鳴神兼定
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鳴神兼定(なるかみかねさだ)
刀
金象嵌銘「和泉守兼定/鳴神」
桑名市指定有形文化財
鎮国守国神社蔵
- 二代兼定(ノサダ)作
- 金象嵌は若狭小浜藩7代藩主酒井忠用によるもの
酒井忠用は、享保7年生まれ安永4年没
由来
- 目貫に風神雷神の文様があったため酒井忠清が名付けたという。
酒井雅樂頭忠淸朝臣(略)平生殊ニ之ヲ愛シ玉ヒ目貫風神雷神ナリケレバ鳴神ト名付玉ヒヌ
雷神の異名に「鳴神」があるという。古来、雷は「いかづち」「なるかみ」「はたたがみ」などと呼ばれ、その後中世にいたり「雷」の字を充てることが多くなったという。
酒井忠清は雅楽頭系酒井家宗家4代。酒井忠世の孫。
来歴
- もとは武田信玄の所持。
- のち穴山梅雪から荒川氏に伝わり、その後家康の異父弟の松平(久松)定勝が荒川氏の養子となった関係でこの兼定を贈られたという。
三河吉良氏の一族荒川義広は、妻が家康の異母妹市場姫。その子、次郎九郎弘綱は家康に召し抱えられ、命により穴山梅雪の娘を娶り家督を継いだ。甲斐守。義広は、永禄4年(1561年)吉良義昭が家康に叛いた時には家康に味方し、これにより市場姫を娶る。しかし永禄6年(1563年)の一向一揆のときには吉良義昭に与し、河内に出奔する。
嗣子が無かったために松平定勝の子の定綱が慶長元年(1596年)荒川次郎九郎弘綱の養子となる。同4年(1599年)次郎九郎弘綱は伏見城の戦いで死んだため家督を継ぐ。のち定綱は家康の命により荒川氏から松平氏に復している。のち下総山川藩、常陸下妻藩、遠江掛川藩、山城淀藩、美濃大垣藩、伊勢桑名藩と転封を繰り返し、子孫は越後高田藩、陸奥白河藩を経たのち、桑名藩へと戻り幕末を迎えた。白河藩時代の3代藩主が寛政の改革を行った松平定信である。
- 慶長19年(1614年)の大坂夏の陣では、松平定勝はこの刀を揮って功をたてたという。※ただし冬夏両陣ともに伏見城番を務めたともいう。
- この定勝の娘菊姫(光寿院)が雅楽頭酒井家の酒井忠行に嫁いだ際に持参する。
酒井忠行の嫡男忠清が寛永元年(1624年)10月の生まれなのでそれ以前となる。ただし定綱の娘鶴姫も酒井忠清に嫁いでおり、その時に贈ったとすれば嫡嗣忠挙が慶安元年(1648年)3月の生まれなのでそれ以前となる。
- のち、定勝の子孫にあたる松平定信が酒井家から返還してもらっている。
- 天明4年(1784年)松平定信が藩祖の定綱(松平定勝の三男)を鎮国神社に祀った際に、この鳴神兼定を社宝として奉納した。
金象嵌を入れたのは雅楽頭酒井家の分家忠利系の酒井忠用。忠利系は、酒井忠行の曽祖父酒井正親の三男忠利に始まる。詳細はわからないが、いつごろにか雅楽頭酒井本家から分家の忠利系に移っていたことになる。
なお羽皐隠史著の「英雄と佩刀」では酒井雅楽頭宗家の16代酒井忠績(播磨姫路藩8代藩主、忠行から数えて13代)が所持しており、定信は代わりの兼定を送り交換したという。┌松平定行──定良──定頼──定重──定儀━━定賢──定邦━━松平定信(田安宗武の七男、徳川吉宗の孫) ├定綱─鶴姫 ↑ 松平定勝─┴菊姫 ├─忠明─忠相─親愛─親本─忠恭─忠以─忠道─忠実─忠学─忠宝─忠顕─忠績 ├──忠清 酒井正親─┬重忠─忠世─忠行↑(この頃久松松平から伝来) └忠利─忠勝─忠直─忠隆─忠囿─忠音─忠存─忠用 (金象嵌)
- 昭和59年7月10日、桑名市の有形文化財「刀 金象嵌銘和泉守兼定 鳴神」に指定される。
- 三重県桑名市の鎮国守国神社蔵。
- 鎮国・守国両神公御遺事に詳しい由来が書かれる。
鎭國公御差料ノ御刀和泉守兼定作銘ヲ鳴神ト云(中略)年久ク用ヒ玉ヒシ者ナレバ神劍ニ納メ玉フ鳴神ノ御刀ハ昔武田信玄ノ刀ナリシが穴山梅雪ニ傅ヒソレヨリ荒川氏ニ傅フ鎭國公御幼少ノ時暫ク荒川家ニ養ハレ玉ヒシ時参ラセシ者ナルが後御婿酒井雅樂頭忠淸朝臣へ引出物トシテ賜り玉フ平生殊ニ之ヲ愛シ王ヒ目貫風神雷神ナリケレバ鳴神ト名付玉ヒヌ或時有司ノ申ス所御心ニ應ゼザリシカバ鳴神が 承知セヌト宣ヒシトゾカゝル遺愛ノ品ナレバ酒井雅樂頭忠以朝臣ニ懇請シテ納メ玉ヒシナリ中小身ニ篆書ニテ鳴神ノニ字裏ニ和泉守兼定ト金象眼アルハ酒井忠用朝臣ノ為サレシナリ
- 「鎮国公」は松平定綱、「守国公」は松平定信のこと。
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