津田遠江長光


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 津田遠江長光(つだとおとうみながみつ)

太刀
長光名物 津田遠江長光)
72.4cm
国宝
徳川美術館所蔵

  • 本阿弥家による宝永5年(1708年)付けの折紙がついている
  • 鋩子小模様に乱れ込み、尖り心に返る。中心は二寸五分ほどすりあげ。目釘孔3個、「長光」二字銘。
Table of Contents

 由来

  • 明智光秀の家老津田遠江守重久所持にちなむ。
  • 「海老背」と呼ばれていたとも言う。
    • 信長は、反りが特に高かったために「海老背(えびのせ)」と名付け秘蔵していたとするが、反りは七分であり、誤りとされる。
    • 一方前田家文書では、「長の字下えびの背の如く長くまがり故にえびせの號」ありしと伝える。つまり銘の字体の特徴によるとする。

 来歴

 信長

  • もと織田信長の佩刀。

    天正十年信長公生害の時、明智光秀安土へ往き、寶蔵を拔き器物とも取出し、諸徒へ爲取ける時、あをや長光海老背長光長の字下えびの背の如く長くまがり故にえびせの號有とぞ。二腰取出し何れにても好次第にとれとて、光秀出しければ、明智左馬はあをやをもらひ、津田與三郎は海老背をもらひて、外に貞宗の脇刺をもらひける。

    つまり、光秀が明智秀満と津田遠江守重久に対して、「青屋長光」と「海老背長光(津田遠江長光)」のいずれか望む方を取れといい、秀満は「青屋長光」を、また津田遠江守重久は「海老背長光」(と貞宗短刀)を拝領したという。

 津田遠江守重久

  • 本能寺の変の際に明智光秀が安土城より奪い、家老津田遠江守重久に渡った。
  • 以降は享保名物帳に詳細な記事がある。

    信長公之御物也。天正十年六月二日、於京都本能寺御生害、明智日向守安土ニ至、御物共横領シテ、家老三人之内右刀家老津田遠江守ヘ遣ス。遠江事、秀吉公命ヲ赦免被成候而、秀次公ヘ被付、御生害後浪人トナリ、利長卿ヘ来ル。一万石被下。嫡男ヲ勘兵衛ト云、伊織半平太之親也。二男ヲ源右衛門ト云、右刀遠江ヨリ利長卿ヘ上ル。松姫様御入輿之刻、乱光包三百枚之脇差ト一所ニ宰相殿ヨリ綱吉公ヘ上ル。其己後 尾張殿ヘ拝領

  • 山崎の合戦後に津田遠江守重久は赦され、秀次、次いで横山長知の誘いをもって前田利長に5500石で仕える。

 前田利長

  • 長光太刀は、遠江守重久、または遠江守重久次男の源右衛門から前田利長へ献上された。寛永4年(1627年)に本阿弥家に鑑定に出されており、それ以前に献上されたことになる。

    御家に有之遠江長光と云御腰物は、以の外に見事なる刀といへども、外様者は輙く難見。此因縁を聞くに、津田遠江より瑞龍公(前田利長)へ献ず。世には遺物の由をいえども、御代官勤めける引負の方に、此刀と眞壺とを上げたる也。世上沙汰を能きにして子孫は不浄、其儘に仕置と、孫の伊織語るとぞ。天正十年信長公生害の時、明智光秀安土へ往き、寶蔵を拔き器物とも取出し、諸徒へ爲取ける時、あをや長光、海老背長光長の字下えびの背の如く長くまがり故にえびせの號有とぞ。二腰取出し何れにても好次第にとれとて、光秀出しければ、明智左馬はあをやをもらひ、津田與三郎は海老背をもらひて、外に貞宗の脇刺をもらひける。方々徑めぐりて、當國へ來て後に、前に記す如く公へ上て今に遠江永光とて御物の内也。
    (重輯雑談)

    前年安土城寶蔵より分取仕候備前海老背長光刀、黄金二百枚代付有之品、微妙院様(前田利常)に指上候處、黄金十六枚拝領被仰付候。

 綱吉

  • 宝永5年(1708年)11月、本阿弥家に出され金子二百枚の折紙をつけさせている。

    備前国長光
    正真 長さ二尺三寸八分少磨上之 代金子二百枚
    宝永五年 霜月三日

  • 宝永5年(1708年)、加賀藩主前田吉徳(5代前田綱紀の子)の正室に、将軍綱吉の養女松姫(光現院、尾張中納言綱成の娘)として迎えた時に、11月晦日に前田綱紀よりこの「津田遠江長光」と「乱光包」を5代将軍綱吉に献上したという。

    晦日松姫君御方御祝とて。(略)姫君やがて大奥へのぼらる。若狭守吉徳もまうのぼり黑木書院にて拝謁し。備前長則の太刀。銀千枚。時服百。𥿻二百疋。加賀守綱紀は一文字の太刀。金百枚。時服五十。綿五百把。備前長光の刀。弟造酒之丞利章は太刀。金馬代。時服十献じ。吉徳に國光の御刀。伏見正宗の御さしぞへを給ひ。御盃下さる。また加賀守綱紀に來國光の御脇差。造酒之丞利章へ粟田口國吉の御わきざしを給ひ。 大納言殿よりも綱紀に綿三百把。

    前田利章は前田綱紀の五男で、前田吉徳の異母弟。幼名富五郎、富丸、造酒丞。大聖寺藩3代藩主で大叔父にあたる利直の養子となり、宝永7年(1710年)に利直が死去したため、翌年1月29日に跡を継ぎ大聖寺藩の4代藩主となった。

 尾張徳川家

  • さらに、宝永6年(1709年)5月23日に就封の挨拶の時、6代将軍家宣より尾張藩主4代の徳川吉通が拝領した。

    廿三日臨時の朝會あり。けさ尾張中納言吉道卿に。就封せらるゝによて。大久保加賀守忠增御使して。銀千枚。時服百をくらせらる。黄門やがて出て謝恩せらる。御盃下され。御手づから備前長光の御刀。奇楠香一木つかはさる。

  • その後尾張徳川家に伝わる。
  • 昭和16年(1941年)9月24日重要美術品指定、尾張黎明会所蔵。
  • 昭和28年(1953年)11月14日重要文化財指定。
  • 昭和29年(1954年)3月20日国宝指定。
  • 現在は徳川美術館所蔵


  • 本阿弥光柴押形」「本阿弥光温押形」にも池田(津田)遠江守所持の「遠江長光」として尼子氏が出雲の大場神社(大庭神社)に奉納とするがこちらは生ぶ中心で目釘孔の格好も異なる。刃長は二尺三寸七分でほぼ同じ。


 津田遠江守重久

安土桃山時代の武将
号 道供

  • 津田遠江守は山城の武将であり、細川管領家の家臣、津田佐渡守元重の子である津田大夫高重の子。
    津田佐渡守元重──津田高重─┬津田兵庫頭
                  └津田遠江守重久─┬津田平蔵
                           ├津田重次(源右衛門・勘兵衞)
                           └津田重似
    
    父・高重は伏見の領主であり、津田村の名を取って津田姓を名乗ったという説があるが、これは恐らく枚方市津田にあった津田城を築城した津田周防守正信の子孫の津田氏と混同している可能性がある。
  • 初め與三郎(与三郎)と称したという。
  • 長じて足利義昭に仕え、兄の兵庫頭の遺領7千石を領する。遠江守重久と名乗る。
  • 天正5年(1577年)に明智光秀に仕え、家老となっている。本能寺の変で先鋒を務め、山崎合戦でも2000人を率いて左先鋒を務める。
  • 山崎の戦い後、高野山へ逃れる。光秀の仇を討つべく秀吉を狙うが赦されて三千石を与えられ、賤ヶ岳の合戦で功を挙げたという。
  • 後に秀次に仕える。文禄3年(1594年)8月、秀次の奏請により今枝重直らとともに豊臣性を賜り、重久は従五位下・遠江守に叙任される。
  • 秀次が自害したために浪人していたところ、伊達政宗、福島正則より一万石で誘われるが断り、慶長元年(1596年)に前田利長が横山長知を遣わし礼を尽くして招いたためこれに応じ、5500石で登用された。
  • 津田遠江守重久は剛勇で知られ、一番槍を三度、感状を三通、兜首を取ること22回、敵将を6人斬ったという。
  • 前田利長に仕え、大聖寺城代。のち富山藩の高知組となる。大聖寺城が廃城となったのち、養雲山放生寺を菩提寺として開基、境内には一族の末裔である歌人長沢美津の歌碑が残る。
  • 寛永11年(1634年)86歳で没。

 子・津田勘兵衞重次

  • 慶長15年(1610年)に父・遠江守重久の隠居を受け、跡は二男の津田勘兵衞重次が継いだ。前田利長に仕え、父の死後に加賀藩家老。
  • 大坂冬の陣では真田丸攻めで戦功を挙げ、夏の陣でも大野治房、御宿政友の軍を破っている。
  • これにより1万石へと加増され家老になるが、寛永18年(1641年)にキリスト教徒であるという高札が立ち、江戸へと送られ慶安4年(1651年)に客死したという。

    勘兵衞も素より禪宗の檀那にして、基督教と關係する所なかりき。然るに寛永十八年十月金澤城の大手に、勘兵衞が高山南坊(※高山右近)の徒にして、後に改宗せりといへども、内心實に之を放棄せしにあらずと書したる高札を立てしものあり。是に於いて藩吏勘兵衞を江戸に護送し、利常より幕府に上申せしが、固より確乎たる事實あるにあらざるを以て空しく歳月を過し、慶安四年遂にその地に客死したりき。藩吏が勘兵術の冤罪たるを知りながら、尚且つ明瞭に之を斷ずること能はざりしは、實に幕府の法を憚ること常軌の外に出で、これに因りて禍の藩主に及ばんことを恐れたるを以てなり。

 遠江

  • 遠江(とおとうみ)とは、静岡県の大井川以西を指し、古えには「遠淡海(とほつあはうみ)」と表記した。
  • 当時の都(京都)からみて、近くにある淡水湖(淡海)が琵琶湖でありこちらは近淡海(ちかつあはうみ)で「近江国」と呼ばれ、それに対して遠くにあった淡海の浜名湖が遠淡海、そこから転じて「遠江国」となった。

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