黒田二十四騎


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 黒田二十四騎(くろたにじゅうよんき)

黒田長政の家臣の中から24人の精鋭を選出した呼称

  • うち親族や譜代重臣8人が「黒田八虎(くろだはっこ)」と呼ばれる。
Table of Contents

 概要

井上之房
[黒田八虎]九郎右衛門、周防守。慶長5年(1600年)9月の石垣原の戦いで大友氏の家臣吉弘統幸を討つ武功を挙げている。筑前国への移封の際に豊前国小倉藩の境界近くに黒崎城を築き、1万6,000石を領し大名格待遇を得る。
栗山利安
[黒田八虎]善助、備後守。如水股肱の臣で、家臣の中では序列第1位であり、一老と称された。筑前福岡藩に移封されると、朝倉郡に1万5,000石の所領を与えられ、麻底良城の城主となった。息子は黒田騒動(栗山大膳事件)の栗山利章。→「命なりけり
黒田一成
[黒田八虎]三左衛門、孝高の養子(加藤重徳の次男)【三奈木黒田家】重臣筆頭。→「天井刳り正宗
加藤重徳の嫡男は加藤家として藩中老職を世襲した。
黒田利高
[黒田八虎]兵庫助、黒田職隆の次男(黒田孝高如水の弟)。黒田八虎筆頭
黒田利則
[黒田八虎]修理亮、黒田職隆の三男
黒田直之
[黒田八虎]図書助、黒田職隆の四男。秋月城代
後藤基次
[黒田八虎]又兵衛。長政とは反りが合わず出奔する(逸話が多数ある)。豪勇で知られ、細川忠興、福島正則・前田利長・結城秀康などから召し出しがかかるが長政から「奉公構」が出され浪人となった。大坂の役で大坂城に入城し、天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。家康は、「大阪方の浪人衆の中で、武者らしいのは、後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけだ」と語ったという。冬の陣では6000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。夏の陣では道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いるが、伊達政宗の家臣片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上の兵を相手に戦い、乱戦の中討ち死にした。「日本号」は母里太兵衛から又兵衛に渡り、出奔する際に娘婿である野村祐直(二十四騎野村祐勝の子)に引き継がれたという。→【後藤又兵衛】【大坂城五人衆
母里友信
[黒田八虎]太兵衛、但馬守。→「日本号(呑取りの槍)」。曽我一信の子として生まれるが、青山・土器山の戦いで一族が戦死した母里氏が絶えるのを惜しんだ黒田如水により、母が母里氏であった関係から母里姓を与えられ、母里太兵衛を名乗った。異母兄に二十四騎野村祐勝がいる。江戸城の普請に際して天守台石垣を担当し、それが完成した後に徳川家康からそのねぎらいとして刀を与えられたが、その書状の宛名が「毛利」と誤って記されていたため、長政の命により以後「毛利但馬守友信」を名乗ることとなる。
小河信章
伝右衛門
菅正利
六之助、和泉守。→「南山」。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、長政に従って島左近を討ち取るなど関ヶ原で戦功を挙げている。※島左近の最期については諸説あり
衣笠景延
久左衛門、因幡守
桐山信行
孫兵衛、大炊助、丹波守。文禄・慶長の役でも戦功を挙げる。途中で帰国した際には、黒田長政の使者として豊臣秀吉に拝謁して講和の祝辞を述べ、秀吉から甲冑を下賜された。黒田二十四騎の具足は8領程度しか現存していないが、桐山の具足は現存しており、現在福岡市博物館所蔵
毛屋武久
主水正、武蔵守。初名田原金十郎で六角氏、和田惟政、山崎片家、柴田勝家に仕える。越前国毛屋畠の一揆を鎮圧し「毛屋主水正」を名乗る。のち出奔し、前田利家、池田恒興、佐々成政ののち黒田長政に仕えた。唐入りの前に蒲生氏郷に登用したいと打診されたが、のち長政の妨害を受け黒田家に留まった。
竹森次貞
新右衛門、石見守。天正6年(1578年)の播磨別府城の戦いでは一番首を挙げるが、左手の親指の付け根から手首までを斬り割られるという傷を負い、それ以後孝高の命により旗役となる。慶長7年(1602年)に黒田忠之が生まれた際には、吉田長利と共に幼名「万徳丸」の名付け親となっている。
野口一成
左助、藤九郎。天正16年(1588年)の城井鎮房暗殺の際にはその家臣を7人斬り伏せており、その功績から黒田長政から短刀を賜っている。
野村祐勝
太郎兵衛、母里友信の異母弟。筑前飯塚田川領6000石。藩中老職を世襲
林直利
太郎右衛門、掃部亮。文禄3年(1594年)2月には史上唯一の槍による虎狩りを行ったという。
原種良
弥左衛門、左近太夫、孫三郎、伊予守。豊前国宝珠山氏の一族で父は大友宗麟の家臣・宝珠山隆信。秀吉の九州平定の際、黒田孝高に人質として出され、案内役となり、のち黒田家臣となる。黒田騒動後、栗山利章に代わって左右良城(麻底良城)の押さえを任され、伊予守を称した。
久野重勝
四兵衛。「四兵衛重勝」。筑前高祖城を攻めた際には鴾毛の馬にまたがって一番駆けをし、それを目にした高祖城主原田信種は驚いて降参したとされ、豊臣秀吉からも感嘆されたという。近年、久野重勝が秀吉から拝領したといわれる、日本国内最古級のそろばんが発見された。そろばん老舗メーカーの雲州堂所蔵
九州平定後、あるいは文禄の役前に、築城や区画整理で貢献した重勝に対して、秀吉が褒美としてそろばんを与えたという。なおこの四兵衛重勝拝領算盤が発見される前は、前田利家が文禄の役の陣中で使用したものが現存する最古のものとされてきた。
堀定則
平右衛門。はじめ長政の家臣住江武右衛門の従卒であったが、文禄の役で直参となった。元和9年(1623年)、長政の没後3男の黒田長興に秋月の地が分知された際、5,000石の筆頭家老として付けられている。のち黒田家から出奔し、寛永9年(1632年)、小田原藩に入った稲葉正勝に仕えている。寛永11年(1634年)に正勝が没し子の稲葉正則が跡を継ぐと、3,000石の筆頭家老として仕えるが、寛永13年(1636年)、堀は正則により手討ちにされた。享年80。
益田正親
与助、与九郎。播磨国姫路近郊の貧農の出で、ある時黒田孝高に取り立てられ、下僕、薙刀持ち、徒侍を経て士分となった。この時姓が必要になったため、長政の正室糸姫の義母大匠院が益田氏の出であったことから、それにちなんで「益田」と名乗ることとなったという。栗山利安の子縫殿介を養子とし相続させた。
三宅家義
山太夫、藤十郎、若狭守。天正5年(1577年)の第一次上月城の戦いで、支城の大の山城を囲んだ際、「自分に命じていただければ、あのような小城を落とすのは朝飯前」と発し、孝高によりその度胸を褒められて、通称を『孫子』の「動かざること山の如し」から採って「山太夫」と改める。その後、自身の発言通り一人で城に乗り込んで敵を降伏させた。天正15年(1587年)の城井鎮房の反乱の際には、鎮房へ降伏を勧める使者を四度にわたって務め、城井朝房と鶴姫を人質に出させることに成功した。その功績により、黒田長政から刀と1,500石を与えられている。筑前国に入国した際には若松城代となる。
村田吉次
兵助、出羽守。井口吉次。井口与次右衛門の四男。のち鍋島直茂の家臣村田隠岐にあやかり村田姓に改める。宝蔵院流槍術の免許皆伝。
吉田長利
六郎太夫、和泉守。黒田孝高の乳兄弟。八代道慶の子で、のち家老吉田重生の姓を譲られて吉田姓となる。慶長9年(1604年)に孝高が死去した後、福岡城南の丸の城代を務め、黒田長政から「壱岐守」の称号を与えられた。

 黒田二十四騎図

  • 「黒田二十四騎」と呼ばれだしたのは二十四騎を描いた「黒田二十四騎図」が制作された江戸中期以降とされる。
  • 江戸中期、筑前福岡藩士であった貝原益軒は、藩命を受け「黒田家譜」を編纂し、また藩内をまわり「筑前国続風土記」も編纂している。さらに福岡藩士の由来をまとめた「御家人先祖由来記」などを記している。
  • 「黒田二十四騎図」については原種良の子孫である原種次が描いたものが最初とされ、さらに4代藩主黒田綱政に仕えた御用絵師の狩野昌運の描いたものが元禄期に成立していたとする。製作年代のわかるものでは享保4年の土生清俊の作画最も古いとされる。
  • こうしてたくさんの二十四騎図が描かれる中、10代藩主黒田斉清は流布されている二十四騎図の誤りをなくすために文化7年に御用絵師尾形洞谷に二十四騎の詳細な調査と、精密な二十四騎図の製作を命じている。
  • 尾形洞谷は、二十四騎の子孫の家々に伝わる肖像画や甲冑、武具を調査し、さらに伝承や古典籍を参考にした上で、「黒田二十四騎画帖」を描き上げた。この「黒田二十四騎画帖」は製作過程の稿本の模写などが現存し、これが10代藩主黒田斉清により何度も修正された痕跡であるとする。
  • 黒田二十四騎の子孫は、井上之房の長男は長政の長女菊を娶るが2代将軍秀忠に仕えて慶長15年(1610年)に5,000石取の旗本となっており、また栗山利安の息子も栗山大膳事件を起こして子孫は盛岡藩士となっている。また後藤又兵衛も「奉公構」を受けて浪人するなど多くが散り散りとなっていた。時代が過ぎ筑前福岡藩の成立過程を知るものが少なくなった時に、今一度家中をまとめる目的をもって制作されたのが「黒田二十四騎図」であったともされる。

 関連項目


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