三種の神器


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 三種の神器(さんしゅのじんぎ)

皇位継承の印で、八咫鏡草薙剣八尺瓊勾玉をさす
みくさのかむだから、さんしゅのしんき
御由緒物

Table of Contents

 概要

  • 日本神話において、天孫降臨の時に瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)天照大神(アマテラスオオミカミ)から授けられたという鏡・玉・剣のこと。
八咫鏡(やたのかがみ)
天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、石凝姥命が作ったという鏡。
八咫鏡
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
大きな玉で作った勾玉。岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。
八尺瓊勾玉
草那芸之大刀(くさなぎのたち)
草薙剣(くさなぎのつるぎ)のこと。須佐之男命が出雲簸川上で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた剣。
草薙剣

 神器

是に、群臣、大きに喜びて、即日に、天皇の璽付(みしるし)を捧げて、再拝みてうえる

大伴金村大連、乃ち跪きて天子の(みかがみ)(みはかし)璽符(みしるし)を上りてまつる

群臣、奏して、(みはかし)(みかがみ)を武小広国押す盾尊に上りて、即天皇之位さしむ

大臣及び郡卿、共に天皇の璽印(みしるし)を以て、田村皇子に奉る

天豊財重日足姫天皇、璽綬(みしるし)を授けたまひて、位を禅りたまふ

物部麿朝臣大盾を樹て、神祇伯(じんぎのかみ)中臣大嶋朝臣天神の寿詞(よごと)を読み、(おわ)りて忌部宿禰色夫知神璽の剣鏡を皇后に奉上り、皇后天皇の位に即く
(持統天皇四年(690年)正月条)

最期の持統天皇四年(690年)正月条によれば持統天皇即位時に臣下の忌部氏が剣と鏡の二種を献上したとする。

 事件

 平家都落ち

  • 寿永2年(1183年)平家都落ちの際に持ちだされる。

    平宗盛、天皇、建礼門院を奉じ、神器を携へ、摂政基通及び平氏の一族を率ゐて、京都を出奔し、西海に赴く、摂政基通、途より帰京し、平頼盛も亦京に留る、是日、行家木幡山に、義仲勢多に次す、

  • 元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いで安徳帝と共に赤間関(関門海峡)に沈んだが、鏡と勾玉は無事だったという。
    結果的に三種の神器が持ち出されて無かった時期は、平氏が都落ちを行った寿永2年(1183年)6月25日(後白河の平氏追討宣旨は28日)~元暦2年(1185年)=寿永4年(1185年)3月24日に壇ノ浦合戦の決着が付き、京都に戻った4月25日頃までの間ということになる。この間、寿永2年(1183年)8月20日に後鳥羽天皇が践祚しており、正史上始めて2人の天皇が擁立していたことになる。
 後三条─┬白河──堀河──鳥羽─┬崇徳──重仁親王
     │           │
     ├実仁親王       ├後白河─┬二条──六条
     │           │    │
     └輔仁親王─源有仁   └近衛  ├以仁王
                      │
                      └高倉─┬安徳
                          │                【大覚寺統】
                          ├守貞親王──後堀河──四条  ┌亀山──後宇多
                          │               │
                          └後鳥羽──┬土御門──後嵯峨─┤
                                │         │【持明院統】
                                └順徳───仲恭  └後深草─伏見

 後鳥羽天皇

  • この時に4歳であった高倉天皇の第四皇子(尊成親王、後鳥羽天皇)は、寿永2年(1183年)8月20日三種の神器が無いまま太上天皇である後白河法皇の院宣を根拠に即位(践祚)する。

    法皇、公卿を院に会して、神鏡剣璽及び践祚の事を議せしむ、

    後鳥羽天皇、法皇の詔に依りて、閑院に践祚あらせらる、

  • 元暦元年(1184年)7月28日の即位式、建久元年(1190年)1月3日の元服の儀も、神器(神剣草薙剣)が揃わないまま行われている。後鳥羽天皇の元服の儀については昼の御座の御剣(清涼殿御劔)で代用している。

    行幸可被用晝御座劒歟事、以短慮輙雖難計申、寶劒紛失之後文治有沙汰以彼御劒被擬用了、𡧧以彼之先規、被資今之准的乎、

    不備剣璽践天子之位、異城雖有例

    法皇、神器の帰座せざるに依り、後鳥羽天皇の行幸に、昼御座の御剣を具するの可否を、右大臣兼実に諮はしめ給ふ、

  • さらに建久9年(1198年)正月11日に行われた土御門天皇の即位の礼も同様に昼の御座の御剣で代用した。

    御劔者神代三劔、其一也、子細雖多不能注スルニ、其後爲ニテ寶物傳來セリ、而ルニ壽永入海紛失之後、院御時以後廿餘年、被用清涼殿御劔仍以爾爲セリ
    (禁秘御抄)

  • このため、昼の御座の御剣で代用していた20数年の間、通常「剣・璽」の順である所、神璽を先とし御剣を次としていた。

    若可被用晝御座劒者、劒璽前後如何、年來所被用之神璽之内侍在座、空手内侍在後、是寶劒不歸在之間、唯以神璽爲御護、而在後之條無便𡧧之故也、

 順徳天皇

  • さらに承元4年(1210年)の順徳天皇践祚に際して、すでに上皇になっていた後鳥羽天皇は、奇しくも三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなすこととしている。

    ルニ承元譲位時、有夢想自伊勢進タテマツリシ已來、又准寶劔以劔爲先也、此劔普通蒔繪也、
    (禁秘御抄)

 元弘の乱

  • 元弘元年(1331年)8月、倒幕の企てが発覚した後醍醐天皇は南山城の笠置山に立て籠もったため、9月20日に19歳の光厳天皇が即位している。
    後嵯峨─┬宗尊親王(鎌倉6)──惟康親王(鎌倉7)
        │
        │
        │【持明院統】       【北朝】    (伏見宮) (伏見宮) ┌貞常親王(伏見宮家)
        ├後深草─┬伏見─┬後伏見─┬光厳─┬崇光──栄仁親王──貞成親王─┴後花園
        │    │   │    └光明 └後光厳──後円融──後小松──称光
        │    │   └花園─直人親王
        │    │
        │    └久明親王(鎌倉8)──守邦親王(鎌倉9)
        │
        │
        │【大覚寺統】
        └亀山──後宇多─┬後二条──邦良親王
                 │
                 │【南朝】
                 └後醍醐──後村上─┬長慶
                           ├後亀山
                           └惟成親王(護聖院宮家)
    

    其年元弘元年八月二十二日、東使兩人三千餘騎ニテ上洛スト聞エシカバ(略)兎角ノ御思案ニ及候ハヾ、夜モ深候ナン、早御忍候ヘトテ、御車ヲ差寄、三種ノ神器ヲ乗奉リ、下簾ヨリ出絹ヲ出シテ女房車ノ體ニ見セ、主上ヲ扶乗セ進ラセテ、陽明門ヨリナシ奉ル(略)南都ノ衆徒少々召シ具セラレテ、笠置ノ石室ヘ臨幸ナル、

    元弘元年九月廿日丁亥、践祚、(略)劔璽使、舊主後醍醐御随身之間不及沙汰、今年十月五日、自六波羅被渡土御門東洞院内裏、
    頭書、當日酉刻、儲皇出御六波羅、行啓土御門殿、子刻被下日時於左大臣藤原基嗣次被仰宣命趣、太上天皇詔、壽永例也、不被載關白事、新主出御、關白候午前、如元之由有御勅、被仰藏人、又□條□□□□内侍所渡御、

  • 10月6日に後醍醐天皇が側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられると剣璽は戻された。

    元弘元年十月六日、今日劔璽自六波羅亭可有渡御禁中、可參向之由蒙催間、未刻許、先參仙洞後伏見祇候、行事辯房光、奉行職事定親等同祇候、酉半刻兩人相伴參向六波羅南方、(略)隆蔭尋武士云劔璽有御座于何處哉、御座于此簾中云々、(略)先劔賢繼朝臣役之次璽季隆役之劔櫃長不入辛、櫃四寸餘出、可取出歟之由人人稱之、然乍櫃納之條、已先例也、聊餘出之條、有何事哉之由申了、劔櫃上置璽櫃也、省掌如元覆蓋舁之兩將下地、隆蔭非可供奉之間、馳車參儲禁裏、執柄令候朝餉給、漸々近付給歟之由申入、被仰云、於門外可申事由、文治見俊經卿記云云仍可存其旨之由、差出納親景仰定親了、亥刻許、已令至門前云々、主上御引直衣出御中門廊、密々御見物、執柄被候御供、隆蔭同祇候、(略)自檜物櫃取出劔持之、季隆同取出璽持之、經堂上奉入御殿、兼友供莚道、劔前、璽後、隆蔭、親名、定親候御供、内侍二人理髪候御帳左右、受劔璽入内、兩將退出、

 南朝による強奪

  • 正平6年(1351年)の正平一統の後、南朝が一時京都を奪還して北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致する際に、神器も接収している。

    先帝○後醍醐都ヲ出サセ給テ、同十二月○延元元年ニ三種神器ヲ奉具足、吉野山ヘ入セ給フ、

    後嵯峨─┬宗尊親王(鎌倉6)──惟康親王(鎌倉7)
        │
        │
        │【持明院統】       【北朝】    (伏見宮) (伏見宮) ┌貞常親王(伏見宮家)
        ├後深草─┬伏見─┬後伏見─┬光厳─┬崇光──栄仁親王──貞成親王─┴後花園
        │    │   │    └光明 └後光厳──後円融──後小松──称光
        │    │   └花園─直人親王
        │    │
        │    └久明親王(鎌倉8)──守邦親王(鎌倉9)
        │
        │
        │【大覚寺統】
        └亀山──後宇多─┬後二条──邦良親王
                 │
                 │【南朝】
                 └後醍醐──後村上─┬長慶
                           ├後亀山
                           └惟成親王(護聖院宮家)
    
  • このため、北朝の天皇のうち後半の後光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇の3天皇は後鳥羽天皇の先例にならい神器無しで即位している。この際に神器なしの新天皇即位に躊躇する公家に対して、元関白の二条良基は「遥かに天照大御神を拝して神鏡に擬している。尊氏・義詮が剣(草薙剣)となり、不肖良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったという話が伝わる。

    正平7年(1352年):八月丁巳(十七)皇子彌仁(弥仁親王=後光厳天皇)自持明院殿、移土御門内裏、先元服於小御所、而入寝殿、行践祚之禮。無親王之宣、無立坊之事、無譲位之宣命、不帯三種神器而登極、未曾有例也、是日、從一位藤良基復爲關曰、
     傳稱公卿依義詮推擧、議践祚之事、然以無三種神器、故擬難不止藤良基曰、天照大神可以擬神鏡、而以尊氏、義詮換寳劍、如神璽、則良基雖不肖准之、何疑之有、由是議決

    後鳥羽院に似ているが後鳥羽天皇の践祚時には後白河の院宣があった(さらに後鳥羽の元服時には草薙剣を代用しつつ三種の神器が揃っていた)。このため、広義門院(西園寺寧子)に対して治天の君の代理をするよう義詮や良基が要請するがこれを断る。しかし佐々木道誉の意を受けた勧修寺経顕の説得により、広義門院も渋々引き受けることとなった。
     院宣すらないまま即位した後光厳はこのコンプレックスを撥ね返すべく親政(及び院政)に力を入れるが、春日神木入洛を受けて廃朝状態へと追い込まれ、失意のうちに崩御した。宝算37。世間では春日明神の神罰と噂されたという。

  • 南朝保有の神器は、1392年(元中9年/明徳3年)に足利義満の斡旋による南北朝合一の際に、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に渡った。

    明徳三年閏十月二日、南朝後亀山御入洛、着御于大覺寺、三種神器御随身、同五日三種神器被渡入内裏、上卿日野前大納言資教卿、参議平宰相知輔朝臣、三ヶ日御神楽等被行之、

 禁闕の変

  • 室町時代、後花園天皇の嘉吉3年(1443年)に、南朝の遺臣が御所へ乱入し神器を奪う「禁闕の変」が起こり、剣と勾玉が後南朝に持ち去られたが、剣は翌日に早くも発見され、玉はその後長禄2年(1458年)に奪還された。

    嘉吉三年九月廿三日、夜半許、惡當百餘人亂入禁中(略)放火鳳闕悉焼亡、典侍取劔璽欲出之處、惡當奪取之云云

    嘉吉三年九月二十三日ノ夜、凶賊内裏ニ亂入時、内侍處ノ御幸櫃ハ、東門ノ役人佐々木ノ黑田取出奉ル、劔璽ハ山徒奪取テ山上ニノボリ、山門ヨリ牒送シテ云、南方ノ宮ヲ取立畢ルベシト云云、(略)山徒ノ奪取奉ル二器ノ中、寶劔ハ清水寺ノ傍ニ捨置シヲ、心月坊トイフ僧ヒロヒテ内裏ニ進ス、恩賞ニ預リ侍ル、

    長禄二年八月廿八日癸未、近日自南山神璽歸洛事治定、爰可被縅改間、裏衣已下、山科中納言顕言爲内藏寮寮務調進之、

    ─後花園──後土御門──後柏原──後奈良──正親町──誠仁親王──┬後陽成
                                     ├良恕法親王
                                     └智仁親王(八条宮)
    

 近代以降の神器

 明治時代

  • 明治時代には、南北両朝の皇統の正統性をめぐる「南北朝正閏論」と呼ばれる論争が起こるが、最終的には明治天皇が、三種の神器保有を根拠に南朝を正統と決定する。

 即位式

  • 明治天皇の即位式においても、剣璽が引き継がれている。

     卽位式
    内侍二人持御劒璽、相並前行、御座定、置劒璽於御座左邊、

 剣璽の間(けんじのま)

  • 現代において草薙剣熱田神宮に、八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮(内宮)に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、それぞれ神体として奉斎されている。
  • 八尺瓊勾玉草薙剣の形代とともに皇居・吹上御所の「剣璽の間」に安置されている。御所(皇居)の天皇の寝室の隣に土壁に囲まれた塗り籠めの「剣璽の間」があり、そこに神剣(天叢雲剣の形代)と神璽(八尺瓊勾玉の形代)が安置されている。
  • 神鏡(八咫鏡の形代)は宮中三殿の賢所に神体として唐櫃に納められて安置されている。

 剣璽動座

  • 戦前は天皇が一泊以上の旅行のため皇居(宮城)を離れる時に、侍従が神剣と勾玉を捧げ持ち随行した(剣璽動座)が、第二次世界大戦後は警備上の都合で取りやめられた。天皇の即位後の神宮参拝、式年遷宮後の参拝の際には携行されている。

 形代(かたしろ)

  • ここまで見てくると、三種の神器といいつつ実体があるのは八尺瓊勾玉だけであって、八咫鏡の実体は伊勢神宮内宮に、また草薙剣については実体は熱田神宮にあることがわかる。
  • では皇居にあるのは何かというとそれは神霊の拠り所=依代(よりしろ)として造られた形代(かたしろ)と呼ばれるものである。現代人の一般的な感覚でいうとレプリカ(模造品)ではないかと思ってしまうがそうではなく、きちんと霊をこめた御神体であり、その意味においては皇居にあるものも本物である。
    八尺瓊勾玉については形代がない。

 即位と剣璽等承継

 御由緒物

  • 第二次大戦後の新憲法下において、三種の神器は皇室経済法により「皇位とともに伝わるべき由緒ある物(御由緒物)」と定められており、相続税法で非課税の対象となっている。
  • 三種の神器のうち、「剣璽等承継の儀」にて継承されるのは剣と璽(勾玉)であり、残る神器の鏡は伊勢神宮にあり皇居・宮中三殿に分身が置かれている。

 昭和64年(1989年)

  • 皇室典範第二十四条に定める「即位の礼」として、「剣璽等承継の儀」、「即位後朝見の儀」、「即位礼正殿の儀」、「祝賀御列の儀」及び「饗宴の儀」の五儀式を行うのが相当であると決定され、それぞれ挙行された。
  • 新天皇は、昭和64年(1989年)1月7日に宮殿松の間での「剣璽等承継の儀」にて神器を継承した。
  • 「剣璽等承継の儀」は、国事行為たる儀式として剣・璽及び国璽・御璽を侍従長が新天皇の前にある机に置く短い儀式が皇位継承後まもなく10時01分より宮殿の正殿松の間で行われ、テレビ中継された。
  • この後、1月9日には即位後初めて公式に三権の長をはじめ国民を代表する人々に会われる即位後朝見の儀が行われた。さらに翌平成2年11月12日、即位を公に宣明するとともに、その即位を内外の代表がことほぐ即位礼正殿の儀に続き、祝賀御列の儀および饗宴の儀が行われている。
    饗宴の儀は12日~15日までの4日間。

 平成31年(2019年)

  • 平成31年(2019年)4月30日午後5時からの「退位礼正殿の儀」において、第125代天皇が剣と璽(勾玉)を式場に置く。

         退位礼正殿の儀の細目について
    午後4時 40分,参列者が宮殿の春秋の間に参集する。
    午後4時 45分,皇太子,皇太子妃,親王,親王妃,内親王及び女王が
    皇族休所に参集される。
    次に参列者が正殿松の間の所定の位置に列立する。
    式部官が誘導する。
    午後5時,天皇が皇后とともに正殿松の間にお出ましになる。
    式部官長及び宮内庁長官が前行し,侍従がそれぞれ剣,璽,国璽及び
    御璽を捧持し,皇太子,皇太子妃,親王,親王妃,内親王及び女王が
    供奉され,侍従長,侍従,女官長及び女官が随従する。
    次に侍従がそれぞれ剣,璽,国璽及び御璽を案上に置く。
    次に内閣総理大臣が御前に参進し,国民代表の辞を述べる。
    次に天皇のおことばがある。
    次に天皇が皇后とともに御退出になる。
    前行,供奉,随従は,お出ましのときと同じである。
    次に参列者が退出する。
    退位礼正殿の儀の細目について(平成31年4月19日宮内庁長官決定)

    退出されるときも、剣・璽・国璽及び御璽を捧持した侍従が天皇に前後して随従した。

  • 令和元年(2019年)5月1日午前0時の皇位継承と同時に、剣と璽、公務で使う天皇の印の御璽(ぎょじ)、国の印の国璽(こくじ)も新天皇に継承される。
  • 新天皇即位後の令和元年(2019年)5月1日午前10時半から「剣璽等承継の儀」が開かれた。

         剣璽等承継の儀の細目について
    午前10時15分,参列者が宮殿の千草の間及び千鳥の間に参集する。
    同時刻,皇嗣及び親王が皇族休所に参集される。
    次に参列者が正殿松の間の所定の位置に列立する。
    式部官が誘導する。
    午前10時30分,天皇が正殿松の間にお出ましになる。
    式部官長及び宮内庁長官が前行し,皇嗣及び親王が供奉され,
    侍従次長及び侍従が随従する。
    次に侍従がそれぞれ剣及び璽を捧持して正殿松の間に入る。
    式部副長及び侍従が前行し,侍従がそれぞれ国璽及び御璽を捧持し
    て後続する。
    次に侍従がそれぞれ剣及び璽を御前の案上に置く。
    次に侍従がそれぞれ国璽及び御璽を御前の案上に置く。
    次に天皇が御退出になる。
    式部官長及び宮内庁長官が前行し,侍従がそれぞれ剣及び璽を捧持
    し,皇嗣及び親王が供奉され,侍従次長及び侍従が随従する。
    次に侍従がそれぞれ国璽及び御璽を捧持して退出する。
    式部副長及び侍従が前行する。
    次に参列者が退出する。
    剣璽等承継の儀の細目について(令和元年5月1日宮内庁長官決定)

    まず新天皇が入室し、その後剣・璽・国璽及び御璽を捧持した侍従が入室。退室時には剣・璽・国璽及び御璽を捧持した侍従が新天皇に前後し随従した。

  • 上皇ご夫妻が仙洞御所へと移られるまでの間、皇居にある御所については一時的に「吹上仙洞御所」となり、新天皇ご夫妻が皇太子時代に住まわれた赤坂の東宮御所が「赤坂御所」となる。※すべての移転が終了すると、皇居が御所、赤坂の旧東宮御所が仙洞御所となる。
  • この間、剣璽についても、一度赤坂御用地内にある赤坂御所へと移された。
    新天皇は、5月1日10:30からの剣璽等承継の儀、11:12からの即位後朝見の儀に続いて0:07から行われた侍従長ら側近トップの認証式ののち、12:29に皇居正門より出発。赤坂御用地内の赤坂御所へと戻る御料車に、三種の神器のうちの剣と曲玉が、天皇陛下と同じ車に載せて運ばれた。
     5月8日の午前に行われた「期日奉告の儀」の際にも剣璽が赤坂御所より運ばれ、即位の礼と大嘗祭の期日を宮中三殿に報告される陛下に、剣璽を捧持した侍従が前後して儀式が行われた。

 参考

 関連項目


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