鳴神兼定
鳴神兼定(なるかみかねさだ)
刀
金象嵌銘「和泉守兼定/鳴神」
刃長73.4cm、反り2.2cm
桑名市指定有形文化財
鎮国守国神社蔵
- 二代兼定(ノサダ)作
- 金象嵌は若狭小浜藩7代藩主酒井忠用によるもの
- 桑名市では読みを「なるがみ」としている。
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由来
- 目貫に風神雷神の文様があったために名付けたという。
目貫風神雷神ナリケレバ鳴神ト名付玉ヒヌ
雷神の異名に「鳴神」があるという。古来、雷は「いかづち」「なるかみ」「はたたがみ」などと呼ばれ、その後中世にいたり「雷」の字を充てることが多くなったという。
- 鎮国・守国両神公御遺事に来歴と由来が書かれる。※句読点を追加した
鎭國公御差料ノ御刀、和泉守兼定作、銘ヲ鳴神ト云。御脇差ハ三條堀川住義國作ニテ、共ニ年久ク用ヒ玉ヒシ者ナレバ、神劍ニ納メ玉フ。鳴神ノ御刀ハ、昔武田信玄ノ刀ナリシガ、穴山梅雪ニ傅ヒ、ソレヨリ荒川氏ニ傅フ。鎭國公御幼少ノ時、暫ク荒川家ニ養ハレ玉ヒシ時、参ラセシ者ナルガ、後御婿酒井雅樂頭忠淸朝臣へ引出物トシテ賜り玉フ。平生殊ニ之ヲ愛シ王ヒ、目貫風神雷神ナリケレバ鳴神ト名付玉ヒヌ。或時有司ノ申ス所御心ニ應ゼザリシカバ、鳴神ガ承知セヌト宣ヒシトゾ。カゝル遺愛ノ品ナレバ、酒井雅樂頭忠以朝臣ニ懇請シテ納メ玉ヒシナリ。中小身ニ篆書ニテ鳴神ノニ字裏ニ和泉守兼定ト金象眼アルハ、酒井忠用朝臣ノ為サレシナリ。
来歴
武田信玄
- もとは武田信玄の所持という。
鳴神ノ御刀ハ昔武田信玄ノ刀ナリシが穴山梅雪ニ傅ヒソレヨリ荒川氏ニ傅フ
穴山梅雪→久松松平家
- のち穴山梅雪から荒川氏に伝わり、その後家康の異父弟の松平(久松)定勝の子・定綱が荒川氏の養子となった関係でこの兼定を贈られたという。
鎭國公御幼少ノ時暫ク荒川家ニ養ハレ玉ヒシ時参ラセシ
三河吉良氏の一族荒川義広は、妻が家康の異母妹市場姫。その子、次郎九郎弘綱は家康に召し抱えられ、命により穴山梅雪の娘を娶り家督を継いだ。甲斐守。義広は、永禄4年(1561年)吉良義昭が家康に叛いた時には家康に味方し、これにより市場姫を娶る。しかし永禄6年(1563年)の一向一揆のときには吉良義昭に与し、河内に出奔する。
次郎九郎弘綱に嗣子が無かったため、松平定勝の子の定綱が慶長元年(1596年)荒川次郎九郎弘綱の養子となる。同4年(1599年)次郎九郎弘綱は伏見城の戦いで死んだため家督を継ぐ。のち定綱は家康の命により荒川氏から松平氏に復している。のち下総山川藩、常陸下妻藩、遠江掛川藩、山城淀藩、美濃大垣藩、伊勢桑名藩と転封を繰り返し、子孫は越後高田藩、陸奥白河藩を経たのち、桑名藩へと戻り幕末を迎えた。白河藩時代の3代藩主が寛政の改革を行った松平定信である。穴山梅雪──娘 │ (東条吉良氏)吉良持清─┬吉良持広 │ └荒川義広─┬次郎九郎弘綱(荒川弘綱)━━(松平)定綱 │ ├平右衛門家儀 松平広忠──市場姫 └木崎殿(松平親能室)──娘(小浜藩酒井忠勝の正室) ├───徳川家康 於大の方 ├───松平定勝─┬松平定綱─┬松平定次(山城淀藩世継) 久松俊勝 └光寿院菊君├松平定良(伊勢桑名藩主) │ ├酒井忠正正室 │ ├松平定経正室 │ └鶴姫(酒井忠清正室) │ ├───酒井忠明(忠挙) ├───酒井忠清─酒井忠寛 酒井忠世──酒井忠行 (上野厩橋藩) ※荒川義広の子孫は「士林泝洄」による。 ※弘綱ら3名は市場姫(一場姫)の子であると思われるが、確証がないため2人の子とはしていない。
- 慶長19年(1614年)の大坂夏の陣では、松平定綱はこの刀を揮って功をたてたという。「寛政重脩諸家譜」では、首級十五、家臣などが二十七を得、計四十二の首級を獲たとする。
大坂での功により松平定綱は元和2年(1616年)に常陸下妻2万石、元和4年(1618年)に掛川3万石、元和9年(1623年)に山城淀3万5千石、寛永10年(1633年)見の大垣6万石、翌年従四位下に進み、兄・松平定行が伊予松山に15万石で移った後の伊勢桑名に11万3千石で入った。慶安4年(1651年)江戸において没。享年60。寛政9年(1797年)に鎮国大明神の神号を追祠された。
雅楽頭酒井家
- 松平定勝の娘・菊姫(光寿院)が雅楽頭酒井家の酒井忠行に嫁いだ際に持参したとされる。※「日本刀大百科事典」による。ただし「鎮国・守国両神公御遺事」では、忠行の子である忠清に定綱の娘・鶴姫(梅光院)が嫁いだ時としている。
酒井忠行の嫡男忠清が寛永元年(1624年)10月の生まれなので、「日本刀大百科事典」に従えばそれ以前に贈られたことになる。ただし定綱の娘・鶴姫も酒井忠清に嫁いでおり、その時に贈ったとすれば嫡嗣忠挙が慶安元年(1648年)3月の生まれなのでそれ以前となる。いずれにしても大坂の陣で佩用したという逸話とは矛盾しない。
養父・荒川弘綱が死んだ時に、文禄元年(1592年)生まれの定綱は数え年で7歳。同年に家康の命により松平姓に復している。大坂夏の陣では定綱22歳。1624年までに酒井忠行に送ったとすると定綱は32歳。1648年までに酒井忠清に送ったとすると定綱は56歳。なお定綱は慶安4年(1651年)に60歳で没している。
- しかし松平定信の「宇下人言」によれば、定綱の代ではなく伊勢桑名藩3代の松平定重が酒井家へ贈ったのだとする。となると、上の女性両名とも該当しないということになる。
其刀定重公の時酒井雅樂頭へ贈りぬと書しるしたり。
- 定信が正しいとすれば、定重が家督を継いだ明暦3年(1657年)には、慶安元年(1648年)生まれの酒井忠挙が10歳になっているため矛盾が生じる。なお梅光院鶴姫は慶安3年(1650年)死去とされ、その時に定重は6歳でしか無い。いずれかの話が誤りだと思われるが不明。そもそも定重からすれば酒井忠清は婿ではなく義理の叔父にあたる人物なので「後御婿酒井雅樂頭忠淸朝臣へ引出物トシテ賜り玉フ」自体がおかしくなる。
松平定重は伊予松山藩主・松平定頼の三男で、松平定良(定綱の嫡子。伊勢桑名藩2代)の養嗣子となった人物。養父・定良が病死した明暦3年(1657年)に跡を継いで桑名藩主となり、正徳2年(1712年)に五男・定逵に家督を譲って隠居している。享保2年(1717年)74歳で死去。
酒井忠清は、寛永14年(1637年)に家督を相続し、上野厩橋藩4代藩主となる。承応2年(1653年)に老中、寛文6年(1666年)に大老。延宝8年(1680年)に2万石を加増され15万石となるも、同年5月に家綱が崩御し綱吉が将軍になると大老職を解任された。延宝9年(1681年)に隠居し、5月19日に死去、享年58。
- 時期は不明ながらも、結局本刀鳴神兼定は雅楽頭酒井家へと渡った。
金象嵌を入れたのは雅楽頭酒井家の分家忠利系の酒井忠用(若狭小浜藩7代藩主)。忠利系は、酒井忠行の曽祖父酒井正親の三男忠利に始まる。詳細はわからないが、いつごろにか雅楽頭酒井本家から分家(小浜藩)の忠利系に移っていたことになる。
しかしそもそも、松平定綱の養父・荒川弘綱の妹・木崎殿の娘は、小浜藩主酒井忠勝に嫁いで2代藩主・忠直ほかを産んでいる。さらに、3代藩主・酒井忠隆の母も伊予松山藩主松平定頼(松平定綱の甥で、上記した定重の実父)の娘でもある。さらに酒井忠用自身が松平定儀の娘を正室に迎えている。この松平定儀は(定重の子であり)定綱系久松松平家6代で越後高田時代の4代藩主でもある。この松平定儀の3代後が松平定信である。
非常に入り組んでいるが、久松松平家と雅楽頭酒井家は非常に濃い関係にあり、さらに分家の小浜藩酒井家とも同様の関係にある。やはり定信の言う通り、酒井家に渡ったのは定綱やその娘あたりではなく、定重・定儀の頃の話だったのかもしれない(念のために書いておくと定重は忠用の生まれる5年前に死んでいる)。定信自身は御三卿田安徳川家の初代・徳川宗武の息子(吉宗の孫。一時期10代家治の後継将軍に推された)で、久松松平家に養子入りしたためその辺りの事情は書物を調べて知った可能性が高い。※しかし小浜藩酒井家は「雅楽頭」ではないため、江戸城中での逸話などは該当しない。【小浜藩酒井家と久松松平家の関係系図】 松平定勝─┬松平定綱 └菊姫 ├───酒井忠清──忠寛【伊勢崎藩】 酒井正親─┬重忠─忠世─忠行 └忠利─酒井忠勝 ┌忠与 ├───酒井忠直 ├忠存 松平親能 │ ├─忠隆──忠囿━━忠音─┴忠用 ├───娘 ┌慶雲院 ├─(女子4名) │ ┌松平定行─定頼┴松平定重─┬定逵──定輝 │ │ └松平定綱─定良━定重 └定儀─────定儀娘 荒川義広─┬木崎殿 └荒川弘綱━松平定綱 ※「松平定綱」が複数登場しているので注意
- 金象嵌は若狭小浜藩7代藩主酒井忠用によるもの
中小身ニ篆書ニテ鳴神ノニ字裏ニ和泉守兼定ト金象眼アルハ、酒井忠用朝臣ノ為サレシナリ。
酒井忠用は、享保7年生まれ安永4年没
久松松平家
- のち、定勝の子孫にあたる松平定信が酒井家から返還(別物の兼定との交換)してもらっている。
予好古のあまり此刀を得てともに其御社へ納めたきと思ひて人をして酒井へたずねしに、在りしと云ふ。又懇ろにたづねて、在らば望みたきなんどとは明らさまにはいはねど、其意含ませて聞かせければ、無きと曰。さらば彌よ惜み給ふにやと思はる。されど無きと云ふ上はせんかたなし。さるに或日春の頃也酒井雅樂と其外三輩と物語りする傍に予が居りしに酒井うち忘れしにや、吾方に鳴神てふ刀あり風神雷神の目貫付てなんと細々かたり給ふを聞きて、是ぞ我方へ歸る時也と思ひて、其刀は我方より参らせたる也と云ひぬ。其後吾臣をして使として其刀を乞ふ。此事辻勘兵衛家の記録に在り寳藏の覺書にもあり與へず。又鈴木清兵衛をして請ひ遂に得侍りぬ。今寳藏に納めて國家鎮護の寳とす。
この時、酒井家では返したくなかったらしく、当初は定信よりの問い合わせに見当たらないと返答している。しかし江戸城内での雑談で鳴神の話をしていたのが定信の知るところとなり、定信は辻勘兵衛を使いとして酒井家に鳴神を乞い受けたい旨を申し入れるも、これも断られてしまう。困った定信は武道の師である鈴木清兵衛(邦教)を通じて交渉した結果、ようやく取り返したのだということである。
- なお羽皐隠史著の「英雄と佩刀」では、酒井雅楽頭宗家の酒井「忠積」としている。
井伊掃部頭が和泉守兼定の刀を求めて試させた處が殊の外切味がよい兼定ほどの業物も少いなどトいふト、酒井雅樂頭忠積(さかゐうたのかみたゞつみ)が、いかにも兼定は切れる、拙者も鳴神兼定といふ刀を所持致すが殊の外の業物でござるトペロリト饒舌てしまつた。
ご丁寧によみがなまで振ってあるが、しかし酒井雅楽頭家に「忠積」という人物は見当たらない。雅楽頭家21代酒井忠績(さかい ただしげ)だと字面は似ているが、定信死の2年前に生まれているため時代が合わない。
なおネット検索すると、「忠績(ただしげ)」を「忠積(ただつみ)」と誤字しているものが多数あり(さらに績は”つみ”とも読める)、もしかすると羽皐もその意味で使った可能性がある。しかし酒井忠績が家督を継いだのは万延元年(1860年)であり、定信はとっくに亡くなっていて話を聞くことも取り返すこともできないため、誰かと勘違いしているのは明らかである。
- 天明4年(1784年)松平定信が藩祖の定綱(松平定勝の三男)を鎮国神社に祀った際に、この鳴神兼定を社宝として奉納した。
三方領知替えで桑名へ移ったのは文政6年(1823年)であり、天明4年(1784年)にこの鳴神兼定を社宝として奉納したのは、白河小峰城の祖廟である。文政7年(1824年)に桑名に戻ると旭八幡社を桑名城内に造替している。┌松平定行──定頼─┬定長【伊予松山藩3代】 │ └定重(→定良養子) 松平定勝─┼松平定綱─┬定良━━定重─┬定逵──定輝 │ │ └定儀━━定賢──定邦━━松平定信 │ │ │ │ │ └鶴姫 【厩橋藩】 【姫路藩】 └菊姫 ├───忠挙─忠相─親愛─親本─忠恭─忠以─忠道─忠実─忠学─忠宝─忠顕─忠績 ├───酒井忠清──忠寛 酒井正親─┬重忠─忠世─忠行 【伊勢崎藩】 │ 【上野厩橋藩】 │ └忠利─忠勝─忠直─忠隆─忠囿─忠音─忠存─忠用 【若狭小浜藩】
松平越中守定綱を祖とする松平越中守家は、初め桑名藩、のち定重の代に高田藩へと移り、定賢の代に奥州白河藩へと移った。松平定信はこの白河藩の3代藩主。さらに定信の子・定永の代に伊勢桑名へと戻り幕末を迎えた。
- 昭和59年(1984年)7月10日、桑名市の有形文化財に指定される。
刀 金象嵌 銘 和泉守兼定 金象嵌 銘 鳴神
かたな きんぞうがん めい いずみのかみかねさだ きんぞうがん めい なるがみ - 三重県桑名市の鎮国守国神社蔵。※伊勢桑名城本丸跡
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