八丁念仏団子刺し

八丁念仏団子刺し(はっちょうねんぶつだんござし)  

備前行家の作
二尺八寸程

  • 作者は、守光、行家の二説がある。
    1. 【守光】:永享7年(1435年)8月の銘。五分ほど磨上て刃長二尺六寸一分。維新後売りに出たため、今村長賀が岩崎弥之助男爵に買い取らせたという。
    2. 【行家】:刃長二尺七~八寸。備中片山一文字行家作。雑賀家が没落したため水戸家で買い上げたという。※以下は行家説に従う。
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由来  

  • あるときこの刀を持った侍が敵を切り付けたところ、手応えを感じたにもかかわらず斬られた僧は念仏を唱えながら何食わぬ顔で歩いていったという。
  • 不審に思った侍は、刀を杖代わりに地面につきつつ僧を追跡したところ、道端の石が刀に刺さり、まるで串に刺さった団子のようだったという。そしてその僧は、八丁(約870m)ほど念仏を唱えつつ歩いたところで真っ二つとなり絶命したという。
  • 信長を鉄砲隊で苦しめた雑賀衆の鈴木孫一の佩刀とも伝わる。

来歴  

鈴木孫一家  

  • 上記逸話は、紀州雑賀の鈴木重朝の話だという。
    雑賀孫市、あるいは鈴木孫一は、代々名乗り継がれたともいう。鈴木孫三郎重朝は、鈴木重秀の長男あるいは鈴木重意(左太夫)の息子ともいう。天正10年(1582年)の秀吉による紀州征伐で雑賀衆が滅亡すると、秀吉に1万石で召し抱えられている。天正18年(1590年)の小田原征伐では忍城攻め、朝鮮出兵では名護屋城在番を務める。関ヶ原の戦いでは西軍本体に属し、伏見城戦で鳥居元忠を討ち取っている。
  • 重朝はのち家康に拾われ、水戸の徳川頼房に付けられた。
    関ヶ原の戦いの後、重朝は浪人を経て伊達政宗に仕え、さらに慶長11年(1606年)には政宗の仲介により家康に3千石で召し抱えられ、のち水戸頼房に付けられている。水戸家でも3千石で家老格。なお水戸家には三河鈴木氏(井伊谷三人衆の一人)の流れをくむ鈴木重好が5千石で仕え、代々鈴木石見守として家老職となっているが、これとは別流である。
  • 子孫は代々鈴木孫一を名乗る。
  • 寛文8年(1668年)11月13日に孫一遺物という来国次(在銘、金百枚折り紙つき)の短刀を水戸藩主に献上している。※八丁念仏とは別の刀剣
    鈴木重朝の子鈴木重次には男子がなく、頼房の十一男重義(徳川光圀の異母弟)を養子としている。寛文4年(1664年)に父重次が死去し家督を継ぐが、寛文8年(1668年)10月没。重義の後は、鈴木重次の弟の孫、鈴木重春が継いでいる。来国次の献上はこの重春の代ということになる。重春以降は禄600石となるが、重臣として仕え明治維新まで続いた。
  • なお伏見城の戦いで討ち取った鳥居元忠の甲冑と刀剣は重朝が所持し、子の鈴木重次に伝わった。※八丁念仏とは別の刀剣
  • 鈴木重次は、ある時これらを鳥居元忠の息子、鳥居忠政(出羽国山形藩主)に贈るが、感謝しつつも「子々孫々貴家にて相伝え、祖先(重朝)の武勲を語りつがれるがよかろう」と、送り返してきたという。

    むかし忠政が父元忠を打たりし雑賀孫市重次は、其後水戸中納言家にぞ侍らひける。ある時、重次中だちをもて忠政が許へ云ひ送りけるは重次むかし元忠の御最期に参りあひ、其時の御物具を家に傳へ訖んぬ。先考の御形見に御覧ぜんために返し参らせたくこそ存ずれといふ、忠政大きに悦び、なからん父が形見、これに過べからず、給て一目見候ばやと答ふ、重次みづから携て彼館に向ふ、忠政門外に出迎て、重次を奥の居間へ請ず、亡父に再び對面の心地し侍るとて、涙を流し、ありし甲冑太刀押板の上にかきすゑて、是を拝す、斯て今日重次を饗せしやう、誠に善盡し美盡しけり。明日重次がもとに使者を立て、昨日の見参を禮謝す。また重次が御芳志に依て、父が最期に帯せし物具、再び見て侍る事、返す返すも悦び候ひぬ、忠政が家に傳へし、父が形見に見るべき者猶少からず。見苦うは候へども、此物具重次の御家に留て、御名誉と共に、御子孫に傳へられん事、弓矢取ての道に候、能き御遺誠にもや候べきとて、甲冑太刀刀悉く返しぬ

    鳥居元忠の四男鳥居忠勝が、のちに水戸藩士となり、代々鳥居瀬兵衛と称し700石で続いた。

  • 本刀「八丁念仏」は鈴木家に伝来する。

水戸徳川家  

  • 維新後に水戸徳川家が買い上げたというが関東大震災で焼失した。


  • 焼失とされてきたが、これも水戸徳川家で保存されていたようで、2016年7月に公開された「被災刀用桐箪笥 収納刀剣一覧」の下段、右引き出し一段目の一番奥に「八丁念佛」の文字が見える。これが本刀であるとされる。
  • 徳川ミュージアムの今日 刀剣箪笥の中からこの一振!|徳川ミュージアムのブログ

    本日は、先日ご紹介しました被災刀用桐箪笥の中から
    名前も由来のエピソードもインパクトのあるこの一振りを
    八丁念佛団子刺(はっちょうねんぶつだんござし)

    先に現存していたことが公開されていた「燭台切光忠」同様に、刀装具なしの抜身であり刀身は真っ黒に見える。焼けたからといって簡単に廃棄処分とせず、保管し続けておられる姿勢に心から頭の下がる思いである。




似た名前の刀  

寒念仏(かんねんぶつ)  

  • 京極家の名刀で、長光作という。
  • 京極備前守があるとき近臣に命じてこの刀で生物を試して参るべしと命じたところ、寒念仏を唱えて歩く業者がおり、それを斬り捨てたという。
    寒念仏とは、二十四節気の小寒の日から立春の前日(節分)までの「寒」の30日間に、僧侶が早朝山野に出て声高く念仏を唱えること。のちには俗人が鉦や鼓を叩いて念仏を唱えながら市中を練り歩いた。本刀の場合は後者を指している。

七丁念仏(ななちょうねんぶつ)  

  • 漫画「シグルイ」では、岩本虎眼(いわもとこがん)が安藤直次から預かった宝刀として「七丁念仏」という刀が登場する。
  • 備前物だが刀工は不明
  • 虎眼が死んだ後はさらに、「"虎殺"七丁念仏」と名前に付け加えられた。