌会に招かれている。
    尾張には往路で40余日、復路で20余日と長期に渡って滞在しており、この際に氏真所蔵の茶道具について話すことがあったのではないかと思われる。
     なおこの紹巴の旅から二年後の永禄11年(1568年)12月、今川氏真は武田信玄の侵攻を受け掛川城へと篭もる。そこを信玄と駿河割譲を約していた徳川家康に囲まれ、遂に永禄12年(1569年)5月に掛川城を開城し降伏、三条西実枝らも同年6月には帰京している。

 信長

  • 信長公記には、今川氏真から献上されたと記す。

    天正三年乙亥
    三月十六日、今川氏真御出仕、百瑞帆御進上、已前も千鳥の香炉、宗祗香炉御進献の処、宗祗香炉御返しなされ、千鳥の香爐止置せられ候き。

    つまり、天正3年(1575年)3月は「百瑞帆」を献上、それより以前に、「千鳥の香爐」及び「宗祗香爐」を献上したが「宗祗香爐」は氏真に返してしまったという。

  • しかしこれより遡ること1年前、天正2年(1574年)3月に堺衆の今井宗久、津田宗及、千宗易らを招いてこれを披露している。

    天正貳年
    戌三月廿四日巳刻、於相國寺
    上様御会 堺衆ニ御茶被下、半ニ宗及堺ヨリ上申候て一人ニ御茶被下候
    一、御床 五種ノ菓子御繪 方盆ニ松本茄子
    一、臺子 藤並釜 桶 合子 カウジグチノ 御柄𣏐立 カズ臺 犬山天目 御勝手之御棚ニ有之
    一、御茶 なつめニ入テ 上様御自身被成御持御出候て 紅屋宗陽進上ノかうらい茶碗にて御茶被下候 有閑茶堂也
    一、於御書院 宗久、宗易、宗及 三人ニ千鳥ノ御香爐被仰拝見付候 ヒシノ盆 香合 同前 御香爐始て

    本文注:
    三月廿日義昭使ヲ上杉武田今川氏等ニ遣シ本願寺光佐ヲ援ケテ信長ヲ討タシメムトス信長之ニ先ンジ三月十七日入洛参内従三位参議ニ叙シ東大寺ノ名香蘭奢待ヲ切ル事ヲ許サレ南都ニ至リ松永ノ居城多聞山ニ留リ窺カニ大坂攻ノ機ヲ待ツ相國寺ノ一會ハ之カ爲ニ堺衆ノ一致協力ヲ豫約セシムルノ要アリシ爲ナルベシ
    今井宗久日記ニ依レハ當日ノ人數ハ宗易宗久道叱宗甫道設宗訥宗二ノ七人ニシテ宗及一人後レテ茶會半バニ至リシナリ
    〔青磁千鳥香爐〕今川氏真ヨリ上ルト云フ今御物ト成ル高臺脚ヨリ高ク三足宙ニ浮キタガル故ニ千鳥ト名ヅクト傳フ此手今モ世上ニ少カラズ

    この2ヶ月前の天正2年(1574年)正月末頃、津田宗及は岐阜に趣き信長に秘蔵の茶道具の拝見を許されている。にも関わらず千鳥の香炉は3月24日にはじめて見たと記し、さらに「今御物ト成ル」とも記している。
     この3月24日の茶会の数日後、信長は奈良へ赴き、蘭奢待を截り取っている。朝廷などへ献上するとともに、堺衆を招いて銘香を楽しんだ上、津田宗及と千利休には特別に分け与えている。詳細は「蘭奢待>信長」の項参照。

  • この茶会記は「天王寺屋会記 紙背文書」にも登場する。

    一、御茶過候て、宗久・宗易・宗及両三人書院にて、
     千鳥の香炉・ひしの盆・香合、拝見
     させられ候、
    一、拙者、まいり候ハぬ以前
     宗易・宗左両人ばかり御茶被下候、
     其外之衆ハ、御茶湯を見たる斗にて候、
     御振舞ハ湯漬、次間にて、各へ被下
     たるよし、
    一、人数 宗陽 宗悦(塩屋) 宗久(今井) 宗左(茜屋) 宗二(山上
     隆仙(松江) 隆世(高三) 宗易 恒琢(油屋
     以上九人、次第不同也、

  • いっぽう「雍州府志」によれば、信長上洛の際の氏真よりの献上であり、もとは宗祇法師珍蔵品であるという。

    織田信長公入洛ノ時、寓斯ノ院ノ列侯達官及ヒ地下ノ良賤来ニ謁ヲ執時ニ、今川氏真亦来リ見エ千鳥ノ青磁香爐ヲ献ス、是宗祇法師ノ珍蔵ニ而、千鳥ノ名ハ古歌ノ之義ヲ取テ號ス者也

    この記述は「慈照院」に関するものであり、年月は不明である。また”宗祇法師珍蔵”は千鳥ではなく「宗祗香炉」のことではないかと思われるが詳細は不明。

  • 「中古日本治乱記」にも同様の記述がある。

    (天正三年)同三月ハ信長入洛シテ相國寺ニ居住セリ爰ニ駿州前ノ國主今川上總助義元ノ嫡子形部少輔氏真(略)頃日ハ京都ニ有リシカ信長ノ旅館相國寺ニ行キ向ヒ信長ニ面謁シ家ニ相傳ノ寶物宗祇カ千鳥ト號スル名物ノ香炉ヲ進セラル信長モ様々饗応ス

  • これらの記述は、天正3年(1575年)3月のことであるとするが、上に引用した宗及自会記及び天王寺屋会記紙背文書の記述(天正2年3月)を確かなものであるとするならば、それより以前に入手していたことから矛盾が生まれる。
    氏真は、この天正3年(1575年)の1月~9月頃まで上洛の旅に出ており、道中で詠んだ歌を収めた「今川氏真詠草」により足取りが追える。3月16日には相國寺で信長に拝謁し、20日には蹴鞠を披露している。
  • さらに「大湊文書」によると、天正元年(1573年)10月北伊勢攻略を終わった信長は伊勢大湊の商人角屋(かどや)七郎次郎に対して、七郎次郎が今川氏真から預かった茶道具を買い上げるべく進上するように命じている。しかし角屋では、くだんの茶道具はすでに昨秋氏真に返上していること、さらに七郎次郎は浜松におり不在であると返答している。

    尚以、道具之事、氏實(今川氏真)被預候ハヽ、隋其以代物可被召ニ候、内々其筋目有之事候、若非分なる儀にて其方ニ候ハヽ、又隋其、何之道ニも無理ニ可被召置にてハ無之候、有様可被申候、此外不申事、
    急度申候、仍氏實(氏真)茶湯道具、當所在之事必定旨申ニ付て、津掃(津田掃部助一安、織田忠寛とも)被遣候、有様ニ被申不被進付てハ、可爲曲事由御意ニ候、具掃部可被申候、恐々謹言、
                   塙九郎左衛門尉
         十月廿五日        直政(花押)
           大湊中

    角屋七郎次郎許へ御尋物之儀申付候處、彼御預ヶ物之儀、去秋中氏實(氏真)様ニ送申、其上七郎二郎儀も、此一儀付、十日以前ニ濱松へ罷下候由、親之七郎左衛門尉申事候、并濱松より御道具下候へ由之書状、爲御被見懸御目候、塙九郎左衛門尉殿へも、御報可申上候へ共、此之趣可預御心得候、以上、
       十一月五日         老分
          津田掃部助殿
          鳥屋尾石見守殿(鳥屋尾満栄

    この氏真が大湊商人に預けていた茶道具の中に千鳥香炉が含まれるかどうかは定かではない。氏真は永禄12年(1569年)に掛川城を追われた後、正室早川殿の実家である北条氏を頼るが、元亀2年(1571年)に北条氏康が没すると、後を継いだ北条氏政が外交方針を転換、一転して信玄と和睦してしまう(甲相一和)。このため氏真は北条氏の元を離れて徳川家康を頼っている。この時に大湊の商人に一部を預けたものと思われる。
     「七郎次郎」は角屋代々の名乗りで、この七郎次郎は初代秀持だと思われる。慶長19年(1614年)73歳で没。
  • 結局、諸説あり判然としないが、遅くとも天正2年(1574年)までに献上していたことは間違いないと思われる。信長公記で記すように、天正3年(1575年)3月以前(恐らく天正2年初め頃)に献上されたものの内、千鳥は留め置き、宗祗香炉のみを返却したという話が誤って伝わったものと考えれば矛盾はなくなる。
    1. 元亀2年(1571年):甲相一和成り、氏真は北条氏の元を離れ家康を頼る。
    2. 天正元年(1573年):信長北伊勢攻略、大湊商人に氏真茶道具召し上げを命ず。
      〔買上要求:大湊文書〕
    3. 天正2年(1574年):信長、従三位参議に叙任され、正親町天皇に「蘭奢待の截り取り」を奏請し勅命で了承される。信長は東大寺へ赴き蘭奢待を截り取り、のち相國寺で堺衆に振る舞っている。
      〔利用記録:宗及自会記、天王寺屋会記紙背文書〕
    4. 天正3年(1574年):氏真上洛の旅。信長、相國寺で氏真を謁見、数日後蹴鞠の会を催す。
      〔献上説:信長公記、雍州府志、中古日本治乱記など〕
  • 信長は本能寺の変の前日に催したとされる茶会で、この千鳥の香炉を含む目録を宗叱に宛てて送っている。

    一、千鳥かうろ

 秀吉

  • 信長の死後、千鳥の香炉は秀吉に受け継がれた。
  • 天正14年(1586年)12月16日、利休の茶会に招かれたときに使用されている。

    千鳥香炉・布袋香合置合、御前ニテ東大寺(蘭奢待)一柱タキテ 上様キヽナサレ、御相伴ニモ玉ハリ候

  • 天正15年(1587年)10月、秀吉は北野大茶会にて「千鳥の香炉」を使っている。
    • 内閣文庫本など
  • 一説に、大盗賊石川五右衛門が秀吉の寝所に忍び込んだ際、香炉の千鳥が鳴いたために捕まったという。

 家康→尾張徳川家

  • その後、家康へと伝わったという。
    しかし秀吉が所持した「千鳥の香炉」は、堀家に伝わったともされる。実際に「三冊名物集」(松平乗邑)では、青磁千鳥香炉を堀久太郎とする。しかし後述する通り、信州飯田藩に伝わった青磁千鳥香炉は寛永6年(1629年)5月に秀忠より拝領したものである。これが同物であるとすると、一度堀家から将軍家に献上し、再拝領したということになる。
  • 家康の死後に駿府御分物として尾張義直へと伝わる。

    一、せいしの香炉 壱

  • 以後、尾張徳川家代々に伝わる。

    ちどり青地 尾張様
    (玩貨名物記)

    紹鴎所持一、千鳥靑礠 尾張殿
    古今名物類聚




 別の千鳥香炉

  • なお、千鳥香炉の名前は形状によるものであるため、同様の名称を持つ香炉が他にもあったと思われる。

 堀家

  • 堀家伝来の千鳥の香炉が書籍に登場する。

    高サ 二寸一分
    胴  二寸九分 口ニテ三寸分半裾ニテ二寸七分九厘
    口廣サ指渡 二寸三分 口寄ル所 四分
     口ニ繕ヒ五所少々ッ、有外ニ疵なし焦燥ッヽすれ見へ申し候
    蓋  象牙 細キ巢
    袋  花色地唐花金襴大紋、緒紫
    箱  上白桐 内黑塗 内梨子地かけご
     書付 青蓮院御門跡
     堀大和守所持 寛保元酉十二月二十四日借覧云々
    右千鳥の香炉ニ添候盆
    此盆拝領已後添候由
    一堆朱曲輪五葉 張成作 底膨張成造ト有
     大サ指渡七寸四分

  • 別物であることを示すため上記尾張徳川家伝来品と列挙し、堀家伝来品には「※」印を付ける。

    聞香爐
    ちどり青地 尾張様
    千鳥青地 堀美作殿 ※
    (玩貨名物記)

  • 古今名物類聚にも別のものとして記されている。

    聞香爐
    紹鴎所持一、千鳥靑礠 尾張殿
    一、千鳥靑礠 堀美作守 ※
    古今名物類聚

  • 徳川実紀に千鳥の香炉が登場するが、これは後者の堀美作守所持のものであることがわかる。

    寛永六年五月
    十三日堀美作守親良に大御所より干鳥香爐を給ふ。(貞享書上)
    (徳川実紀)

    六年五月十三日台徳院殿より千鳥の香爐を賜ふ
    (寛政重脩諸家譜)

    堀親良は堀秀政の次男で、信濃飯田藩堀家初代。兄は堀秀治。
     同族の堀直政(奥田直政)と不和になって対立し隠居。堀宗家は堀直政が死ぬと慶長15年(1610年)に家老同士のお家騒動が起こり改易されるが、堀親良は連座を受けることはなく、信濃飯田藩は幾度か減封されながらも明治維新を迎えた。

  • こちらの千鳥香炉の判明している来歴は、大御所秀忠から堀美作守親良ということになる。
  • 昭和初期、加藤正治が所持していたという。
  • この堀美作守親良の長男・堀親昌が寛文12年(1672年)に信州飯田藩に転封され、明治維新まで続いた。
    • 長野県飯田には「堀家に過ぎたるものの久太郎、千鳥の香炉、島地楽叟」という狂歌が伝わっていたという。※久太郎は、親良の父である名人久太郎こと堀秀政のこと。ただし香炉は「こうろう」と読む
      島地楽叟とは堀家飯田藩の家老。飯田藩士島地宥左衛門の子。幼名衡平、通称惣助。諱は保定。号、楽叟、蓋松堂。
       この楽叟には娘が3人おり、三女菊子は安東辰武(安東三喜治)に嫁いだ(後妻)。この菊子の子・直平は、のち飯田藩の柳田家の為慶の養子となった。この直平四女の孝と結婚して養子となったのが、民俗学者柳田国男(実父は兵庫県の松岡操)である。そして菊子の三男が安東貞美(柳田の義理の叔父)であり、後に陸軍軍人となり陸軍大将、男爵となった。
  • その後は不明。

 仙石家

青磁千鳥香炉
中国龍泉窯
高さ6.4cm、最大径9.0cm
明治5年(1872)、仙石政固より献上
三の丸尚蔵館所蔵

  • 明治5年(1872年)4月5日に、但馬出石藩の第7代藩主であった仙石久利からも千鳥の香炉が献上されている。※高松松平家より献上された翌年に献上
  • それによれば、仙石秀久が伏見城の宿直をしていた時に賊が闖入しこれを捕らえたため、褒美として手ずから千鳥の香炉を拝領したという。
  • のち上野の国立博物館で所蔵していた。
  • 一説に仙石秀久伝来の千鳥の香炉は、下記高松松平家に伝わったという。ではこの香炉は何なのかについて、献上の際に仙石家が述べた物がある。

    臣久利(仙石久利、但馬出雲藩主7代)、政固誠恐誠惶頓首謹言す、祖先秀久豊臣秀吉に仕え勇名を以て一時に鳴れり、一夜伏見城に宿直せしに、賊あり臥内に闖入し將に秀吉を狙はんとす、(略、要するに秀吉の千鳥香炉の話)

  • ただしこの文書を見る限り本物を証明することについては記述しておらず、よくわからなくなってしまっている。言えることは、この両者が別物でありそれぞれ存在すること、また京博開催時にお貸出しされた高松松平家由来のものにはヒビが認められるということである。
    この両者を検索すると出てくる、両者を模写した図があるが、それぞれは、高松松平家蔵品:「骨董雑誌」第2偏 第2號(歌川國松模写)、仙石家蔵品:「新聞雑誌」 第三十九號に掲載されたものが初出と思われる。

 高松松平家

  • 水戸藩の御連枝である讃岐高松藩に伝来した千鳥。
  • これは一説には、元は仙石秀久所蔵品が秀吉の怒りを買った際に香炉はそのまま置き去りとなり、その後尾藤甚右衛門(尾藤知宣)を経て佐々成政、生駒家(一正・正俊・高俊)を経て、高松藩松平家に伝えられたという。※相当突飛もない話に見える
  • 高松松平家では、襲封の際に、この千鳥の香炉を床の間に飾ったという。また平時は火事を恐れて江戸藩邸の下屋敷に置いたという。
    また寛政元年(1789年)2月の火災で小川町の上屋敷が焼けた際には、仙石伯耆守(仙石家の分家、旗本)より藩邸出入りの御城坊主に対して、高松侯の本邸が焼けたが、千鳥の香炉は無事だったかという問い合わせがあったという。
     天明9年=寛政元年(1789年)の火災というのは不明。正月の火災のことか?小川町の上屋敷とは、小石川門内の上屋敷を指していると思われる(現在飯田橋2丁目~3丁目。旧JR貨物 飯田町駅跡地のアイガーデンエアとして再開発されたエリア一帯)。
  • 明治4年(1871年)11月13日、松平頼聰が先祖伝来の名器として「千鳥の香炉」を献上している。※仙石家の献上は翌年4月
  • のち明治30年(1897年)5月1日に京都博物館が開館した際に、この高松松平家献上の千鳥の香炉が貸し下げられ展示された。

 さらに他の千鳥香炉

  • 千利休が連歌師宗祇から千貫で求めたものを、妻である千宗恩が「足が一分高うて格好悪しし、きり給え」といったのに対して利休も同意し、玉屋を呼んできらせたという逸話がある。

    利休ハ過分の采地拝領して、家まづしからさるるへ、一とせ千鳥の香爐宗祇所持千貫に求てやゝ時うつる程、疊に置てみけるを、休か妻宗恩、われにもミせ給へとて、しはし見て、足が一分高て恰合惡し、截給へといふ、休、われも先程りよさおもふなり、玉屋をよへとて、ついに一分きる也、此宗恩ハ、物數寄すくれて短檠にむかしハ取手の穴なかりしを、はしめて明させたる人なり、

    この宗祇も千鳥の香炉を持っており、かつて信長に献上されたが信長はそれを返却してしまったとも言う。それが後に千利休の所持となった。

  • また利休が所持していた時に、細川幽斎と蒲生氏郷を招いた茶会で、氏郷が千鳥の香炉を是非とも拝見したいと所望する。利休は黙って千鳥を持ってくると、灰を捨てごろごろと転がして見せたため、氏郷は声を発することもできず固まってしまう。幽斎が「清見潟の心」であると利休の心を読み解くと、利休は大いに機嫌を直したという逸話などがある。※この逸話は幽斎(あるいは三斎)所持の千鳥として伝えられることがあるが、そうではない。

    ある時、蒲生飛騨殿・長岡幽斎兩人、利休所にて茶湯過て後、蒲生殿、千とりの香爐所望あり、休無興のていにて香爐をとり出し、灰を打あけ、ころはし出す、幽翁、清見潟の歌の心にやと御申候へは、休、氣色なをり、いかにもさやうに候うとの返事なり、
    順徳院御百首の中に、
     清見かた雲もまよハぬ浪のうへに月のくまなっるむら千とり哉
    このこゝろハ、けふの茶湯おもしろく仕舞たるに、なんそや無用の所望かなとおもハるゝより、村千鳥を香爐に比したるなるへし、すへて何事も、興の過たるハあしし、ことたらぬ所に風流餘りある理、古き書にも見え侍る、

    「清見潟 雲も(まが)わぬ 浪の上に 月の(くま)なる 群千鳥かな」という順徳院の御製に詠まれた心であるという指摘である。月夜に一片の雲もなく冴え冴えと晴れ渡った名勝清見潟に、月の影のごとく千鳥の群れが飛び交っているという情景を詠んでおり、この群千鳥を景色には邪魔であると解釈した上で、今日の茶の湯が満足であったのにも関わらず無用な所望の強引さによりそれが台無しになったとして暗に氏郷を非難している。
     詠われている清見潟は、古来東海道の要所の一つであった清見関の側にあった名勝で、のち清見寺が建立された(現在の東海道本線興津駅の西南方向)。戦国時代には戦乱で荒れるが、今川義元が太原雪斎に再興させて京都の公家を招いて饗応し、山科言継や里村紹巴などの紀行文にも登場する。
     なおこれに似た逸話で、持ち主を細川三斎(忠興)、所望した人物は同様に蒲生氏郷とした上で、氏郷が里村紹巴に謎解きをされるというパターンのものも存在する。(細川三斎茶湯之書)


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