安国寺肩衝

安国寺肩衝(あんこくじかたつき)  

大名物
漢作唐物
肩衝
五島美術館所蔵

  • 「安国寺肩衝」、「中山肩衝」、「有明の茶入」

来歴  

  • 「有明の茶入」は、はじめ細川幽斎が所持し、その子細川忠興(三斎)から安国寺恵瓊に譲られた。
  • 関ヶ原の後に家康に伝わり、津田小平治秀政を経て再び細川三斎の元へ伝わる。忠利の代になり手放し、庄内藩主酒井宮内大輔忠勝が金1800枚で購入し、忠勝死後に酒井忠当が幕府に献上し柳営御物となる。
  • 信州上田松平伊賀守に伝わる。大正に入ってから売立てに出し益田英作(益田紅艶。三井物産設立・初代社長である益田孝鈍翁の弟)が落札した。
  • 現在は五島美術館所蔵

「佐夜の中山」  

  • 細川忠興(三斎)が秀政の茶会に出た折に、一度は手放した「有明の茶入」と遭遇し、再び手に入れることになるのだが、その際に件(くだん)の西行の歌(命なりけり佐夜の中山)が登場し、三斎は黙ってこの茶入を持ち帰ってしまったという。後日金200枚を贈ることで正式に譲渡された。
  • それ故に「中山肩衝」と名づけたとも伝わる。しかし、この逸話は名物の短刀「小夜左文字」の逸話とかぶっている。飢饉の折に同時に手放されたためか、逸話が混同したものと思われる。
  • 肥後熊本藩主細川家の歴代家史である「綿考輯録」には、太閤秀吉から拝領したのだという逸話が載っている。

    康之帰候以後、忠興君閉門御赦免ニ而、御登城被成候得は、奥へ通り候へとの御意にて、各列座の中を御通り候ニ、何れもあやうく被存体也、太閤ハ奥の間に床を枕にして御座有けるか、三成か訟へ捧る処の一味連判を取出し、是ハ其方の判にてハなきかと被仰、忠興君如何ニも能似申たる判にて候へとも、筆くわく違候と御答被成候得は、左こそ有へき事なり近く寄れとて、懐の中に手を入レ御さくり候へ共、懐剣も無りけれハ、如何にもケ様ニ有へきと見つる事也、大たをれ者に一味し、ケ様の連判有之と云共、惣而十人の中五人も三人も謀判を加る事は可有也、忠興ハ先年明智叛反にさへ組せさりし事なれハ、此判は偽り成へし、たとひ一味とも以前の忠義に対しゆるす也、さそ此程ハ気積りたるへし、茶の湯して慰候へとて、有明といふ御茶入を被下候間、畏て御礼申上候、其時御側衆、扨も結構なる物を被為拝領候と御取合有けれハ、太閤夫よりも大事の物を遣したりと被仰候、忠興君暫く御思案被成、誠に此以前も時雨の御茶壺を拝領仕候と御申上候へは、いや夫にてハなし、一大事の命を遣したりと被仰候、扨御退出被成候ヘハ、御次の人々御命をさへ危く存候ニ、名物を御拝領ハ冥加に御叶被成候事と各御申候なり

  • 前段は文禄4年(1595年)の秀吉の甥である関白秀次事件の際、秀次からの借金や連判状への署名などから連座を疑われた細川三斎が、秀吉に呼ばれていることが書かれている。その後、誤解が解け、秀吉から「有明といふ御茶入」が下されたというのである。
  • つまり、これに従えば「細川幽斎(藤孝)~細川三斎~安国寺恵瓊~徳川家康~津田小平治秀政~細川三斎」という来歴は誤りで、秀次事件連座の疑いが晴れた際に太閤秀吉から拝領したものということになる。