肥前忠吉(刀工)


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 肥前忠吉(ひぜんただよし)

新刀期の刀工

Table of Contents

 初代:肥前忠吉

忠吉初代
五字忠
新刀最上作、最上大業物

 生涯

  • 本名は橋本新左衛門尉。
  • 龍造寺家の家臣である橋本道弘の子として、元亀3年(1572年)佐賀郡高木瀬村長瀬に生まれる。
  • 橋本家は元々武士で少弐氏の一族とされる。しかし祖父の盛弘と父の道弘は、天正12年(1584年)3月24日に島原での沖田畷の戦いの際に討死をしている(父は病死ともいう)。この時忠吉はまだ13歳であったため、軍役叶わずとして橋本家は知行断絶した。
  • 忠吉は一族であるという永瀬村の刀工(これが肥後伊倉の同田貫善兵衛だとする)に養われ、鍛刀の手ほどきを受けた。
  • 慶長元年(1596年)に上京して山城国の埋忠明欽・明寿父子の門人となり、わずか三年で秘伝を伝授される。
  • 慶長3年(1598年)に肥前佐賀に戻り、藩主鍋島勝茂に扶持米二十三石で抱えられ、長瀬町の地所を与えられたため同地で作刀にあたった。城主鍋島家庇護のもと、100名を超える刀工を排出した。
  • 寛永元年(元和10年)再び上京し、同年2月18日に武蔵大掾を受領(寛永元年)。忠廣と改名する。
    再上京は元和元年とする古書がある。元和10年2月30日に改元。
  • 寛永9年(1632年)8月15日死去。享年66。
  • 息子に近江大掾忠広(二代肥前忠吉)

 

  • 制作の時期により、五字忠銘、秀岸銘、住人銘、改銘後の忠広銘に分かれる。
    1. 五字忠銘】:初期は「五字忠(ごじただ)銘」といって「肥前国忠吉」と五文字の銘がほとんどのようである。 古刀の来物に見えるため愛好される。
    2. 秀岸銘】:秀岸(しゅうがん)というのは長瀬天満宮の宮寺・苗琳坊の僧侶といい、この人の書く字を真似て切った癖のある切銘のことを言う。小振りな五字銘。坊主銘、山伏銘とも呼ぶ。
    3. 住人銘】:秀岸銘をやめてのち、「肥前国住人忠吉作」などと切る住人銘になる。慶長末ごろから武蔵大掾を受領まで。ぐの目乱れが多く、切れ味は最も優れる。住人忠吉。
    4. 忠広銘】:さらに晩年、寛永元年(1624年)に「武蔵大掾」を受領し、名を「忠廣」と改め「武蔵大掾藤原忠廣」と切る。「廣」の字の第一画が菱形となる。古来別人説も唱えられたが、佐賀橋本家文書により同一人物であることが裏付けられた。
  • 「忠」の第三画の横棒を、右から左へ逆鏨(ぎゃくたがね)で打つ。通常は左から右へ走らせる。
銘「肥前国住武蔵大掾藤原忠廣/寛永五年八月吉日/寛文三暦癸卯長月中一日脇毛三胴金弐ツ胴切落/寛文四年(ママ)辰四月廿七日於武州江府三ツ胴切利/山野勘十郎久秀(花押)の金象嵌あり」長二尺四寸九分、反り四分。鎬造、庵棟。尖り心の小丸掃きかけかかり浅く返る。昭和18年清田政人氏蔵。
銘「肥前國住藤原忠廣/寛永七年八月吉日」昭和48年4月23日に佐賀県の重要文化財指定。佐賀初代藩主鍋島勝茂の佩刀という。鍋島報效会所蔵。
銘「肥前国忠吉」の五字銘忠吉。表に倶利迦羅竜、裏に不動明王と梵字が彫られている。彫り物は埋忠明寿。昭和44年4月21日県指定有形文化財。長崎歴史文化博物館所蔵。
銘「肥前国忠吉」昭和15年2月23日重要美術品指定。四居満次郎所持。
銘「肥前國住藤原忠廣/寛永七年八月吉日」長75.6cm、反り1.2cm。初代忠吉59歳時の作。初代鍋島勝茂の佩刀と伝わる。受領名のない献上銘であり藩主による注文打とみられる。佐賀県指定の重要文化財。佐賀市徴古館所蔵
短刀
銘「武蔵大掾藤原忠広/刳物埋忠七佐」昭和13年5月10日重要美術品指定、河瀬虎三郎所持。
短刀
銘「肥前國住藤原忠廣/寛永八年八月日」昭和42年4月22日に佐賀県の重要文化財指定。佐賀藩10代藩主の鍋島直正が愛用したもので、なかごに「閑叟所持」の金象嵌が入る。佐嘉神社所蔵。
太刀
銘肥前國忠吉。鍋島直大寄進。大正12年(1923年)12月の関東大震災により消失し、大正14年(1925年)4月24日に国広の短刀と共に旧国宝指定を解除。

左記ノ国寶ハ東京市麹町永田町侯爵鍋島直映邸ニ於テ保管中 大正十二年九月一日ノ震災ニ因リ焼失シタルモノト認メ国寶臺帳ヨリ削除セリ

銘「肥前国忠吉」。長二尺三寸三分。伊達宗城所持、実家の山口家にあったものだという。
伊達宗城は、大身旗本・山口直勝の次男として生まれた。祖父・山口直清は宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男で、山口家の養嗣子となった人物。
  • 金象嵌「萬治元年戌九月三日二つ胴截断山野加右衛門永久花押」二尺二寸七分
  • 金象嵌「二つ胴截断山野加右衛門永久花押」二尺三寸六分
  • 「肥前国陸奥守忠吉」「享保三年五月廿一日 脇毛土壇払斬味上々 斬手堅田勘太夫」二尺四寸六分半
  • 「肥前国住陸奥守忠吉」「天和元歳戌十月廿一日、二つ胴一二の胴重之切落、筧半之丞拾九歳手に而為勝花押」二尺三寸四分

 二代:近江大掾忠広

  • 近江大掾忠広
  • 慶長18年(1613年)の生まれ
  • 慶安年間 1648-1652
  • 二代にだけ五字銘がない。
  • 初代の後妻の子という。終世「忠吉」を襲名できなかった。
  • 寛永18年(1641年)7月22日に近江大掾受領。藩より屋敷と切米二十石拝領。
  • 元禄6年(1693年)5月27日死去。享年81。
  • 大業物
  • この二代から九代までの墓は、佐賀市八戸にある浄土真宗本願寺派の長安寺にある。

 三代:陸奥守忠吉

  • 陸奥守忠吉
  • 二代忠広の子
  • 通称新三郎。万治3年(1660年)10月27日に陸奥大掾、翌年8月16日に陸奥守受領。
  • 父に先立ち、貞享3年(1686年)正月没。
  • 「陸奥大掾藤原忠吉」「肥前国陸奥守忠吉」「肥前国忠吉」
  • 最上大業物
  • 万治年間 1658-1660

 四代:近江大掾

  • 元禄年間 1688-1703。三代陸奥守の子。
  • 通称源助、のち新三郎。
  • 元禄13年(1700年)3月10日に近江大掾受領。
  • 正徳元年(1711年)には幕府から朝鮮国王に贈る薙刀を鍛造。
  • 正徳5年(1715年)7月18日、伊賀守菊平と密通した妻を雪隠に追い詰めて切ったため、「雪隠忠吉」と呼ばれた。
  • 「近江大掾藤原忠吉」「肥前国住近江大掾藤原忠吉」「肥前国忠吉」
  • 延享4年(1747年)9月80歳で没
  • 良業物。
  • 初四代まで刀剣の業物一覧に列記されている

 五代:近江守忠吉

  • 橋本新左衛門
  • 寛延3年(1750年)に近江守受領
  • 「近江守忠吉」「肥前国忠広」「肥前国近江守忠吉」「肥前国忠吉」
  • 安永4年(1775年)6月15日80歳で没

 六代:近江守忠吉

  • 橋本新左衛門
  • 寛政2年(1790年)に近江守受領
  • 初銘「忠広」、父の死後「忠吉」襲名
  • 安永4年(1775年)から寛政2年(1790年)までは「肥前国忠吉」

 七代

  • 忠広銘のまま文化13年(1816年)没46歳
  • 享和ごろ(1801-1804)。
  • 「近江守忠吉」

 八代

  • 7代の養子。
  • 吉川松根の兄で、通称新左衛門、のち内蔵允
  • 受領はないが、初代・三代に次ぐ名工と謳われた
  • 安政6年(1859年)5月59歳で没

 九代

  • 明治20年(1887年)に死去

 土佐守忠吉

  • 初代忠吉の弟、あるいは初代忠吉の娘婿という。
  • 寛永元年(1624年)に忠吉銘。
  • 「肥前国住人忠吉」「肥前国藤原忠吉」「肥前国住人土佐守藤原忠吉」「肥州住忠吉」
  • 土佐忠。

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