蜘蛛切藤四郎

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蜘蛛切藤四郎(くもきりまる)  

脇差
吉光
裏銘 亀王丸(蜘蛛切丸と伝承)
長さ32.6cm、反りなし 元幅1.9cm
愛知県指定の文化財
熱田神宮所蔵

由来  

  • 「張州雑志」(18世紀 尾張藩士内藤東甫)には、永禄3年(1560年)に織田信長が神宮へ奉納したとあり、また「古刀銘尽大全」に熱田神宮の宝劔「蜘切」とあるのがこの脇差だとされる。
  • なお「蜘蛛切丸と伝承」とされるが、高名な源氏の蜘蛛切(膝切・膝丸)とは別のもの。
    仮に膝丸と蜘蛛切が同一の刀としても太刀であるのに対して、この熱田神宮の亀王丸(蜘蛛切丸と伝承)は無反りであり、銃刀法区分では"脇差"となるが正確には"寸延び短刀"になると思われる。また鎌倉時代中期の藤四郎吉光作というのであれば、源満仲や源頼光の時代とは300年弱ほどずれている。
  • 昭和55年(1980年)に愛知県の文化財に指定。




一色家「蜘蛛切藤四郎」  

小刀(刺刀)
九寸五分

  • 鞍馬の多聞堂を再建した折の話、京都から通っていた大工が粟田口吉光に釘を作らせていたが、工事のある間木屑(こけら)を持ってくるので、護身用の九寸五分の刺刀(さすが)を作ってくれと頼む。
  • 木屑を三年運んだところでようやく出来上がり、それを腰に差して市原のあたりを通っていると、村雨が降ってきた。杉の木の下で雨宿りをしているとつい眠りに落ちてしまう。すると大きな蜘蛛が糸を垂らして大工を巻き上げにかかったが、腰の刺刀がひとりでに抜け出し、糸を切ってしまう。そんなことを繰り返しているところに一色家の家来が通りかかって、刺刀の霊力に驚き主君に報告すると、さっそく千疋で買い上げ「蜘蛛切藤四郎」と命名したという。
  • しかし、吉光の時代に一色家は創建されておらず、この話は吉野朝以降のものとされる。
    一色氏は、足利泰氏の七男で三河の吉良荘一色を本貫地として一色を名乗る。元徳2年(1330年)没。吉光は鎌倉時代中期の刀工

結城家「蜘蛛切吉光 

短刀
粟田口藤四郎

  • 康生(1455)のころ、丹後国丹波郷の領主であった結城越後入道道成所持の粟田口藤四郎の短刀。
    結城満藤という人物が足利義満の近臣として寵愛を受け、明徳2年(1391年)の明徳の乱ののち応永元年(1394年)に山城守護となっている。本姓は古山(ふるやま)氏。通称十郎。勘解由左衛門尉、越後守。応永3年(1396年)、伊勢守護であった仁木満長を策謀により追放、仁木満長がこれに反抗する意味で出家遁世すると、これが諸大名による結城満藤弾劾のきっかけとなっていく。結城満藤は応永8年(1401年)頃まで山城守護を務めるがその後は不明。
     この満範の孫である結城義貫は足利義教から疎まれ、永享12年(1440年)に幕命により暗殺された。
     「蜘蛛切吉光」を所持したという「結城越後入道道成」については不詳だが、このさらに15年後に丹波郷を領していた人物という。
     それよりさらに50年ほど下った延徳3年(1491年)に足利義視が没すると、足利義材と対立していた結城正広は義材の攻撃を受け出奔、丹波郷はその後、丹後一色氏の一族である一色政具の所領となる。明応6年(1497年)の足利義澄の御教書においても、一色政具の所領として丹波国丹波郷が記されている。
  • 中心に蜘蛛の姿を金象嵌していたという。
  • 銘「吉光」の光は、第一画の縦線が垂直で、第二画は”く”、第三画が”一”となっていた。

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