御掘出貞宗
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- 同名刀がある。
- 前田家伝来刀が現在「幅広貞宗」の名で重要文化財指定を受けているものだと思われるが、詳細は不明。来歴も一部矛盾があるが、二口の刀を混同したものの可能性も否定できない。ただし、そうなると享保名物帳に載る名物「御掘出貞宗」がいずれのものなのかがよくわからない。※調査中です
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御掘出貞宗(おほりだしさだむね)
- 享保名物帳所載
御掘出シ貞宗 長二尺三寸一分 代三千貫 松平加賀守
家康公於伏見関ヶ原以後召上げらる正宗の御目利にて光徳に仰付られ貞宗に究る、依之御堀出しと御名付被遊候由、為御遺物利常卿御拝領、万治二年の究なり
- 鎬造、庵棟、重ね薄く、身幅広く、鋒大きく延び、反りの浅い姿。帽子は僅かに乱れ込み、尖りて返り、金筋かかり、沸つき、表裏にやや幅広く浅い棒樋を巧みに搔流している。なかごは大磨上、先剣形。
- 目釘孔2個
由来
- 関ヶ原戦後、徳川家康が伏見で見出したという。
- 家康は、自ら鑑定して正宗であろうとした上で本阿弥光徳に見せたところ、その子である貞宗に極まった。これは掘り出しものだと喜んだために名付けられた。それ故に「お掘り出し」と号する。
「掘出(ほりいだし・ほりだし)」とは、町などに出かけた折にそこで新たな価値を付与された道具類を見出すこと。現在の「掘り出し物」の意味と同じ。
来歴
家康
前田利常
- 元和2年(1616年)4月、死期の迫ったことを悟った家康は枕頭に前田利常を呼び、これを形見として与えている。この時家康は、利常に対し「お手前を殺すように度々将軍(秀忠)に申し出たが、将軍はこれに同意せず何らの手も打たなかった。それゆえ我らに対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍の厚恩を肝に銘じよ」と述べたという逸話が残る。
前田利常肥前守(元和)二年四月、東照宮の御遺物貞宗の御刀、玉澗筆月の畫幅を拝賜す、これよりさき木村屋肩衝の御茶入をたまふ、これかつて父利長が献ぜしところなり。
(寛政重脩諸家譜)微妙院様には御手前身代果可申由、我等度々申候へ共、将軍達而同心無之故無其義候。左候得ば我等恩は少も無之、将軍の厚恩に候。此義御忘れ有間敷由。
(懐恵夜話)
- ただし「駿府御分物刀剣元帳」の上々御腰物に載っているため、これに従えば少なくとも家康薨去後までは駿府にあったことになり、その後2代将軍秀忠より拝領したということになる。
ただし、家康薨去は元和2年4月17日であり、水戸家での受け取りは同年11月26日である。「上々御腰物」は分与先記載がなくすべて将軍家に入ったものとされるが、生前に家康直々に形見分けしたものとして記載がなされたものと考えれば矛盾しないことになる。
前田家代々
- 万治2年(1659年)に三千貫、寛文8年(1668年)に百五十枚の折紙が附く。
昭和以後
- 昭和36年(1961年)の「正宗とその一門」では篠原省三氏所持。
この「篠原省三」氏は、「田畑麦彦」名義で活動していた作家と同一人物と確認が取れた。1.重文等指定での篠原三千郎氏と篠原省三氏が同住所であること、2.さらに篠原三千郎氏の息子が田畑麦彦名義で活動していた篠原省三氏であることの裏が取れました。「五島の競争相手であり、懐ろ刀であつた篠原三千郎が他界した。(略)篠原の息子田畑麦彦は、最近まで東映の企画本部にいたが、彼の性に合わないらしく辞め、昨年『祭壇』という自伝的小説を出版し、新進作家として将来を嘱目されているが、その遺族にもまた五島の温かい手がさしのべられている。」
田畑麦彦こと篠原省三氏は、昭和3年(1928年)篠原三千郎とナツ(夏子)の間に三男として生まれ、平成20年(2008年)に80歳で没。夫人は作家の佐藤愛子(のち離婚)。
父の篠原三千郎氏は東京急行電鉄株式会社(東急電鉄)の5代目社長で、愛刀家として高名(※但し篠原三千郎氏が御掘出貞宗を所持していたことは未確認)。なお篠原三千郎の夏子夫人は、服部時計店(現セイコーホールディングス)の創業者である服部金太郎の娘。
- その後所在不明となっていたが、平成28年(2016年)5月所在が判明した。判明の理由は、現所有者が所有者変更の届け出を提出してきたためとなっている。
- 国指定文化財等データベースでは、所有者名は空欄で、所在都道府県は”大阪府”となっている。
- 日本刀剣博物技術研究財団での所蔵と思われる。
御掘出貞宗
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