草薙剣


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 草薙剣(くさなぎのつるぎ)

天叢雲剣のこと
御由緒物

  • 三種の神器の一つで、「天叢雲剣」の別名。

    御劔者神代三劔、其一也、子細雖多不能注スルニ、其後爲ニテ寶物傳來セリ
    (禁秘抄)

  • 日本武尊に至って、名を「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と改めたという。
  • 現在は熱田神宮の御神体となっている。

    正二位熱田太神宮者 以神劔爲主 本名天藂雲劔 後改名草薙劔 其祠立於尾張國愛智郡

Table of Contents

 経緯

  • 天叢雲剣」は、スサノオののち天孫降臨の際に葦原中国へ降りる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に手渡される。
  • その後、皇居内には、天照大神の神体とされる八咫鏡と、この「天叢雲剣」が祀られることになった。

 日本武尊

  • 景行天皇の時代、熱田にあった「天叢雲剣」は東征を命じられた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に渡される。
  • 伝承によれば、日本武尊は駿河国において敵の放った野火に囲まれ窮地に陥る。しかし、この「天叢雲剣」を使って草を薙ぎ、窮地を脱したという。
  • この故事に倣い、「天叢雲剣」はこののち「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれるようになったという。

 熱田神宮

  • 東征を終えたヤマトタケルは、尾張熱田まで来た時に婚約していた宮簀媛命(ミヤスヒメ)と結婚する。ミヤスヒメの屋敷で夜中に目覚め厠に行ったヤマトタケルは、傍にあった桑の木に剣を掛けておいたが、寝所に戻る際には忘れてしまう。
  • 明け方に目覚めてこれに気づきあわてて厠に行ってみると、桑の木が異様に光り輝いていたという。ヤマトタケルは、ミヤスヒメにこの草薙剣を奉斎することを命じ、そこで建てたのが熱田社(現・愛知県名古屋市の熱田神宮)であるとされる。

    日本武尊淹留之間 夜中入厠 厠邊有一桑樹 解所帯劔掛於桑枝 出厠忘劔 還入寢殿 到暁驚寤欲取掛桑之劔 滿樹照輝 光彩射人 然不憚神光 取劔持歸 告媛以桑樹放光之状 答曰 此樹舊無怪異 自知劔光 默然寢息 其後語宮酢媛曰 我歸京華 必迎汝身 即解劔授曰 寶持此劔 爲我床守
    (熱田太神宮縁記)

  • その後、ヤマトタケルは伊吹山の神を討ち取るべく旅立つ。しかし伊吹山でヤマトタケルは病に倒れ、尾津(おづ。三重県桑名市多度町)から能褒野(のぼの。三重県亀山市田村町)へ到ったところで亡くなってしまう。
    伝承では、亡くなったヤマトタケルは白鳥となって大和を目指して飛んだという。日本書紀によれば、白鳥は能褒野から大和琴弾原、河内古市と飛んだ後に天に昇ったとされ、現在はその3ヶ所が墓所に治定されている。能褒野墓、白鳥陵(奈良県御所市)、白鳥陵(大阪府羽曳野市)
  • 上代において、草薙剣は三種の神器のひとつとなる。
    天叢雲剣」の項に記すように、鏡と剣については崇神天皇の時代に形代が作られ、その後、鏡は伊勢神宮で、また剣は熱田神宮で祀られることとなった。これ以降の三種の神器のうち、両神宮ではなく皇居に残る剣および鏡については形代とされるものである。

 盗難事件

  • 天智天皇の7年(668年)、道行という新羅の沙門(僧)がこの草薙剣を盗み出し、新羅に持ち帰ろうとするが、途中で風雨に遭遇して迷ったために戻ってきたという。

    是の歳に、沙門道行、草薙剣を盗み、新羅に逃げ向く。而して中路に風雨にあひて、芒迷(まと)ひて帰る。
    (日本書紀)

    草薙神剣者。尤是天璽。自二日本武尊催旋之年一。留任二尾張熱田社一。外賊偸逃。不レ能レ出レ境。
    (古語拾遺)

  • この時、草薙剣は伊勢においてひとりでに抜け出して熱田社に戻ったとも、あるいは僧道行が再び盗み出して摂津から出向するも海難のため難波に漂着し、剣を投げ捨てようとしたがどうしても身から離れず遂に自首して死罪になったともいう。

    天命開別天皇七年戊辰 新羅沙門道行 盗此神劔將移本國 竊祈入于神祠 取劔褁袈裟 逃去伊勢國 一宿之間 神劔脱袈裟 還着本社 道行更還到 練禪禱請 又褁袈裟 逃到攝津 自難波津國解歸國 海中失度 更亦漂着難波津 乃或人宣託曰 吾是熱田神劔也 然被欺妖僧殆着新羅 初 褁七條袈裟 脱出還社 後褁九條袈裟 其難解脱 于時吏民驚怪 東西認求 道行中心作念 若棄去此劔 則將免捉搦之責 乃抛棄神劔 劔不離身 道行術盡力窮 拜手自首 遂當斬刑
    (熱田太神宮縁記)

  • その18年後、朱鳥元年(686年)6月10日に、天武天皇が病を得た際に占いで草薙剣による祟りだと見なされたため、剣を尾張国の熱田社(熱田神宮)に送り置いたという。

    戊寅に、天皇(天武)の病を占ふに、草薙剣に祟れり。即日(そのひ)に、尾張国の熱田社に送り置く
    (日本書紀)

    天渟中原瀛真人天皇 朱鳥元年丙戌夏六月己巳朔
     卜天皇御病 草薙劔爲祟 即勅有司 還于尾張國熱田社自爾以來 始置社守七員
    (熱田太神宮縁記)

  • この盗難事件については諸説あり、また関連する伝承も多い。
  1. 「不開門」
    盗み出した際に、僧道行が熱田神宮北門の清雪門(せいせつもん)を通ったとされたため、その後清雪門は不開門(あかずのもん)として現在も閉ざされたままになっている。

      清雪門
    本宮の北門と伝えられ俗に不開門(あかずのもん)といって堅く閉ざされている 天智天皇七年(六六八)故あって皇居に留まられた神剣が朱鳥元年(六八六)
    再び当神宮に納められた折 二度と御動座なきよう門を閉ざしたという故事による

  2. 酔笑人神事(えようどしんじ)
    熱田神宮では、朱鳥元年に神剣が還座したことを祝い、毎年5月4日夜に「酔笑人神事」を行っている。この神事では、境内の灯を消した上で、影向間社・神楽殿前・別宮前・清雪門前の4ヶ所で悦びを込め高笑いをするため、別名「オホホ祭り」と呼ばれる。祝詞や神饌はなく暗闇の中で行われ、古来見てはならないとされる神面を神職が装束の袖に隠し持ち、中啓という扇で軽く叩いた後に笛の音に合わせて皆が一斉に笑うという神事になっている。
    酔笑人神事 | 初えびす 七五三 お宮参り お祓い 名古屋 | 熱田神宮
  3. 放出(はなてん)
    難読地名で有名な大阪府大阪市の放出は、僧道行が神罰を恐れ難波に漂着した際に草薙剣を放り出したことが由来だとされ、同地にある阿遅速雄神社(あちはやをじんじゃ)ではその由来を伝えている。それによれば、草薙剣は里人により拾われ、この神社に一時納められたのだという。

    天智天皇七年(六六八年)新羅国の僧、道行、熱田神宮より草薙御神劔を盗み帰途、難波津にて大嵐に遇ひ古代大和川口放出村に漂着 これ、御神罰なりと恐懼し御袖劔を放り出し逃げ去る、のち之を当社に合祀奉斎す、朱鳥元年(六八六年)勅旨により熱田宮に奉還す、
    (阿遅速雄神社 社伝)

  4. 鳥栖八剱社社伝
    名古屋市南区鳥栖にある鳥栖八剱社の社伝によれば、和銅元年(708年)、僧道行が草薙剣を盗んだ時に、元明天皇に知られるのを恐れ鍛冶に命じて新たに神剣を打たせ、熱田神宮別宮である八剣宮に奉納したとする。

      八剱社(帆立貝形前方後円墳)
     創建和銅元年(708)多治比真人
    ○多治比は7世紀の天武・持統・文武に仕えた貴族・当境内に神剣を造るため仮神殿にて、安部朝臣と三十七日間のみそぎを行い神宮に納めた勅使。
    ○和銅元年に新羅の僧、道行が熱田神宮の草薙劔を盗み去ったときこのことが、元明天皇に知られるのを恐れ、神剣を新しく作ることを命じ鍛冶屋がこの地で製作し熱田神宮の別宮の八剱宮へ、同年9月9日に奉納したという伝説がこの社の期限説話です、ただしこの盗難事件は日本の正史である日本書紀には天智7年(668)のこととしています。
    (八剱社縁起)

 平家都落ち

  • 寿永2年(1183年)7月平家都落ちの際に、三種の神器である草薙剣も持ちだされる。
  • 元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いで安徳帝と共に赤間関に沈んでしまい、鏡と勾玉は無事だったが、草薙剣は二度と上ることはなかった。

    二ゐ殿(二位尼平時子)今をかぎりとおもひさだめ、ほうけん(天叢雲剣)の腰にさし、しんじ(神璽、八尺瓊勾玉)をば脇にはなみて、先帝(安徳天皇)をばあぜちのつぼね(按察使局)にいだかし奉り、海へぞ入給ひける。
    しんじはうかみたりけるをとりあげ奉りぬ。寶劔は終にうせにけり。

 昼の御座の御剣での代用

  • その後、後鳥羽天皇ならびに土御門天皇は、「昼の御座の御剣」をもって神剣(草薙剣)の代わりとしている。
  1. 後鳥羽天皇元服の儀式:建久元年(1190年)正月3日
  2. 土御門天皇即位の礼:建久9年(1198年)正月11日
  • 承元4年(1210年)11月25日に順徳天皇が即位した際には、寿永2年(1183年)の6月(、、、、、、、、、、、、、)に伊勢神宮の禰宜成長より後白河法皇に献上されていた宝剣を神剣としている。

    ルニ承元譲位時、有夢想自伊勢進タテマツリシ已來、又准寶劔以劔爲先也、此劔普通蒔繪也、
    (禁秘御抄)

    寿永二年(、、、、)六月二十三日
    諸卿定申伊勢太神宮司祐成與造営使俊宗注内外宮修造遅滞事。近兼。祭主親俊奏法王云。夢想云。参神宮平服庭上。父親定并親章卿兩人過去者。在堂上。以親定傳仰云。於我者令向天宮給畢。禪定法王(後白河)御事。所令申付荒祭宮給也。可被奉御劔。早可進院也。又當宮守護事。以泰經可申沙汰也。此後夢醒了。後朝内宮一禰宜成長持來御劔蒔繪云。早可進院之由有夢想。仍自寶殿所取出也。請取件劔。忽上洛者。
    (百錬抄)
     ○按ズルニ、此劍ハ實宣卿記ニ豫ツニ、壽永ニ年ニ祭主ヨリ進レルモノニテ、百錬抄ニ擧ゲタルモノナルベシ、故ニ此二書ヲ附載セリ、然レドモ禁秘御抄ニハ承元四年順徳天皇受禅ノ時ニ進ル所トス、禁秘御抄ハ當時親ヲ禅譲ヲ受ケテ記シ給ヘルモノナレバ、今並擧ゲテ識者ノ考ヲ俟ツ、史ヲ按ズルニ、順徳天皇ノ受禅ハ、十一月二十五日ニシテ、禁秘御抄ニハ、此日ニ此劍ヲ用ヰルトシ、實宣卿記ニハ、始テ此ヲ用ヰルヲ以テ十二月五日ノ事トス、是必ズ其間ニ一誤アルベシ、要スルニ此劍ハ萬世無窮ノ寶器ト爲レリ、

    "伊勢太神宮司祐成"は大中臣祐成。"祭主親俊"も伊勢神宮祭主大中臣親俊。この頃、平氏は北陸道で負けており木曽義仲の上洛はまもなく行われると噂されており、その際に祭主親俊が夢を見た頃が語られ、上皇の伊勢行幸が検討されたという。
     つまり27年も前に献上されていた"御劔"を引っ張り出して使ったということになる。後鳥羽天皇は幾度も宝剣の捜索を行わせており、代用後も諦めがつかないのか、この順徳帝即位後の建暦2年(1212年)においても検非違使の藤原秀能を派遣して捜索させている。
     なお「實宣卿記」は滋野井実宣の日記で、引用は「昼の御座の御剣」項の順徳天皇欄に行った。

    大中臣頼基──能宣──輔親─┬輔隆───┐
                  └伊勢大輔 │
     ┌──────────────────┘
     │
     └大中臣輔経─┬親定─┬親仲─┬親章
            ├親房 │   └親隆─┬定隆
            └輔成 │       └能隆──隆宗
                ├親康──親俊
                └師親
    

 調査

  • 江戸時代末に同社の神官たち数名が見たという話が伝わっている。それによれば、長さ5尺ほどの木箱があり、その中に石函があり、さらに樟をくり抜いた上で金箔を附した箱が納められているという。その中に草薙剣が収まっており、長さ二尺七~八寸ほどであったという。
  • 明治の初め、勅命により調査することになり神官立ち会いのもとで開封していくが、最後の箱を開ける前に再度斎戒することにしたところ、三條実美より調査を見合わせるようにとの急使が到着したため中止されたという。
  • 後の太平洋戦争後の疎開時の話により、明治14年(1881年)5月25日付の勅封が山岡鉄太郎(鉄舟)により施されていたことがわかっている。

 太平洋戦争後の疎開

  • 太平洋戦争終戦直前の昭和20年(1945年)7月31日、昭和天皇は内大臣木戸幸一を呼び、草薙剣を疎開させるよう意向を漏らした。これに従い8月には疎開先の調査が行われ、同年8月22日、岐阜県高山市の水無神社(飛騨一宮)に運び込まれ、同年9月19日まで安置されたという。

    官幣大社熱田神宮において神剣奉遷用の外箱白木檜造りを新調皇室経費を以て制作したことにより、この日勅封に関する祭典を執行につき、勅使として侍従小出英経を差し遣わされる。小出は同神宮神殿内に参入し、従来の外箱の勅封明治十四年五月二十五日宮少輔山岡鉄太郎を差し遣わされ、施せしめたものを解き、新調の外箱に神剣を奉納し、御名御親筆の勅封紙と麻にて厳封の上、さらに勅使たる侍従の封を施した後、従来御奉納の外箱中に奉安し、施錠する。なお、予てよりその疎開を計画中の熱田神宮の神剣は、東海軍管区司令部の協力のもと、翌月十九日まで国幣小社水無神社岐阜県大野郡宮村に奉遷される。
    (昭和天皇実録 熱田神宮神剣の疎開)

    昭和天皇の侍従長であった入江相政の回想録によれば、箱が大きすぎて運び出せなかったため、長剣用と短剣用の箱をそれぞれ新調し、昭和天皇の勅封を携えて熱田神宮に赴き唐櫃を開けさせた。そこには明治天皇の侍従長・山岡鉄舟の侍従封(1881年5月25日)があり、それを解いたところ明治天皇の勅封があったという。このときも中身を確認せず、短剣用の箱に納め持ち出したという。

 現代

  • 現在、三種の神器としての草薙剣は、八尺瓊勾玉の形代とともに皇居・吹上御所の「剣璽の間」に安置されている。
    なお退位されたのちの上皇・上皇后ご夫妻の居所である皇居内の仙洞御所は、改修ののちに今上天皇の御所となる。それまでの間、草薙剣は赤坂御用地内の赤坂御所に安置される。
  • 御所(皇居)の天皇の寝室の隣に土壁に囲まれた塗り籠めの「剣璽の間」があり、そこに神剣(天叢雲剣の形代)と神璽(八尺瓊勾玉の形代)が安置されている。
    現代の三種の神器の扱いとして、草薙剣ではないとする指摘もあるが、「御物調書」では”草薙剣”と記す。


 異説など

  • 天目一箇命(あめのまひとつのかみ)が天照皇大神のために香具山(かぐやま)の鉄で鍛えた剣ともいう。
    天目一箇神は日本神話に登場する製鉄・鍛冶の神とされる。岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造り、さらに大物主神を祀るときに作金者(かなだくみ、鍛冶)として料物を造っている。神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことからとされている。

 関連項目


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