手掻派
手掻派(てがいは)
鎌倉期に大和で活躍した刀工一門
手搔、転害、天蓋(てんがい)、輾磑(てんがい)
- 東大寺転害門(輾磑門)前に住した刀工の一派で、東大に属していたと考えられている。
転害門とは、吉祥の位置(大仏殿の西北)にあり害を転ずる意からの名だという。あるいは平城京の佐保路に面したことから佐保路門とも、源頼朝を刺し殺そうとして平景清がひそんだとの伝説から景清門ともいわれている。
- 大和派の中でももっとも一門が多く、作刀が少なからず現存し、その祖である包永の作もよく残っている。
- 初代包永は貞応あるいは正応のころとされる。同銘数代あり。
包永
初代包永
- 大和手掻派の祖
- 詳細および著名作などは手掻包永の項参照
- 包利の子、または同人、重利の子、金王の子とする諸説がある
- 通称平三郎(平二郎、平四郎など)「平三」とも打つ。後に勢州に移り、雲林院住とも打つ。
- 没年は、後裔と称する文殊家の系図では、文応元年12月30日卒、60歳。菩提寺の「般若寺縁起」では正安ごろとなっている。
- 刀剣書では貞応(1222)を最古とし、正元(1259)、正応(1288)、元応(1319)、元亨(1321)
二代包永
- 嘉暦2年(1327年)の裏銘のあるものを二代作とする。
- 通称は平三郎、忠次郎
- 文永9年(1272年)卒
三代包永
- はじめ包清。
- 通称四郎左衛門、平三郎、平四郎など
- 般若寺から文殊の称号を許され、文殊四郎と称す
- 大和国包永
- 乾元元年(1302年)卒
四代包永
- 応永ごろ
- 藤原包永
包治
- 大和国包治。二字銘もある。
- 徳治年間
包氏
- 大和志津、志津三郎兼氏
- 包氏:応長年間。
包清
- 初代包永の子という
- 通称、勝左衛門
- 二字銘を切る。
- 藤原包清とも切る。文明、明応
- 大和奈良手掻住藤原包清では永正、大永
包次
- 初代包永の子という
- 二字銘。文保、元徳、建武。
包吉
- のち美濃へ移り、善定兼吉と称したという
包真
- 包永系、国次系の説あり
- 初代包真は藤原包真と切る。康安
- 二代包真:二字銘包真。応永
- 三代包真:二字銘包真、和州包真作。永享、文明。伊賀に移ったという
- 四代包真:藤原包真作。永正
包国
- 包光(包吉の子)の子とし、駿河文殊重国の父とする。駿河府中に移住して駿河文殊を開いたのは包友ともいう
関連項目
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