鎬藤四郎
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凌藤四郎(しのぎとうしろう)
- 粟田口藤四郎吉光の作。
- 享保名物帳所載(ヤケ)
凌藤四郎 在銘長八寸八分 無代 御物
凌造り故に名く、細川家重代段々に伝り北畠中将信雄卿所持、伊勢藤四郎と云ふ、後ち黒田如水老求め秀次公へ上る、伊達少将政宗拝領後家光公へ上る
由来
- 凌ぎ造りであるため。
「鎬(しのぎ)」とは、刀身のうち、刃と棟の間の高くなっている縦の部分をいう。中国の刀剣は平造りでこのシノギがない。シノギに「鎬」の字をあてるのは、太平記が初見とする。
鎬は、刀身に厚みをもたせ折れ曲がりを防止する目的がある。ただしあまり高すぎると刃角が大きくなり切れ味が悪くなる。このため水心子正秀は「四六の矩 」といって鎬地を四、平を六にするのが適当であるという。
来歴
織田信長
- 室町幕府の管領細川家から諸家を経て、織田信長が手に入れている。佐久間信盛から献上ともいう。
織田信孝
- 信長公記によれば、天正9年(1581年)7月25日、長男信忠に「正宗」、二男信雄に「北野藤四郎吉光」、三男信孝にはこの「しのぎ藤四郎吉光」を与えたという。
御脇指、御三人へ参らせられ候。御使、森乱。中将信忠へ、作正宗。北畠中将信雄へ、作北野藤四郎、織田三七信孝へ、作しのぎ藤四郎。何れも御名物、代過分の由候なり。
(信長公記 巻十四因幡国取島城取詰之事)
- 三七信孝はこれを北条氏直に贈っており、小田原落城後に黒田如水が500貫で買い求め、豊臣秀次に献上したという。
豊臣秀次
- 文禄4年(1595年)7月15日の関白秀次自害の際、不破万作がこの藤四郎を使い自害している。
三番不破万作父母より請し五体に、てづから疵つく事不孝なれ共、忠義なればゆるし給へとて、拝領のしのき藤四郎にて、心よく腹をいたし是も御手にかかりにけり。
- 「御手にかかりにけり」とは秀次自ら介錯したという意味
豊臣秀吉
- 慶長3年(1598年)8月、秀吉の死後遺物として伊達政宗に贈られた。
大崎少将政宗 鎬藤四郎脇指
(秀吉公御遺物)鎬藤四郎吉光の脇差の外、虚堂の三幅一対 達磨 寒山拾得 牧谿 賛、山の井のお茶入。後に 山の井のお茶入を拝領す。
伊達政宗
- 徳川期になると政宗はこれを深く秘蔵し、毎年元旦にだけ差すことにしていた。
公毎年元日には白綾の御小袖に菊桐の御紋府たるをめさられ、御長袴の上に鎬藤四郎の脇指を指せらる。・・・・吉光は太閤より御遺物に賜る。天下の大名官位の次第を以て御自筆の書立には遙の末にあれども 御道具は大神君、加賀の利家 我等三人は優劣無し。・・・・・公方より内々御所望あれども進上せず。伊達の家のあらん限りは 段々譲り秘蔵せらるべし
(貞山公治家記録)
- 噂を聞いた将軍がこれを所望したときも、「これは太閤の形見だから」と言って拒絶したほどである。
- 伊達藩邸に将軍御成が決まり、先立って前日に老中ほかが伊達邸にて準備を指示することになった。終わりに政宗に献上物を問うと、政宗は心得があると言って相州貞宗の刀と山城来国俊脇差を示した。そこで将軍の意向を受けていた内藤外記(内藤正重)が「鎬藤四郎こそ(献上物に)然るべし」というと、政宗は憤激を露わにし、「この藤四郎は至っての首尾あって故豊太閤より拝領の由緒ある名品である。たとえ明日に日果てようとも、こればかりは進上すること相成らぬ。我家の名字ある限りこの短刀だけは献上せぬ。」と激しく拒絶したという。
二代将軍秀忠が政宗屋敷の御成りの前日、老中酒井雅楽頭忠世、土井大煩頭利勝、酒井讃岐守忠勝に、内藤外記、柳生但馬守等が訪れ、祝儀進上物の内見をし、内藤外記が「天下に隠れ無き名物の鎬藤四郎吉光の脇差を御進上然るべき」と申した途端、激怒し、進上を拒絶し(同)
仙臺士鑑に曰く、寛永三年春將軍家家光公が伊達政宗邸に臨む前日幕臣酒井雅楽頭、土井大煩頭、酒井讃岐守、柳生但馬守、内藤外記等來りて準備を議す、畢て外記献上物を問ふ、公政宗以下同斯く心掛けたりとて貞宗の腰物と來國俊の脇指を袋の儘にて示す、外記一見此度の進上物には如何、尤も初めての御成にてはなけれとちとよき物を上けられて然るへしと、公そはいと易きとなりとて大小百餘振を出して示す、天下の名物に非さるなし且つ曰く此度初めての御成にてもなし縦初めてにせよ此中に似合しき物なからんやおの々如何あるへきと外記老中の顔をのそき、仰の次第尤もなれと御成の日定まりてより公方には今か々と待せらる、とてもの御もてなしに名物の藤四郎を上けられて然るべしと言未だ畢らす、公勃然として外記に向ひ、扨も々其方の意地に似合いたる言分哉、
柳 藤四郎は至ての首尾にて太閤より拝領せし者、其名天下に隠れなし、世かはり如何に追従を思ふともいかて差上けらるへき、縦明日に果つるとも斯れはかりは進上相成らす、如何に外記此の百あまりの中に上くへき道具なきや、焼なほし下作打折のみには恐くは百あまりの道具と雖も、おの々方の腰なる刀脇指に較へて餘りはつかしき物はあるまし、上くへき道具なくは上けぬまてそ、斯る時に慾得の相談は入るまし、武士の存こそ千金に易へ難けれ、外記日頃の懇切今日見下け果てたり、左様の意地にては公方の御用にも立兼ぬへし、老中にも手を廻して言はせつるか、公方の内意ならんも甚以て不手際なり、吾れ家の名字ある中は献上はすまし、相談も大抵すみたり明日御供あれ、とてつと起て内に入る幕吏呆然聞く者手に汗を握らさるなし
なお「仙臺士鑑」によればこの御成の年を寛永3年とするが、実際の年数はよくわかっていない。なお秀忠の伊達屋敷への御成は、慶長18年(1613年)3月、元和5年(1619年)、寛永元年(1624年)、寛永5年(1628年)、寛永7年(1630年)に行われている。
また諸本により秀忠の御成なのか家光の御成なのかについても割れてしまっている。ただし将軍秀忠は元和9年(1623年)に将軍職を嫡男家光に譲って大御所となっており、「将軍秀忠」が正しいとしてこれ以前となると元和5年の可能性が高い。これが誤っていれば寛永3年(1626年)以降の寛永5年(1628年)ではないかと思われる。
いずれにしろケチを付けて「鎬藤四郎」を献上するように勧める人物は同じで、内藤外記(内藤正重)である。内藤正重は徳川十六神将の一人内藤正成の孫で、寛永3年に従五位下・外記に叙任されている。
- 政宗は晩年、嗣子忠宗に「余の死後この刀を将軍に献上し、代わりに禁止されている仙台城の増築を願い出ればきっと許されるであろう」と予言した。
其のち政宗病気になった時、嫡子忠宗を枕近く呼び、将軍鎬藤四郎を所望すること久しき事なれど吾わざと奉らず、吾死したる後ち其方より献上すべし、将軍必ず喜ぶならん、其時仙台城の二の丸を築く事を願出で、許しを得るがよい将軍も必ず許すで有ふと遺言云々
この時期、政宗はすでに寛永5年(1628年)に築いた若林城に移っている。
徳川将軍家
- 仙台藩2代藩主となった忠宗は、政宗の遺言通り寛永13年(1636年)7月21日に将軍家光に献上。
廿一日松平越前守忠宗襲封を謝して、左文字の太刀、時服五十、銀五百枚、黒毛馬一疋献じ、(略)故中納言政宗卿の遺物とて、正宗の刀、凌藤四郎の脇差、樋口肩衝、牧溪畫虚堂賛の三幅を献ず
(徳川実紀)
- 程なく二の丸増築の許可がおりたという。仙台城の二の丸は寛永15年(1638年)5月4日着工され、翌寛永16年(1639年)12月に落成している。
焼失
- 慶安3年(1650年)9月28日、将軍家光は世子家綱の住む西の丸の完成を祝してこの藤四郎を与えている。
廿八日西城にては大納言殿長の御袴めし。大納言殿謝し給ふ。三獻の御祝ありて。鎬藤四郎御脇差進らせたまふ。大納言殿よりは正宗の御刀進らせらる。
蒔絵二重短刀箱
- 伊達家では鎬藤四郎を収める為に蒔絵の箱を作って秘蔵していたが、将軍家に献上後は箱のみが残った。「蒔絵二重短刀箱 内箱桐繋 外箱歌所菱」
- 昭和4年(1929年)3月の日本名宝展覧会では伊達興宗伯爵所持。
慶長三年八月豊太閤が伏見に薨ずるの後、遺命により特に伊達政宗に賜わつたもの、短刀は「しのぎ藤四郎」これを寛永の初頃台徳院秀忠が懇望した際に、正宗は「これ一振り以外に献上すべき名刀を持たぬとあつては政宗の名折れぢゃ」とばかり、使者の内藤外記を斥けた程政宗愛着の品、その歿後「藤四郎」を遺言に依つて献上する際に、二代忠宗は外の短刀箱に執着を覚え、短刀のみを取出して献上したと云ふ由来つき、箱は桃山時代の豪壮華麗を誇る雄大な作、内側や縁までも蒔絵づくめの逸品、太閤の晩年を如実に物語るものとして興趣多し。
- 内外二重の箱で、かつ蒔絵の入念な作りになっている。伊達家でどれほど大事に愛蔵していたかが伺え、上記の逸話を裏付けるものである。
- 伊達忠宗は父政宗の遺言にしたがって鎬藤四郎を献上するも、この短刀を収めていた箱については思うところがあったのか同家に残した。
- この箱はのち本間家を通じて本間美術館収蔵となっている。
- 本間美術館については、「本間順治」の項を参照のこと。
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