寒念仏
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寒念仏(かんねんぶつ)
刀
長光作という
- 丹後国峰山藩の8代藩主、京極
高倍 の差料。
7代藩主京極高備の五男。文化5年(1808年)生まれ。長兄、次兄が早世、三兄と四兄が他家に養子に出ていたため、天保3年(1832年)11月20日、父の隠居に伴い家督を継いだ。同年12月従五位下備前守に叙任される。
丹後峰山藩は、元は京極高知が関ヶ原の戦いの戦功で得た丹後一国の領土の一部。初代京極高通は朽木宣綱の次男として生まれた。母は京極高吉の娘で、母方のおじである京極高知の婿養子となった。高知は自らの遺領を実子2人と高通に3分割して与え、高通には峰山地方の1万石を相続させた。のち宗家は改易(のち高家旗本)、田辺藩(舞鶴藩)の京極家も但馬豊岡へ転封となったため、丹後には峰山藩だけが残った。6代藩主京極高久は若年寄となっており、小説「鬼平犯科帳」において、鬼平こと長谷川平蔵の良き理解者として登場する人物である。
由来
8代京極高倍
- 京極高倍があるとき近臣に命じてこの刀で生物を試して参るべしと命じたところ、寒念仏を唱えて歩く業者がおり、それを斬り捨てたという。
京極備前殿失念の刀は、先祖買入られ候節、近習へ被申、生き物をためして参れと被申候に付、近習他出、夜中寒念拂を切り候處、寒念拂切られながら、咎もない物をむごい、是非主人へ祟ると申候由、其事聞へ、夫切りに右刀を仕廻置かれ差料に致さず、寒念拂の刀と號し置候處、備前殿拵られ。初めてさゝれ候、當日忽られ、御役をも引かれ候事に相成り候は、全く寒念拂の祟り奇妙なる事と沙汰仕候よし
寒念仏とは、二十四節気の小寒の日から立春の前日(節分)までの「寒」の30日間に、僧侶が早朝山野に出て声高く念仏を唱えること。のちには俗人が鉦や鼓を叩いて念仏を唱えながら市中を練り歩いた。本刀の場合は後者を指している。
- 切られた寒念仏は、罪もなき人を切るとは酷い、主人に祟るぞと言い、それが藩主に伝わったため、本刀は「寒念仏」と号されるもそのまま差料にもされなかった。
- しかしある時うっかりこれを差してしまい、結果的に早死することになってしまったために寒念仏の祟りであると取り沙汰されたという。
- 京極高倍は、在職1年あまりの翌年12月5日に26歳の若さで死去した。
9代京極高鎮
- 高倍に嗣子が無く、跡を弟の高鎮が継いだ。
- この京極高鎮も藩主に在職すること半年の翌天保5年(1834年)6月23日に江戸にて死去した。享年25。
10代京極高景
- 高鎮にも嗣子が無く、跡を養子の高景が継いでいる。
京極高景は肥前島原藩主松平忠馮の六男。なお松平忠馮の姉妹は讃岐多度津藩の4代藩主京極高賢の正室となっている。
また京極高備の娘が黒田直方継室のち山口弘致正室となっており、山口弘致の娘が京極高景の正室となっている。
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