徳善院貞宗
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徳善院貞宗(とくぜんいんさだむね)
- 享保名物帳所載
徳善院貞宗 長一尺一寸七分 代金三百枚 紀伊国殿
表梵字剣爪、裏護摩箸爪有り、織田城之助信忠公御所持、息岐阜中納言殿へ御譲り、秀吉公へ上る、後ち五奉行前田徳善院玄以法印拝領、子息主膳正殿へ伝ふ、家康公へ上る、紀伊国殿へ御譲り
- 表裏には不動明王と金剛夜叉明王の梵字に三鈷剣と香箸が巧みに彫られている。
- 真の棟、差表は素剣の上に梵字、下に鍬形。裏は護摩箸の上に梵字、下に鍬形。
- 鋩子小丸、中心うぶ、目釘孔2個。無銘だが朱銘の跡が残る。
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由来
- 前田玄以(徳善院と号す)が所持したことにちなむ。
玄以が「徳善院」と号したのは文禄5年(1596年)以降とされる。本能寺の変後は織田信雄に仕え京都所司代に任じられていたが、のち秀吉に仕え、豊臣政権下でも京都所司代を務めており、文禄4年(1595年)に丹波亀山5万石を与えられる。
来歴
信忠
- はじめ織田信忠(信長嫡子)が所持していた。
前田玄以(徳善院)
- 本能寺の変の際、二条城(二条御新造)を囲まれた信忠は、子の三法師(後の三郎秀信、信長嫡孫。天正8年生まれで当時数え年で3歳)を前田玄以に託し、この短刀を贈ったという。玄以は三法師を抱え尾張清州城まで落ち延びる。
信忠から三法師秀信に贈ったという説もある。その場合、秀信から秀吉へと渡り、その後前田玄以へと渡ったことになる。
秀吉
- のちに玄以から秀吉に献上される。
前田玄以
- 慶長3年(1598年)秀吉の死に際しての形見分けで、前田玄以(徳善院)に与えられた。
- 前田玄以は関ヶ原の戦いでは西軍に付くが、一方で家康に三成の動きを報じるなど内通行為も行っている。その後は秀頼の後見人を申し出ることで大坂城に残り、更に病気を理由に最後まで出陣しなかったことなどを評価され、戦後も丹波亀山を本領安堵され初代藩主となっている。
- 玄以は慶長7年(1602年)5月20日に没。
前田茂勝
- 子の前田主膳正茂勝は丹波八上城に移されるが、発狂して家臣を多く殺したとして、慶長13年(1608年)に改易となる。
茂勝は熱心なキリシタンであり、幕府から危険視されていたともいう。改易後は甥(姉妹の息子にあたる)の堀尾忠晴に身柄を預けられ、キリシタンとして真面目な生活を送ったという。元和7年(1621年)に40歳で死去。
家康→紀州徳川家
- 貞宗はこれより前に家康に献上していた。後に紀州徳川家に下賜される。
伊予西条松平家
- 徳川頼宣は死の前年である寛文10年(1670年)に、三男の松平頼純が伊予西条松平家に封じられた時にこれを与えた。
- ただし本阿弥光柴押形や享保名物帳では紀州家所蔵となっている。
これらを考慮すると、西条松平藩初代松平頼純ではなく、2代の松平宗直(頼純五男、のち紀州家の家督を継ぎ徳川宗直を名乗る)、もしくは3代松平頼渡(頼純七男)の時代に移った可能性もある。
山本悌二郎
- 大正13年(1924年)の同家の売立で出品され、5200圓で山本悌二郎が入手。
山本悌次郎は新潟県佐渡郡生まれの実業家。明治33年(1900年)台湾製糖(三井製糖の前身企業の一つ)設立に参画し、社長となる。のち政治家へ転身し、昭和2年(1927年)の田中義一内閣、および昭和6年(1931年)の犬養内閣において、農林大臣として入閣する。「加藤国広」も同様に山本が入手後三井家に譲渡しており、現在は同様に三井記念美術館所蔵。
山本悌次郎はこれ以外にも刀剣を蒐集しており、一部が関東大震災で罹災した。詳細は「関東大震災>山本悌次郎」の項参照。
三井家
- のち三井家が購入。
- 昭和12年(1937年)5月25日旧国宝指定。三井高公男爵所持。
短刀 徳善院 貞宗在銘 一腰
作者 彦四郎貞宗
作風 長 一尺一寸七分 表爪付劍上に梵字 銘 貞宗
裏 爪付護摩箸上に梵字 銘 徳善院
形體 寸延先反り
刄紋 大亂
拵 出鮫 合口造
目貫 金無垢二疋獅子
小柄 笄 赤銅七子裏哺金金三疋獅子 置金
鞘 黒呂色 菱紋高蒔繪
由緒 此短刀は織田信忠所持せるを其子秀信へ譲り、秀信之を豊臣秀吉に上る。後前田徳善院玄以拝領す、玄以の息之を徳川家康に獻じ、家康更に紀州徳川家に賜ふ。世に名物徳善院貞宗と稱せらる。
- 昭和27年(1952年)11月22日新国宝指定。
- 現在公益財団法人三井文庫が所有しており、三井記念美術館蔵で見ることができる。
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