夢切り国宗

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夢切り国宗(ゆめきりくにむね)  

太刀
無銘 伝備前三郎国宗
夢切り国宗
磨上 刃長二尺三寸三厘

由来  

  • 佐竹義重が差料にしていたときの話。
  • ある夏の夜、義重は暑さに耐えかね風通しの良い城櫓の二階で寝ていた。すると夜中に櫓の下にある池から大蛇が現れて義重を呑もうとするので、枕元の国重を抜いて追い払うという夢を見る。
  • 夢が覚めて国宗を見ると、鞘から脱して戸に立てかけた格好になっていたので、「抜け戸夢切り」または「夢切り」と名付けた。

来歴  

上杉謙信  

  • もと三尺一寸の大太刀
  • 永禄2年(1559年)5月に上洛した長尾景虎(後の上杉謙信)は、さらに足を伸ばして高野山に行こうとしていた。
  • その時若江城主三好氏が、若江三人衆(池田丹後守・多羅尾常陸介・野間佐吉ら)をして謙信を襲わせた。謙信はこの備前三郎国宗を揮って三好勢を追い払ったという。
    天文22年(1553年)9月の上洛の際には、石山本願寺に物品を贈りあったりしているが、この二度目の上洛ではなぜか若江三人衆を仕掛けたという。

佐竹義重  

  • 謙信は晩年、これを「老之杖」にしようと考えていたが、我が武勇を継いでくれるのは貴殿以外にいないという書状を添え、佐竹義重に贈っている。

    備前三郎の刀ハ、謙信公より、義重公へ進せられたる也、其節の御口上には、三好三人の衆へ慮外申ぬ、老の杖とハ存したれとも、我等の武勇を御繼きあるへきハ、足下ならてハ無之覺へ侍るゆえ、此刀を進し申となん

  • 喜んだ義重はこれを差料にしており、のち「抜け戸夢切り」または「夢切り」と名付けた。
  • なお上杉家と常陸佐竹家は、佐竹氏の六代前の当主佐竹義人が、上杉家から養子に出ていたというつながりがある。
    佐竹義人は、関東管領上杉憲定(山内上杉家の当主)の次男で、佐竹家第11代当主佐竹義盛の娘源姫を室に迎え家督を継いだ。しかし佐竹一族庶流の山入氏との間で対立が深まり、さらにまもなく起こった「上杉禅秀の乱」で佐竹家は分裂し、「佐竹の乱」と呼ばれる100年もの混乱期に突入する。15代当主佐竹義舜のときに姑である岩城常隆の介入を受けて混乱に終止符を打ち、義舜は佐竹氏中興の祖と呼ばれた。
  • 佐竹義重は知勇に勝れ、北条軍と戦った時など一瞬で7人の敵を斬り伏せ「鬼義重」「坂東太郎」と呼ばれて恐れられた。

佐竹義宣  

  • 嗣子の佐竹義宣が家督を継ぐと、この国宗を懇望して譲り受けている。
  • しかし自分には長すぎるとして、相談もせずに刃長二尺三寸三厘に磨上てしまった。しばらく後、義重が最近備前三郎を見ていないから見せるようにいうが義宣は拒んだ。しかし義重が強いて見せろといったため出してみせると、磨上されてしまっていた。それを見て義重は、刀の魂が抜けてしまったと慨嘆したが後の祭りであった。

    其後、義宣公へ御譲りありけるに、寸長しとて、すり上け給ふ、後に義重公、此方へ入り給ふ折から、備前三郎を久敷見ぬ故、御覧あるへしとなり、義宣公、いなみ玉ひけれとも、強て御意あるにつき、是非なく出され玉ひけれハ、御覧あつて、刀の魂いぬけ去りぬと、御不興の御色ありしとそ

出羽久保田藩(秋田藩)  

  • 国宗を贈った際の上杉謙信の手紙は、寛永10年(1633年)9月21日の秋田城の火災により消失してしまう。
  • さらに無銘であり、刃紋に国宗らしからぬところがあるとして、明和4年(1767年)に本阿弥光蘇が秋田城下に出張鑑定したときには鎌倉一文字助真に極め直し百七十枚の折紙を付けている。


典厩割国宗」との混同  

  • なお同じ国宗作で、謙信から義重という伝来も同じでまた長も似ているために混同されることがあるが、本刀は「典厩割」ではなく別物である。明治29年(1896年)刊の「秋田沿革史大成」で典厩割だとしたために誤伝が広がった。
    なお義宣は、「典厩割」についても同様に二尺三寸一分と磨上げてしまい、黄金造りにしている。

    此時謙信ハ(略)備前三郎國宗ノ太刀ヲ進セラル、此太刀ハ三尺三寸餘アリ謙信秘蔵ノ刀、川中嶋ニテ合戦ノトキ典厩信繁ヲ切リシ故典厩割ト名付ラレタル刀ナリ、今佐竹家ニ持傳ヘタリ(長山日光ノ記ニ此太刀今ハ二尺三寸一歩ニ摺リ上ケ金作リノ太刀ニテ什物ノ内ナリト云フ)