鉄砲兼光
鉄砲兼光(てっぽうかねみつ)
刀
金象嵌銘 久留米侍従秀包所持鉄砲兼光
向井左近将監忠勝今者留所落
号 鉄砲兼光
2尺3寸4分、反り約七分
個人所蔵
由来
- 天正の中ごろ長泉寺の戦いにおいて、越前朝倉氏の家臣山崎長徳(山崎閑斎)が、鉄砲を擬している敵を鉄砲もろともに切ったことからこの名がついた。
長泉寺の戦いというのは天正2年(1574年)の越前一向一揆での戦いを指しているようだが、よくわからない。前年天正元年(1573年)8月の越前侵攻により越前朝倉氏は滅んでおり、越前では一向一揆が発生しており、天正3年(1575年)5月に長篠で武田軍を破って余裕ができた織田軍は、同年8月頃よりその鎮圧に乗り出した。
来歴
山崎長徳
- 山崎長徳(閑斎)は朝倉氏が滅ぶと明智光秀に仕え、天王山の戦いの後は柴田勝家の家臣佐久間安政に仕え旗奉行に、柴田氏が賤ケ岳の戦いで滅ぶと越前に進出してきた前田家に仕えた。
- 関ヶ原の戦いでは、加賀大聖寺城攻めで功があり1万4000石の所領を与えられた。
- 慶長16年(1611年)に隠居して「閑斎」と号す。さらに慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも冬・夏の両陣に参戦している。
前田利長→秀吉
- 「鉄砲兼光」は前田利長の手を経て豊臣秀吉に献上される。
毛利秀包
- のち、久留米侍従毛利秀包が拝領したものという。
異説
切銃
松浦家鉄砲兼光
- また毛利秀包が所持したもので、向井将監(向井忠勝)が象眼銘を入れ、のち松浦鎮信家に伝来したものであるという。この場合山崎長徳は関係がない。
- 明治の官報に登場する。
華族世襲財産附属物認可
庭園一箇所、(中略)
新藤五国光刀一口、椎政宗刀一口、延寿国吉一口、兼氏刀一口、来国行一口、近景刀一口、二字国俊一口、了戒龍眞指副一口、兼光中刀一口、金剛兵衛盛高一口、鉄砲兼光一口、平戸左衛門四郎盛吉一口、安綱刀一口、平戸左衛門四郎刀一口、平戸盛吉指副一口、平戸国吉一口、平戸左衛門四郎指副一口、肥前国盛房刀一口、平戸住盛吉指副一口、行光短刀一口、左一口、平戸盛廣短刀一口、無銘短刀一口
右従三位伯爵松浦詮所有ノ分同家ノ世襲財産附属物ト爲スコトヲ明治二十二年五月二日宮内大臣認可ス
爵位局
上杉家鉄砲切り
- なお上杉家にも鉄砲切りと称する助真が伝わった。一尺九寸四分と大磨上されている。
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