木村重成

木村重成(きむらしげなり)  

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将
正四位上・長門守

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生涯  

  • 木村常陸介重茲の子といわれている。
  • 母の宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれる。
  • 慶長4年(1599年)12月17日、豊臣姓を与えられる。
  • 豊臣家と徳川家康との関係が険悪になると、大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から追い出すのに一役買った。

大坂冬の陣  

  • 大坂冬の陣では、後藤基次とともに今福砦攻防戦を展開し、数に勝る徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めた。
  • 真田幸村の築いた真田丸の戦いにも参加する。
  • また、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞された。

 

  • 慶長20年(1615年)1月7日に大蔵卿局の姪の青柳(真野頼包の娘)を妻に迎えている。重成は戦場で散ることだけを考えていたため一旦は断ったが、頼包が冥土に一人で行かせるような娘ではないと言ったことに感じ入り妻に迎えた。
  • 夏の陣の八尾・若江の戦い前、重成は青柳と別れの盃を交わしたという。
  • 木村重成は、首を打たれた際に胃の中のものが逆流するのは武士の恥とし、前夜から固形物を絶っていた。さらに重成の妻は、討ち取られた時のことを考え、重成の兜に名香を焚き染めたという。

大坂夏の陣  

  • 慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣では、豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣する。
  • 八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には木村重成が展開し、徳川方の藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。
  • 藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると、敵の来襲を待ち構えた。この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めたが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴する。
  • 敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との激戦の末に戦死した。井伊家家臣の安藤重勝に討たれたとも、同家家臣庵原朝昌に討たれたが朝昌はその功を重勝に譲ったともいわれる。

木村長門守の刀剣  

道芝露 

  • 所持刀としては、「道芝露」が知られている。艸うらの露(くさうらのつゆ)ともいう。
  • 刃長二尺三寸一分。大磨上無銘だが吉岡一文字助吉とされる刀で、差表に「洛陽堀川住藤原国広上之」、裏に「道芝露 木村長門守」と金象嵌が入っていた。
  • 道芝露とは截断銘の一つで、草(道ばたに生えている芝草)の露は払えばすぐに落ちることから刀の切れ味を示したもの。

大波国俊 

  • 元は木村長門守重成の佩刀。
  • のち姉婿である猪飼野左馬之助に贈っている。
  • 元和元年(1615年)4月6日付けの手紙によれば、木村重成が13歳で元服した時、家康がその祝に本多忠勝に持たせたもので、無銘ながら来国俊とされていた。

逸話  

兜の香  

  • 首実検で家康のもとに運ばれた時に重成の頭髪から香の香りが漂った。このため、家康はこれぞ武士の心構えであると褒め称えたとされる。

系譜  

  • 重成の死後、妊娠していた青柳は、近江の親族によって匿われ男児を出産後に出家した。そして、重成の一周忌を終えると青柳は20歳で自害したという。
  • また、青柳の出産した男児は馬淵家の婿養子となり、馬淵源左衛門と名乗ったと伝えられている。
  • 姉婿の猪飼野左馬之助の子孫は、世を憚り「幕谷」と名を変え、道村に隠れ帰農した。「猪飼野」の名は大阪府大阪市平野川旧河道右岸一帯に残る。猪飼野に代々木村権右衛門を名乗る富豪がおり、同家では左馬之助の嫡男木村権右衛門重則(幼名左馬次郎)を家祖とする。大塩平八郎の乱に参加した木村司馬之助は、この木村権右衛門の分家であった。