古今伝授の太刀


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 古今伝授の太刀(こきんでんじゅのたち)

太刀
銘 豊後国行平
刃長80.0cm、反り2.8cm、元幅2.7cm
国宝
永青文庫所蔵(東京都文京区目白台)

  • 豊後の刀工行平の作
  • 銘は、裏「豊後国行平作」。
  • 表裏に棒樋を搔流し、腰の部分の樋中に彫刻が施されており、表は梵字と倶利迦羅龍、裏は梵字と帝釈天像(不動立像)が彫られている。
  • 目釘孔2個、うち上1個を埋める。

 由来

  • 細川藤孝(幽斎)に伝わっていた。
  • 関ヶ原の戦いの際、すでに家督を譲っていた幽斎の嫡子細川忠興がいち早く徳川に与することを決め、その結果幽斎の篭る田辺城が1万5000人の西軍兵に囲まれた。
  • 6月には忠興が大半の兵を引き連れ会津征伐に向かっていたため、田辺城には忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎(他に従兄弟の三淵光行)が率いる500人にすぎなかったこともあり、慶長5年(1600年)7月19日に始まった攻城戦は月末には落城寸前となった。
  • 当時幽斎は、三条西実枝から歌道の奥義を伝える「古今伝授」を相伝されており、弟子の一人である八条宮智仁親王が古今伝授が断絶することを恐れ、7月と8月に二度に渡り使者を遣わし開城を進めるが、幽斎はこれを謝絶。
  • 八条宮は兄である後陽成帝に奏請し、ついに後陽成帝は三条西実条、中院通勝、烏丸光広の3名を勅使として派遣し、講和を命じた。
  • これにより関ヶ原の戦いの2日前である9月13日に篭城が解かれ、幽斎から三条西実条に返し伝授が行われ古今伝授が途絶えるという危機は回避された。この時幽斎は、烏丸光広らに対しても古今伝授を行いその際に烏丸光広にこの太刀を贈ったという。これにちなみ、「古今伝授の太刀」と呼ばれるようになる。
    元々古今伝授は三条西家の相伝であったが、三条西実枝の息子公国が幼かったため、やむなく弟子の細川藤孝に「返し伝授」を誓わせた上で古今伝授を行っている。

    三条西実条
    幽斎から返し伝授を受けた人物。江戸幕府の開府後は武家伝奏として幕府の意向に忠実に従い、最後には家格を超えた右大臣に任じられた。次男の三条西公種は武者小路家の祖となり、三男の実号は最初西郊家のちの高松家の祖となって分家独立し、それぞれ家を立てた。以降、江戸期を通して歌道は三条西家一門の家職的学問となる。
  • この後、幽斎は西軍の将である前田茂勝(前田玄以の子)の居城である丹波亀山城に身を移されている。
  • 翌10月に石田三成らが処刑され、11月には細川忠興への豊前一国豊後二郡39余万石拝領が決まり、幽斎にはこれとは別に6000石が与えられ京都で隠棲した。

 来歴

  • 豊後国行平太刀は、もともとは細川家の重宝。
  • 慶長5年(1600年)田辺城が囲まれた際に、「万葉類聚古集」16冊と共に烏丸家に伝来。以後「古今伝授の太刀」と呼ばれる。享保名物帳には載らないが、出来及び伝来ゆえに帳外名物として古来有名な行平
  • 明治27年(1894年)12月に、烏丸光亨から中山孝麿(中山忠愛の次男)へと譲られた。

    爾来右三品に幽斎由緒の品々、烏丸伯爵家に相伝の処、明治廿七年、十二月、故あり、烏丸光亨より譲り受。孝麿

    中山家は羽林家の家格をもつ公家で、藤原北家花山院家の支流。幕末の当主中山忠能は明治天皇の生母である典侍中山慶子の父で、幕末から明治維新にかけては政治的にも活躍し、侯爵に叙せられた。

         中山忠能
          ├────┬中山忠愛─┬中山忠直
    松浦清──愛子    │     └中山孝麿─┬中山輔親
               │           └今城定政
               ├中山忠光──仲子
               ├中山公董──中山季董
               └慶子
                 ├───明治天皇
                孝明天皇
    
  • 昭和4年(1929年)6月29日の中山侯爵家の売立で出品され、1万1千3百円で個人に落札されている。

    長弐尺六寸四分半、樋之内、本ニ梵天明王、上ニ梵字。裏樋之内、本ニ剣巻真之竜、上ニ梵字之彫モノ有之、長銘也。
    明治二十六年癸巳六月審定、本阿弥長識

    なおこの中山侯爵家の売立目録で「行平太刀銘鬼丸」と記されていることから、一部で「鬼丸行平」としているものがあるが、これは鬼丸造りの拵で中身は行平という意味であって「鬼丸行平」という号が付いているわけではない。これについて古今伝授の太刀 | 日本刀や刀剣の買取なら専門店つるぎの屋が非常に詳しく解説されている。

    なお「万葉類聚古集」もこの時出品され、こちらは4万千円で落札された。

  • その後(昭和初期)細川家16代当主である細川護立が買い取ったことにより、再び細川家の所有となった。

    あの行平は烏丸家からいつのころからか、中山大納言の家にはいっていて、中山家の売り立てに出たのです。そこで細川家には由緒のある刀ですから殿様(細川護立)にお話をしたのですが、当時殿様には清浦奎吾という、うるさい相談役がおるので、とてもだめだろうとおっしゃって一時はあきらめておられました。しかしやはりほしくなられて、殿様自身で清浦さんのところへ出向かれて、相談されたのです。そうしたら清浦さんがそういう由緒のものこそぜひお買いなさいといったそうです。
    そしてその行平の刀を落札した人の所へ、細川家に譲ってくださるようにと私(本間氏)が使いにやられたのです。その人は高利貸のような人でした。そうあの当時いくらだったかなあ、二万一千円ぐらいで落札したのを、二、三千円値付けをしてもらったように記憶します。
    (薫山刀話)


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