斎藤妙純


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Table of Contents

 斎藤妙純(さいとうみょうじゅん)

室町時代から戦国時代の武将
美濃斎藤氏持是院家2代
従三位権大僧都
一超妙純

 生涯

  • 斎藤利国(入道妙純)は、美濃守護代である斎藤利永の子。
  • 通称は新四郎。諱は利国で、妙純は入道名である。右馬丞と称した。

 持是院家2代

  • 叔父にあたる斎藤妙椿の養子となる。
    持是院家
    美濃守護代斎藤氏の惣領家に対し、妙椿から分かれた家系を持是院家と言う。妙椿が文明12年(1480年)2月に死ぬと、養子となっていた妙純が跡を継いだ。

 美濃守護後継争い

  • 美濃守護土岐持益は、嫡男の持兼が早世したため孫で3歳の亀寿丸を跡継ぎに考えるが、守護代の斎藤利永がこれに反対して一色氏出身の土岐成頼を擁立し、争いが起こる。
  • 康正2年(1456年)に持益は隠居させられ守護職は土岐成頼が継ぐ。
    土岐成頼の妻は、斎藤利永の娘(妙純の妹)。
     斎藤利永は長禄4年(1460年)5月に死亡し、守護代(惣領家当主)は嫡男斎藤利藤(妙純の兄)が継いでいる。斎藤妙椿は甥の後見をしたとされる。
  • 斎藤利永の死後、斎藤妙椿は応仁の乱などを経て台頭し、甥の守護代家だけでなく美濃守護の土岐氏を凌ぐ勢力を築き上げる。

 異母兄との争い

  • 文明12年(1480年)2月に養父妙椿が死ぬと、同年5月、跡を継いだ妙純と、守護代である異母兄利藤との間で争いとなり、利藤は近江の六角氏のもとに亡命する(美濃文明の乱)。
    斎藤利永の前妻は赤松氏といい、利藤、典明を産んだ。後妻の子に利国(妙純)、利安(敬仲元粛)、利綱らがいる。
  • のち文明19年(1487年)幕府の調停もあり利藤は美濃に戻り守護代に返り咲くが、美濃国内の政治の実権は斎藤妙純が握った。

 船田合戦

  • 美濃守護土岐成頼は、四男の元頼を溺愛していたため、嫡男の政房を廃嫡して元頼に家督を継がせようと画策する。
  • 明応3年(1494年)12月、この家督争いが戦いに発展し、近隣の近江・越前・尾張も巻き込んでの争乱となるが、養父妙椿の推戴した土岐政房に家督と守護職を譲り、戦乱は一旦終結する(船田合戦)。
     土岐持益──┰土岐持兼──亀寿丸
           ┗土岐成頼(一色氏)
             ├──┬土岐政房───┬土岐頼武
    ┌斎藤利永─┬妙純妹  └土岐元頼   └土岐頼芸
    │     ├利藤
    └斎藤妙椿 └妙純
    

 最期

  • 明応5年(1496年)8月法印権大僧都となり、嫡男の利親に家督を譲った。
  • 明応5年(1496年)9月、妙純は京極高清の要請で近江の六角高頼討伐に向かうが、撤退途中に土一揆が蜂起し不意をつかれた妙純は嫡男利親以下1000余名と共に戦死してしまう。
  • その後持是院家は土岐守護代とも対立し衰退する。さらに後、土岐家では再びお家騒動が起こり、斎藤道三の台頭を許すことになる。

 ソハヤノツルギ

  • 家康の最期の逸話に登場する「ソハヤノツルギ」には「妙純伝持」の銘が残る。この「妙純」とは斎藤妙純であるとされる。
  • 甲斐武田家17代武田信縄または18代武田信虎に対し、同盟のカタとして斎藤妙純から贈られたものではないかとする。
    武田信縄は1471~1507年。武田信虎は1494~1574年。生没年から考えると、妙純が贈った相手は17代武田信縄であると思われる。その後、駿河の御宿家に伝来し、家康に献上されたとすれば繋がりに無理はない。

    なお宇都宮三河入道流の刀剣鑑定術を学び、のちに押形集「往昔集」を著した長井利安及び利匡親子は、美濃斎藤氏という。それによれば長井利安は斎藤氏の生れで、斎藤利永の息子(つまり斎藤妙純の兄弟)という。長井氏の名跡を継いで長井利安と称し、のち敬仲元粛と号した。この伝が正しければ、斎藤妙純の元に名刀があったとしても何ら不思議はない。詳細は「宇都宮三河入道」の項参照。

 系譜

        【美濃守護】
          土岐成頼 ┌土岐政房───┬土岐頼武
            ├──┴土岐元頼   └土岐頼芸
           ┌妹  
【美濃守護代斎藤氏】 │               ┌切手局
斎藤入道宗円─┬利永─┼利藤─南陽坊日運   ┌親俊─┴親長──親満
       │   │     蜷川親順──┼石谷光政
       │   │     【政所執事】│ ├───長宗我部元親室 
       │   ├利国妙純       └─娘
       │   │             ├──┬石谷頼辰
       │   └利安敬仲元粛──利匡──利賢  └斎藤利三
       │                      ├──春日局
       │               稲葉一鉄─┬─安
       │                    └稲葉貞通【豊後国臼杵藩】
       │         ┌斎藤利親──斎藤利良
       │【持是院家】   ├又四郎
       └妙椿━━利国妙純 ├彦四郎
              ├──┼朝倉貞景室(祥山禎公。孝景─義景)
              │  └京極高清室(京極高吉─高次)
          ┏野間入道娘・利貞尼
    甘露寺親長─┸元長─┬伊長
              └─娘   (古今伝授)
                ├──三条西実枝──公国──実条
        三条西実隆──公条──稲葉一鉄室

 妻:利貞尼

  • 妻は、野間入道の娘で甘露寺親長の養女。
  • 利親のほか、又四郎、彦四郎の兄弟。朝倉貞景室、京極高清室となった娘を産む。
  • 利国妙純の死後は剃髪して利貞尼と称す。利貞尼はのち妙心寺に大珠院、聖沢院、天授院、東海庵を寄進した。関白一条兼良の娘細姫ともいう。

 

  • 延徳3年(1491年)4月には娘を越前の朝倉貞景(9代)の元へ嫁がせており、朝倉孝景(10代)を生んでいる。
  • またもうひとりの娘は近江の京極高清に嫁がせており、京極高延を産んでいる。弟または養子とされる高吉は、のち高次、高知が大名として江戸期に残った。

 嫡男:斎藤利親(妙親)

  • 嫡男の利親は、新四郎と称す。
  • 持是院家の3代目当主を継ぐ。
  • 左衛門、大納言、権律師。
  • 法名紹興妙親
  • 明応5年(1496年)9月、父とともに近江に出兵し、六角高頼と戦うが、父とともに戦死する。子の利良が幼かったため、弟の又四郎が跡を継いだ。
  • 子の利良(妙全)については後述。

 次男:又四郎

  • 幼名は大黒丸
  • 持是院家の4代目当主を継ぐ。
  • 明応6年(1497年)元服し、又四郎を名乗る。
  • 伊勢長野氏の息女と結婚し、男子(大黒丸、後の斎藤又四郎)をもうけるが明応8年(1499年)に急死する。

 三男:彦四郎

  • 利親、又四郎の弟。
  • 父と長兄、次兄が死んだ後、持是院家の5代目当主を継ぐ。
  • 永正9年(1512年)、美濃守護土岐政房と対立、尾張に逃げるが織田氏の援助を得て墨俣城に籠城するが、土岐政房と甥の大黒丸(次兄又四郎の遺児で同名の斎藤又四郎)の軍勢に敗れ、再び尾張に逃げる。
  • 土岐政房が嫡男を差し置いて次男頼芸を後継にしようとしたため、永正14年(1517年)12月に嫡男頼武と次男頼芸の間で争いが起こる。数度の合戦を繰り返すが、彦四郎は永正16年(1519年)に朝倉孝景の援助を受けた土岐頼武・斎藤利良の連合軍に破れて失脚あるいは戦死したという。持是院家は甥(長兄の子)である利良が継いだ。

 孫:斎藤利良(妙全)

  • 妙純の嫡男利親の子。
  • 幼名は勝千代、新四郎と称す。
  • 兄の死により、持是院6代目となる。
  • 持是院妙全。
  • 美濃守護の争いに加わり、土岐政房の嫡男頼武側につく。
  • 朝倉家の援助を得て頼武側が勝利すると、持是院家の家督も叔父である彦四郎から利良へと移った。
  • 天文7年(1538年)に死去。子はなく、近衛稙家の庶子とされる多幸丸が斎藤道三の養子となり、斎藤正義と名乗って持是院家の名跡を継いだとされる。
    斎藤正義は道三の養子となり、天文7年(1538年)に烏峰城主となっている。しかし天文17年(1548年)2月、配下である久々利城主の久々利頼興の館へ酒宴に招かれ、謀殺された。33歳。さらに後、この久々利頼興を殺害して「鵜丸」を入手したのが森長可であるとされる。詳細は「土岐家伝来の鵜丸を参照。

 持是院家(じぜいんけ)

  • 高名な斎藤妙椿を初代とする美濃斎藤氏の家系。

 関連項目


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