同朋衆

※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

同朋衆(どうぼうしゅう)  

室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと。
阿弥衆、御坊主衆とも。

  • 語源は、仏教者の「同業同朋」から来たものと見られるが、将軍近侍の「童坊」から来たという説もある。
  • 一遍上人の起した時衆教団に芸能に優れた者が集まったものが起源とされる。時衆における遊行は、室町幕府から関所自由通過を許され、さらに時衆に加わる手続きも簡単だったため芸能を生活の手段とする人々が時衆集団に加わるようになる。
  • 時宗を母体としているために阿弥号(阿号)を名乗る通例があるが、観阿弥、世阿弥など、時宗の僧ではないものも阿弥号を名乗る。この用例を指して「擬法名的芸名」と呼ぶ。

夫茶湯ノ起ハ、普光院殿(普広院、義教)・鹿薗院(鹿苑院、義満)ノ御代ヨリ唐物絵讃等歴々集リ畢、其比御同朋衆ハ善阿弥・毎阿弥ナリ、右兩 公方様薨去ノ後、(略)東山慈照院殿(義政)ノ御代名物悉集リ畢、花ノ御所様(義尚)ヘ御家督ヲ譲リアソハシゝ時、明光院殿(明広院、義視か)其御後見トシテ都ニ殘り給、御名物少々御授與シ玉フ、其外ニ七珍萬寶ハ其數ヲシラス(略)
慈照院殿ハ東山ニ御隠居ニテ、(略)能阿彌ヲ召テ、源氏物語雨夜ノ品サタメ坏讀セ、謌連哥、月見、花見、鞠、小弓、扇合、草盡、虫盡、サマゝ興を催、來方事トモ御物語アリシ時、慈照院殿被仰出、昔ヨリ有來遊興モ早事盡ヌ、漸冬モ近クナリヌ、雪ノ山ヲ分テ鷹狩リモ老身ニ不似合、何カ珍敷御遊在ヘキト御諚アリシニ、能阿彌謹テ得心シテ、憚ナカラ申上ル、御釜ノ熱音ハ松風ヲ猜ム、且又、春夏秋トモニ面白御遊ニテ候、コノコロ南都稱名寺ニ珠光ト申モノ御座候
(山上宗二記)

ここで珠光を紹介された義政は、その後珠光を召出して茶の湯に没頭する。ただし、能阿弥は義政が東山殿に移る前の文明3年(1471年)に没しているため、東山殿において珠光を推挙したという内容には矛盾がある。

制度としての同朋衆  

  • 制度としての起源は、細川頼之が執事となって奸佞の徒を退けるために6人の法師を抱え足利義満に「佞坊」として仕えさせたことに始まる。それが後に「童坊」「同朋」と呼ばれるようになったという。
  • 同朋は猿楽や庭園作りなどの芸能を司り、また唐物奉行として唐物、唐絵の目利き、表装、出納などを行ったという。
  • その後、同朋衆は織田信長豊臣秀吉にも仕えた。

主な同朋衆  

毎阿弥
(茶道)もと越前朝倉氏の家臣だったという。能阿弥の父とされる。

夫茶湯ノ起ハ、普光院殿(義教)・鹿薗院(義満)ノ御代ヨリ唐物絵讃等歴々集リ畢、其比御同朋衆ハ善阿弥・毎阿弥ナリ。

珠阿弥
古山珠阿弥。しあ。「鹿苑院殿厳島詣記」に”古山珠阿”として名前が見える。「新田族譜」によれば、新田義貞に仕えた太田十郎宗行の孫古山十郎宗房は義満に仕え、厳島御成にも供奉しておりのち古山に戻ったと記し、その弟である珠阿は鹿苑院将軍同朋であると記す。また歌道二条派の古今伝授を伝えた頓阿は、珠阿弥に師事したともいう。
昌阿弥
生阿とも。医師で足利義詮の信任を得る。義詮が貞治6年(1367年)に病に倒れると生阿が一人で看病したという。

大樹日来療治医師昌阿弥(世郷魏馬房)去五日逐電了、彼宅自侍所依相触之、雑人等壊取云々、療治依参差、早速勝負出来之間、依可被行罪科逃避脱云々

寿阿弥
応永29年(1422年)7月に称光天皇が病になられた際に治療にあたった。天皇は快癒し、寿阿弥は数々の引出物を賜った。

医師寿阿志仏法印弟子祇候。勧賞重宝被下之。自諸家進物悉拝領云々。諸医捨申之処志寿阿一人祇候。高名高運也。更非名医不思議之運歟。

正長元年(1428年)2月、再び称光天皇が病にかかった際にも、義円(義教)を介して寿阿弥が呼ばれている。
文安5年(1448年)5月4日、夜盗に押入られて斬殺され、居宅も火事となり医書等も焼失した。
立阿弥
会所室礼。永享2年(1430年)3月17日の金剛輪院で花見が行われた際に、立阿弥が座敷飾りを命じられている。

自室町殿會所置物。(略)以上色々立阿弥被送下之了。祝着眉目此事々々。立阿ニ二千疋賜之也。立阿令奉行置物共悉置之。飾之了罷歸也。會絵以下大略今日周備了。摂政殿入寺。御宿坊法恩院也。

能阿弥
(唐物、茶道、水墨画、連歌、立花)号は鴎斎、春鴎斎子。父を金阿弥または毎阿弥とする。義政に仕え歌連歌、村田珠光を推薦し茶湯の師匠を務めた。「御物御畫目録」、「君台観左右帳記」、「能阿弥本銘尽」の著者。応永4年(1397年)生まれ、文明3年(1471年)没。

能阿弥事 慈照院殿東山殿也。公方ゾ同朋也。名仁也。畫ノ事ハ自元也。香ノ上手。連歌士。

この能阿弥に子の芸阿弥、孫の相阿弥をあわせて三代三阿弥(能・芸・相)と呼ぶ。
芸阿弥
(唐物、茶道、水墨画)姓は中尾、名は真芸(しんげい)。絵師、連歌師、表具師、鑑定家。号学叟。足利義政に仕えたが、ちょうど応仁の乱の時期にあたるためか記録が少ない。永享3年(1431年)生まれ、文明17年(1485年)11月2日没。
相阿弥
(唐物、茶道、水墨画、立花、作庭)姓は中尾、名は真相(しんそう)。唐物奉行を務め、竜安寺や大仙院の石庭を造ったと伝わる。号松雪斎・鑑岳。祖父能阿弥の著した「君台観左右帳記」を追記し完成させた。大永3年(1523年)には「御飾記」を著している。大永5年(1525年)10月27日没。
南阿弥(なあみ)
(謡作曲者)海老名の南阿弥陀仏。曲舞「東国下」「地獄」の作曲者。観阿弥を義満にひきあわせた。遁世した関東武士の海老名六郎左衛門ともいう。室町時代の御伽草子「猿源氏草紙」に”海老名のな阿弥”として登場する。

中頃の事にやありけん、伊勢の國阿漕が裏に鰯賣一人あり。もとは海老名の六郎左衛門とて、關東ざぶらひにてぞありける。妻におくれて娘を一人もちたりしを、日頃召使ひける猿源氏といふものに取らせて、すなはち鰯賣の職をゆづり、わが身は都へのぼり、もとゆひ切り、えびなのなあみだぶつとて、隱れなき遁世者にぞありける。大名高家近づけ給へり。

三島由紀夫が、この話を元にして歌舞伎の演目としたのが「鰯売恋曳網」(いわしうりこいのひきあみ)である。
琳阿弥(りんあみ)
連歌師、曲舞作者。足利義満に仕え、東寺と幕府の仲介役なども果たす。曲舞「東国下」「西国下」の作詞者。玉林。連歌師救済門人。
観阿弥
(猿楽能)本名結崎清次。通称三郎。観世流の始祖。大和の山田猿楽の家系の生まれ(三男で、長兄は宝生大夫であるという)で、のち結崎座(のち観世座)を率いて都に進出し、応安7年(1374年)42歳の時に今熊野での演能を見た足利義満に評価され、息子世阿弥とともに重用された。
世阿弥
(猿楽能)観阿弥の長男。本名は観世三郎元清。幼名鬼夜叉、藤若。12歳のときに将軍義満に見出され、寵愛を受けた。応永8年(1401年)頃から世阿弥陀仏と号している。応永15年(1408年)に義満が没して義持が4代将軍となると、義持は田楽の増阿弥を寵愛したため不遇をかこっている。応永29年(1422年)60歳で出家して至翁善芳と号し、観世大夫を長男の十郎元雅へ譲っている。さらに永享元年(1429年)に義教が将軍になると弾圧され、永享4年(1432年)に十郎元雅が亡くなると、大夫を甥の音阿弥へ譲らされる。のち佐渡に流された。「風姿花伝」などを著した。
音阿弥
(猿楽能)世阿弥の甥。観阿弥世阿弥と並べると「観・世・音」となり前二者は義満、音阿弥は義政の命名という。
増阿弥(ぞうあみ)
田楽新座の喜阿弥の後継者。禅宗に傾倒していた将軍義持に寵愛される。尺八にも優れ、豊原量秋の弟子であったという。
道阿弥(どうあみ)
能役者。はじめ犬阿弥。通称犬王。近江猿楽の日吉座に属していた。足利義満に寵愛され、応永15年(1408年)には北山第で行われた天覧能で主役を演じる。道阿弥の道は、義満の法名「道義」から一字を拝領したもの。
善阿弥
(作庭、連歌)河原者の出身で、庭師として足利義政に重用された。長禄2年(1458年)の相国寺蔭涼軒、寛正2年(1461年)の花の御所泉殿、その翌年の高倉御所泉水、文正元年(1466年)の相国寺山内睡隠軒などが善阿弥作という。
子の小四郎らも庭師として仕え、慈照寺(銀閣寺)の庭園は彼の子の二郎、三郎、及び彼の孫の又四郎による作品である。
重阿弥
(碁)
拾阿弥
十阿弥。愛智義成の子孫と称した土豪の愛智氏。織田信長に仕えていたが、前田利家の佩刀の笄(正室芳春院の実父の形見)を盗むに飽き足らず、度重なる侮辱を繰り返したために、信長の門前で利家により斬殺された(笄斬り)。
千阿弥
千利休の祖父(『千利休由緒書』)で、子に堺の有力町衆である田中与兵衛(利休実父)がいる。足利義政に仕えて同朋衆を務めた。応仁の乱の際、敵方に内通したとの疑いをかけられて逃亡し、戦災を避けるため、堺へ移住したという。

会所(かいしょ)  

  • 会所とはなんらかの会、催し物、寄合・会合が行われるところであり、中世期に発展して、ある特定の区画、さらには独立した建物が「会所」と名づけられるようになった。
  • 南北朝期には婆沙羅大名として高名な佐々木道誉も会所を持っていたことがわかる。

    爰ニ佐渡判官入道々誉都ヲ落ケル時、我宿所ヘハ定テサモトアル大将ヲ入替ンズラントテ、尋常ニ取シタヽメテ、六間ノ会所ニハ大文ノ畳ヲ敷双ベ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆ニ至マデ、一様ニ皆置調ヘテ、書院ニハ羲之ガ草書ノ偈・韓愈ガ文集、眠蔵ニハ、沈ノ枕ニ鈍子ノ宿直物ヲ取副テ置ク、十二間ノ遠待ニハ、鳥・兎・雉・白鳥、三竿ニ懸双ベ、三石入許ナル大筒ニ酒ヲ湛ヘ、遁世者二人留置テ、誰ニテモ此宿所ヘ来ラン人ニ一献ヲ進メヨト、巨細ヲ申置ニケリ

  • 室町幕府(花の御所)に会所が設置されるようになり、義持、義教が次々と増設し、四宇の会所を持っていたとされる。

    ひんかし山との御くわい所の御わたましの御れいに。しろ御たちてんそう御つかいにてまいる

    義満の代に花の御所内に一宇、応永16年(1409年)三条坊門殿に一宇、永享4年(1432年)に南向会所、永享5年(1433年)に会所泉殿、永享6年(1434年)に新会所を造営した。

  • 会所の発達は、寝殿造りから書院造りへの変遷を促すこととなり、さらに座敷飾りの場として床の間が出現し、「唐物」と呼ばれた絵画、墨跡、文房具、法具などが唐物数寄として発達していく。
  • 歴代将軍により蒐集された道具は「東山御物」(ひがしやまごもつ)と称されるようになる。これらの目利き、表装、出納などにあたったのが同朋衆であり、初期には三代三阿弥(能・芸・相)が「唐物奉行」と呼ばれ、「会所同朋」などとも呼ばれた。
  • こうした同朋衆の室礼の集大成が「君台観左右帳記」となる。著者の能阿弥は、刀剣鑑定書「能阿弥本銘尽」も著している。

本阿弥  

  • 後の刀剣鑑定所、「本阿弥家」の祖。
  • 初代も「妙本阿弥陀仏」を略して「本阿弥」と称したという。

本阿弥

十阿弥(とあみ)  

  • 拾阿弥とも。
  • 織田信長に仕えた同朋衆とされ、ある時又左衛門と名乗っていた頃の前田利家の刀の笄を盗んだという。怒った利家は信長に十阿弥の処罰を願うが却下され、その場で十阿弥を斬り捨てる。
  • 信長は利家を斬ろうとするが柴田勝家らに止められ、放逐をするに留まる。
  • 利家はその後「桶狭間の戦い」で単身今川方に切り込み首級を挙げるが赦されず、さらに後、美濃森部村(安八町)での「森部の戦い」(稲葉山城の戦いの前哨戦)で斎藤氏重臣日比野下野守の家臣足立六兵衛(猛将で「首取り足立」の異名を持つ)を討ち取る。
  • 信長は「足立の首は、城一つ攻め滅ぼしたも同然」と激賞し、利家はようやく帰参を認められ赤母衣衆として活躍していく。