藤原保昌
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藤原保昌(ふじわらのやすまさ)
平安時代中期の公家
藤原南家巨勢磨流
正四位下・摂津守
- 摂津守として摂津国平井に住したことから「平井保昌」とも。
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概要
- 天徳2年(958年)生まれ、長元9年(1036年)没。
- 藤原南家巨勢磨流、右京大夫藤原致忠の子。母は元明親王の娘。
【南家巨勢麻呂流】 橘道貞 藤原鎌足──不比等──武智麻呂──巨勢麿──黒麻呂┐ ├──小式部内侍 ┌────────────────────────┘ 和泉式部 │ 元明親王娘 │ │ ├───藤原保昌 └─春継──良尚──菅根─┬─藤原元方─┬─藤原致忠─┬藤原保輔 │ │ └娘 │ │ ├───源頼信──源頼義 │ │ 源満仲──源頼光 │ └─祐姫 │ ├──┬─広平親王 │醍醐天皇───村上天皇 └─緝子内親王 │ ├──┬─長明親王 └─淑姫 ├─源自明 └─英子内親王(斎宮)
生涯
- 藤原保昌は、長和2年(1013年)に左馬権頭兼大和守に任じられ、以後円融院判官代・丹後守・摂津守・山城守・肥前守・日向守などを歴任し、正四位下に昇る。
昇殿
肥前守正四下
大和守丹後守
藏 摂津守右馬頭
保昌 勇士武略之長名人也
母元明親王女
長元九年卒七十九
- 保昌は武勇に秀で、御子左家の藤原道長・頼通父子の家司を務めていたこともあり、源頼信・平維衡・平致頼らとともに「道長四天王」と称された。
頼信、保昌、維衡、致頼とて、世に勝れたる四人の武士也
- 長和2年(1013年)頃、道長のすすめもあり女流歌人として高名な女官、和泉式部と結婚した。
- このときすでに前夫である和泉守橘道貞との間に小式部内侍が生まれていた。保昌自身も歌人でもあった。
百人一首に採録されている小式部内侍の「大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」という歌は、母である和泉式部が藤原保昌の任国である丹後に下っていた時の話である。
保昌山(ほうしょうやま)
- 祇園祭の山鉾に「保昌山」がある。明治時代までは「
花盗人山 」と呼ばれていたという。この呼び名は、藤原保昌を題材とした謡曲「花盗人」に由来する。 - 保昌は、当時の宮中において美貌と才能とで注目を集めた和泉式部に恋をするが、和泉式部は保昌の本気度を図るために難題を出す。それは紫宸殿の南殿の左近の梅をひと枝折ってきて欲しいというものであった。その要望通り保昌は夜間宮中に忍び込むが、北面の武士に見つかってしまい、矢を射かけられながらもなんとか梅をひと枝持ち帰り、和泉式部に渡したという。
- これを取材した世阿弥の能「花盗人」に基づき作られたのが、山鉾「花盗人山」ということになる。
なお「桜」項を見ればわかる通り、仁明天皇の頃にはすでに紫宸殿の梅は桜へと変わっているため、平安中期の和泉式部が梅を取ってこいと要求するのは辻褄が合わない。元となった謡曲「花盗人」では桜となっており、なぜ保昌山の保昌の人形が梅を手にしているのかは謎となっている。
郎党:清原致信
- 藤原保昌の郎党に、肥後守清原元輔の子である清原致信がいた。この清原致信の妹が随筆「枕草子」で有名な清少納言である。
- 大宰少監などを務め、藤原保昌の郎党としても行動していたが、寛仁元年(1017年)3月8日の夕刻に京の六角富小路の邸宅を源頼親の指示する騎兵および歩兵二十余名に襲われ殺害された。これは主君保昌が大和国内の利権を巡り源頼親(保昌の甥)と競合した際、大和の在地領主で頼親の郎党であった当麻為頼を殺害したことに致信が関与したことに対する報復であったと考えられている。
所持刀剣
包平作
- 藤原保昌所持と伝えられる包平は、蓮如上人の手を経てのちに徳川将軍家に伝わったという。
助平作島津家伝来
- また薩摩島津家に伝来したものは古備前助平が藤原保昌の懐剣であったという。刃長二尺一寸。銀象嵌「助平」
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