織田左文字


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 織田左文字(おださもんじ)


大磨上無銘
名物 織田左文字(おださ)
二尺二寸四分
彦根城博物館所蔵

  • 左文字の作
  • 享保名物帳所載

    織田左文字 磨上二尺二寸四分 代金百枚 井伊掃部頭殿
    信長公御物御二男信雄卿へ進せらる如何なる伝なるか掃部頭殿に有り、慶長四年極め

 由来

  • 織田信長所持、二男信雄(三介、茶筅丸)に譲ったことにちなむ。

 来歴

 信長→信雄

  • 信長から信雄へ。

 井伊直政

  • このあと井伊直政の所持になるまでの来歴が不明。
    • 元和元年(1615年)11月、大阪城攻めを賞して左文字の御刀を拝領しており、これが織田左文字ではないかとされている。
    • あるいは天正12年(1584年)6月、信雄の重臣である前田与十郎(前田長定)が、滝川一益の誘いにより羽柴秀吉陣営に寝返り、尾州蟹江城にこもり叛旗を翻している。井伊直政が駆けつけ鎮圧に働きがあった。この時に贈られたものとされる。(蟹江城合戦)
      前田与十郎は、翌7月に舟で城を退去しているところ、家康の命により妻子ともども殺害された。子の前田長種は降伏し、正室幸(利家長女)の縁を頼って前田家の家臣となり、富山城代を経て加賀国小松城代となり2万石を給された。のち加賀八家の前田対馬守家として幕末まで続いた。

 井伊家代々

  • 慶安4年(1651年)極月3日に本阿弥光温に鑑定に出し、金百枚の折紙を付けさせている。この時白鞘に本阿弥光温の鞘書をしている。

    名物織田左文字、長サ弐尺弐寸四分半、磨上無銘、表裏樋并影樋有之、慶安四暦卯極月三日、本阿(花押)

  • 幕末になると、彦根藩15代藩主井伊直亮(12代当主。13代井伊直弼の兄)は拵えを新調する。「おた左(織田左文字の意味)」と自ら書いてそれを鍔に透かし彫りさせ、この刀にかけていた。鞘は青貝に井桁紋くずしの蒔絵、金具はすべて緋色の素銅、柄糸は皮であった。
  • 明治19年(1886年)、靖国神社の遊就館に出品されている。
  • 大正9年(1920年)に杉原祥造が彦根の井伊家の居宅である千松館を訪れて所蔵刀を調査しているが、その中には含まれておらず、この時点で東京にあったことがわかる。
  • 大正12年(1923年)の関東大震災で焼身となってしまう。のち再刃されている。

    しかし、残念ながら大正十二年(一九二三)の関東大震災により、四〇〇口余もの刀剣が罹災し、ほとんどが焼身と化してしまった。(中略)焼土のなかからは、江戸時代から名物として知られた織田左文字や来源國次なども無惨な姿で発見されたという。

  • 現存し、彦根城博物館所蔵。
    平成31年(2019年)の展覧会「REBORN 蘇る名刀」、および令和4年(2022年)の企画展「彦根藩井伊家の刀剣」で展示された。情報を頂きました。ありがとうございます。


 織田左文字鐔

  • 拵えに付けられていた鐔(つば)は、「おださ透鐔」と呼ばれ、「今村押形」に所載。
    • 「おた左」(織田の左)の文字が透かしで入っており、さらに切羽台には「藤中将直亮書(花押)」と切りつけがある。文字は井伊直亮自身による。
  • 井伊直亮が左近衛中将に任じられたのが文化11年(1814年)5月のため、それ以降の製作ということになる。
  • この鐔は、現在佐野美術館所蔵。

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