鯨友成
鯨友成(くじらともなり)
- 古備前の友成作
- 出羽秋田藩主佐竹家の蔵刀。
由来
- 佐竹氏が出羽秋田(久保田藩)転封前の常陸領主だった頃、漁師が鯨をさばくのに無類の切れ味を示す刀があった。
- 藩主がそれを見たところ、古備前友成の作で「君万歳」という金銘があったのでさっそく召し上げたという。
一説に、八島源太左衛門よりの献上という。この場合、元は能登守平教経の所持であり屋島合戦の折に海に沈んだが、のち漁民がこれを引き上げ使っていたところを八島氏の先祖が見つけて買い上げ、のち佐竹氏に献上したという。
- 「本阿彌目利書」
友成
二尺六寸六分、表中ホドヨリ三寸餘リ上ゲニ大キナル切込アリ、千貫折紙参ル。
寛文五年六月佐竹修理殿ヨリ來ル
佐竹殿家来ニ、八島源太左衛門ト云者アリ。元此人所持也。人タガイシテ娘ヲ切リシカド少シモ切レズ。其後軍アリシトキ、同家中ノ者、此刀ヲ借ル。借リシ者、戦場ニ於テ、高名シテ、牛ノ皮具足ヲ着シタル者數人切ルニ、少シモ滞ルコトナシ。偖ハ此刀主人ヲ思フ故ニ八島ノ娘切レザルニヤト秘藏シテ所持セリ。云々
佐竹氏
- 佐竹氏は甲斐源氏の一族と同じく源頼義の子で源義家の弟の源義光の子孫である義光流源氏の一族。
- 平安時代、治承・寿永の乱においては、佐竹氏は清和源氏の一族にもかかわらず平家に与したために源頼朝によって所領を没収された。のち頼朝に従って奥州合戦に加わっているが、その際に無地の白旗を持参したところ頼朝の旗と等しかったことから紛らわしいとの理由で、扇を白旗の上に付けるよう命じられている。以後、佐竹氏は家紋として「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)を用いている。
- 室町時代になると、佐竹氏は早々と足利氏に呼応したことから守護職に任ぜられたものの、鎌倉公方を主君としたことで足利将軍家と鎌倉公方の争いに巻き込まれることもあった。
- 佐竹氏は鎌倉府の重鎮として活躍し、第3代鎌倉公方の足利満兼より関東の8つの有力武家に屋形号が与えられ関東八屋形の格式が制定されると、佐竹氏もこのひとつに列せられ、以後、佐竹氏の当主は「お屋形さま」の尊称を以って称された。
関東八屋形とは、宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家を指す。
- 戦国時代に入ると、「中興の祖」と呼ばれた15代当主佐竹義舜が現れ、山入氏を討ち、常陸北部の制圧に成功する。
- 義舜の曾孫で佐竹氏第18代当主の義重は、「鬼義重」の異名をとる名将であった。義重の時代に佐竹氏は江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。義重の武勇は鳴り響いており、上杉謙信から「夢切り(備前三郎国宗)」、「典厩割」を贈られている。
- 甲斐武田氏と同盟し、北条氏とは沼尻の合戦で対決している。さらに奥州南部にも進出し、伊達政宗と対立、蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585年)人取橋で対決している(人取橋の戦い)。
- こうして戦国時代を通じて領国を拡大し、秀吉の太閤検地の結果、常陸54万5800石の大名として認められた。
- しかし関が原の戦いでは家中の意見をまとめきれず、中立的な態度をとった結果、慶長7年(1602年)家康から突然出羽国への国替えを命じられ、出羽秋田へ転封となった。
- 秋田転封時には常陸国中の美女を集めて移住し、それが秋田美人の元になったという俗説まで残る。(夢切り国宗の項を参照)
関連項目
- 「君万歳」
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